蹉跌までの道T

「あー旦那!いたいた!お願い待ってーー!!」
それはもう深夜とも言えるであろう頃合いのこと。 セフィロスの住む高層マンション内のエレベータ。 視界の端に必死の形相で駆けて来るザックスの姿を認めたとき、 セフィロスは「閉」のボタンにかけた人差し指をどう動かしたものかと逡巡した。
結局逡巡しているうちにザックスがエレベータに滑り込み事態は収拾を見せたのだが、 残業の所為か良い加減自分は疲労しているのかもしれないと、 セフィロスはそう思いながら最上階のボタンを押した。
「はあ、はあ……旦那、明日休みとってるよな?明日提出のこの書類…… 旦那のサインがいるんだけどさ」
一時的に脳内の酸素が不足している所為でちぐはぐな日本語、 けれど通じるには通じたようで、セフィロスは冷たい目線を部下のソルジャーに注いだ。
「それはこんな時間にオレを拘束しなければならないほど重要なことか?」
「うう……そりゃ、俺が忘れてたのが悪いんだけどさ……あ、ほら、 コレやるから見逃してくれよ」
そう言ってザックスはポケットからスルメの細切りを一本取り出してちらつかせる。
「……もらおうか」
「やった!旦那、大好き〜」
ザックスから受け取ったスルメを口にくわえて軽く齧ると、 独特の味が口中に広がる。そして頃合いを見計らったようにエレベータは最上階に到着した。 高層マンションの最上階、それは一階まるごとセフィロスのプライベートルームだ。 セフィロスはおもむろに部屋のエントランスへ向かおうとして、 その瞬間、向かおうとして、何故か固まった。
「……どしたの?」
突然動きを止めたセフィロスを訝しんで、 ザックスがひょいっとセフィロスの背後から顔を覗かせると、 「あらぁ」と驚嘆とも歓声ともとれる声を出した。
そこにいたのは金いろ毛並みの仔猫。そう、仔猫だった。 エントランスのドアのまん前、膝を抱えて丸まっている。 ……何て小さな。ジプジーの女ですらもっと大きいのに。
くわえていたスルメがぽろりと落ちて。
あどけなく寝顔、今は閉じられた瞼、音の鳴りそうなほど長い睫毛。 その奥にある宝石は何色?……青が良いな、夜明けの紺青、 ブルーサファイア。少年とも少女ともつかぬ曲線。色白の頬っぺ、 ぷっくりとした下くちびる、何もかも、とても柔らかそうに。 見たことがなかった。こんなの、見たことがない……
「げっ、激マブ……」
「…………?」
しなやかそうな、髪、触ったらどうなる?軽く赤みの差した頬、 触れるとどうなる?もしも、いつもの調子で粗雑に触れたりしたら、 きっと、シャボン玉ように壊れてしまうのではなかろうか。 自分などが、触れてはいけないのでは?でも、
……触れて、みたい―――
セフィロスは、生まれて初めての感覚に困惑に近いものを感じた。 でもそれは、けして悪い感じではない。脈が、やけに速い。これは高揚に、似ている?
「ああ、女の子……じゃないな、一般兵の制服だよな、 これ。此処にいるってことは、旦那に用があるんだろーけどさ……何で寝てんの?」
「…………」
何か糸のようなものにひかれるように何処か緩慢とした動作で セフィロスは仔猫に歩み寄ると、かがんで、その肩にそっと触れた。 眠った仔猫を起こそうとしたのかもしれないが、それは、 普段の英雄からすれば尋常で無いほどの繊細で臆病な動きだった。
「あっ、旦那ずるい!抜け駆けっ!酷い!!」
セフィロスが肩に触れたことよりもザックスの声に反応したのだろう、 仔猫の眉根がぴくっと震えて、ゆっくり、ゆっくりと瞼が開かれた。 そこから現れたのは、セフィロスが想像したとおりの、それ以上の青いきらめき。 僅かに寝ぼけたようなその瞳の焦点が、おもむろにセフィロスの顔に合って、止まった。 その瞬間、セフィロスの脈がまた上がった。
ふたりの背後に満開の桜吹雪が見えたと、後にザックスは語る。
仔猫は先ず、青ざめたように顔をこわばらせた。セフィロスはそれを見て、 首を僅かに右へ傾げた。少し心外な反応だった所為だ。すると仔猫は今度は、 瞳を大きく見開いて、真っ赤になった。セフィロスはそれを見て、 今度は首を左に傾げた。かなり心外な反応だった所為だ。ああでも、 林檎みたいに真っ赤だなあと、ぼんやりそう思っていたセフィロスの顔も、 いつしか赤味がさしていたことは、ザックスが証人になってくれるだろう。
目を逸らせない、ブルーサファイア。大きくて、少し潤んでいて、 自分を真っ直ぐに見つめてくる。こんなに真っ直ぐに。この瞳は、何だ? ちりちりする、これ以上見ていると、灼かれるような気がして、ふいに、 そら恐ろしくなった。耐え切れずに、さっと目を逸らしたのはセフィロスの方だった。 というよりは、動くことができたのがセフィロスだけだったのだろう。
目線を伏せたままセフィロスが立ち上がると、仔猫はどうにか夢から覚めたようで、 慌てて立ち上がって頭を下げた。それでも顔は真っ赤のままで。
「ごごごご、ご、ごめんなさい!!俺、いつのまにか寝てしまって……」
「いや、それはいいのだが」
片方の魔法が解けるともう片方が解けるのも容易いようで、 一瞬にしてセフィロスはいつもの沈着さを取り戻した。 でも心の中で『慌てる姿も可愛いな』と感心している辺り、 英雄にかかった魔法はそう簡単には解けない類なのかもしれない。
「お前は一般兵だな?何故此処にいる」
「あ、はい!これを今日中にサーに届けるように言われたのです。重要な書類なのだそうで」
仔猫がごそごそと長4の茶封筒を取り出した。それを受け取ると、 中には一枚の紙が折りたたまれて入っている。セフィロスが紙を広げて一瞥すると、 彼は、微かに口端を上げた。その反応に、仔猫がきょとんとした顔をする。
「なになに、何書いてあんの?」
ザックスが気になって横からセフィロスの手元を覗き込む。 すると、ザックスもまた笑った。何というか、苦笑に近い。紙には文字が一行、こう書かれていた。

“To EAT here or to go?”
ここで『食べ』ますか?それとも持ち帰る?

「おい、おまえ」
「はい?」
セフィロスが呼びかけると、仔猫は純朴に返事を返す。きらきらした瞳が目に眩しい。
「これは誰にもらった?」
「ソルジャー1STのアルフォンソ・デステさんです。5つ先輩の……」
正直に答えると、セフィロスはくつくつと声も無く笑った。 クラウドにはその理由が分からない。何かおかしなことを言ったのだろうか。
「素直なのは結構。だが度が過ぎると滑稽だ」
「え?え?」
「よーするに、そいつにからかわれたんだよ♪」
「えええ!?」
仔猫は相当驚いている。まさか1STともあろう人が自分を からかってくるなんて思わなかったのだ。ザックスが笑いながら仔猫の頭をわしわしと撫でた。
「お前気に入ったぜ!今時珍しいよ、こんな可愛いのに擦れてないんだもん」
「えええええ」
「俺2NDのザックスっていうんだ。よろしくー」
ザックスが強引に自己紹介すると、まだ呆然としている仔猫をぎゅーっと抱きしめた。 その瞬間セフィロスは絶対零度の視線をザックスに送りつつ、さりげ無く時計を確認した。
「……11時17分か……」
そのつぶやきが聞こえたのか、仔猫はさっと青褪めた。
「もうそんな時間…!?寮の門限過ぎてる……」
その言葉を待ってましたとばかりに、 けれどそんなことを毛の先ほども感じさせずさらりとセフィロスはひとつの提案をした。
「なら泊まっていくと良い」
「!!!?」
「おーそりゃ名案だね」
ザックスは心の中で軽く口笛を吹いた。 セフィロスがかかった魔法の正体をザックスは薄々と分かっていたし、 何よりザックス自身、セフィロスが「生まれて初めての体験」をしたことを喜んでいた。 とはいっても若干の野次馬精神が働いていたことは否定しない。 せっかくだから、この仔猫をけしかけた1STの据え膳に乗るとしようか。
「だーいじょーぶだって、旦那のうちは天国より安全な場所だからな」
ある意味地獄より危険な場所ではあるが。
「というわけでお前、さっさと帰れ」
「あーはいはい、邪魔者は去りますよ」
ザックスが肩をすくめて名残惜しそうに目をまんまるにさせたままの仔猫の髪をわしわしすると、 軽やかな足取りでエレベータに戻って行った。 そしてザックスが書類のサインのことを思い出すのは自分の部屋に戻った後のことである。
セフィロスのプライベートルームに通されてとにかく呆然としていた仔猫は、 シャワーを浴びた後もまだぼんやりしたままで、俺なんでこんな所にいるんだろう…? と呆然と思いながら革張りのソファーに座りながらきょろきょろと視線を彷徨わせていた。 モノトーンを基調とした、あまり生活感のない部屋が見える。 ザックスあたりが偶に押しかけてくることはあっても、 誰かを泊めるなどということになったのは自分が初めてなのだということを仔猫は知らない。
仔猫の座っているソファーは優に大人三人はかけられるほどの大きさで、 適度な張りが心地良い。ここならすごく寝心地よさそうだなあとそんなことをぼんやり思っていると、 バスルームからセフィロスが出てきていた。
「…………」
仔猫の視界がセフィロスを捉えると、そこから視線が動かせなくなってしまった。 濡れて雫を滴らせる髪、軽く拭いただけの湿り気を持った身体、 バスローブの合わせ目から覗く白い肌は湯に触れたことで少し赤みを帯びていて、 壮絶に、艶やかで。
「……どうした?」
視線に気づいたセフィロスは仔猫の方に目をやると、 ちょうどばっちり見つめ合ってしまって、 いよいよ仔猫は視線を外せなくなって惚けたように固まった。 セフィロスも一瞬意識が飛ぶ錯覚を起こした。 このときのふたりの心音を表現するにはハイテンションの太鼓叩きが1ダースは必要だ。 セフィロスは何か声を掛けようとして、僅かに逡巡したものの、無意識に口が開いていた。
「おい、そこの………バスローブ」
その言葉に仔猫がはっとした。そして慌てて自分の姿とセフィロスを交互に見る。 羽織ったセフィロスのバスローブがあまりに大きすぎて引きずらんばかりの有様、 それはまさに「頭の生えたバスローブ。」仔猫は思わず瞳を潤ませて、 少し拗ねたように上目遣いでセフィロスを見た。
「俺はバスローブじゃなくて、クラウド。……クラウド・ストライフです」
その上目遣いはあまりに凶悪過ぎた。 ここに英雄という皮の剥がれた一匹のゆでダコができあがる。


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