6.痛み


それから間を置かずして、グレミオは体調を崩した。どうやら風邪のようだった。 食欲不振と心労から免疫力が低下していたのだろう。クレオとパーンの看護によってやがて体調は上向いたが、 大事をとってしばらくはベッドに横になっていた。
そんな折だった、久しぶりにセフェリスがマクドール家に帰還したのは。
「グレミオ!ぼっちゃんが帰ってきたよ。クラリスたちと一緒にね」
クレオが自室で休んでいた彼に笑顔で報告をした途端、グレミオはベッドから飛び起きた。 驚きと喜びがないまぜになった表情、治りかけの風邪で体調こそ万全とは言えないが、瞬く間に顔に生気が戻ったのが判る。
「本当ですか!?」
「ああ。ビクトールたちは客間に居るけど、ぼっちゃんはもう部屋に向かったらしい。あんたも行ってきなよ、 お茶でも淹れてさ、二人で話したいこと、ちゃんと話すんだ」
「はい……はいっ!」
グレミオは軽く身支度を整え、いてもたってもいられない勢いで慌ただしく部屋を出た。 必然的にクレオはグレミオの代わりにクラリスたちをもてなすことになる。 彼女が客間に顔を出すとクラリスとナナミ、ビクトール、フリックが我が物顔でくつろいでいた。
「まったく……勝手知ったるマクドール家、って感じだね」
好き勝手に散乱したティーセット、すっかり空になった菓子皿を見てクレオが苦笑いする。 するとクラリスは少々申し訳なさそうな顔をしたが、他の三人はほとんど気にしてないようで鷹揚に笑った。
「かてぇこと言うなよ。この面子じゃ仕方ねえ」
「まぁ確かにね。みんな、ゆっくりしていきなよ」
クレオが手にした大きな缶を目にしてクラリスが目を輝かせる。中には一枚ずつ袋に包まれたランドクシャがたっぷりと入っていた。
「お菓子、持ってきてくださったんですか?ありがとうございます!ビクトールさんとナナミがいるからあっという間に終わっちゃって……」
「ちょっとクラリス!わたしはちょっとしか食べてないわよっ」
顔を赤くして弟につっかかるナナミをクレオは微笑ましげに見つめ、缶の中身を皿に盛る。 これはパーンがこっそりキープしていたものだが、グレミオの体調が悪い今、多少拝借しても許してもらえるだろう。
「厨房からくすねてきたよ。遠慮なくおかわりしていいからね。 今ちょっとグレミオが調子崩してるから、出来たては用意出来ないけど……」
早速お菓子に手を伸ばしたナナミが『調子崩してる』という言葉に首を傾げる。 思えば来客があるときはよくグレミオが手製のお菓子を振る舞ってくれたものだ。
「グレミオさん、どこか悪いんですか?」
「…ああ、風邪ひいちゃってね。もう治りかけてるから心配しなくていいよ」
できればあまりグレミオの話題を続けたくなかった。必要以上に不安を与えてしまう、 それはグレミオの本意ではないだろうから。だから『風邪』だという情報のみを伝え、クレオは話を切り替えた。
「それで、そっちの様子はどう?ぼっちゃんはしっかり役立ってるかい?」
その切り出しにはクラリスが答えた。あの頃のセフェリス以上に無邪気さを感じさせる少年は、 瞳をきらきらとさせてセフェリスがどんなに助けになっているのか話してくれた。
「本当に、申し訳ないくらいです。こんなに長期間手助けしてくださって……」
そこに横やりを入れてきたのはビクトールだ。笑いながらちょっとしたゴシップを語る彼は、 クレオの想いもグレミオの想いも知らない。そのゴシップが、クレオたちにとってどれほど重要な情報であるのかも、彼は知らない。
「クレオ、知ってるか?セフェリスの奴、最近やたらとルックの傍にいるんだぜ。 あの二人、できてるんじゃないかって……女衆の間じゃすっかり噂だ」
「……そう。ぼっちゃんも隅に置けないね」
クレオの心情は到底穏やかではない。適当に相槌を打ってどうにか動揺をごまかすが、 その努力も次のフリックの言葉で無残にも霧散してしまった。
「真の紋章を宿す者同士、気が合うんだろうさ。さっきもルックを部屋に連れて行ったしな」
その瞬間、クレオの目の色が急変した。
「なん…だって……?」
「クレオ?」
怪訝そうな顔をするビクトールに、クレオはつっかかった。
「今ぼっちゃんは、ルック君と居るのか!?まずい…っ」
クレオは血の気を失う。自分はさっきグレミオに向け、セフェリスの部屋に行くよう促した。 もしかしたら自分はとんでもないことをしてしまったのかもしれない……背筋をぞわりとした悪寒が駆け抜け、 たとえようのない恐怖を覚えつつクレオは足早に客間を出た。
一方グレミオは二人分のティーセットをトレイに載せてセフェリスの部屋に向かっていた。 二人分、とはもちろん、セフェリスと自分のもの。しかし最初こそ高揚していたが、 セフェリスの部屋が近づくほどにグレミオの足取りは重くなっていった。
両足で引きずる重り、それは不安、不安、不安。セフェリスに自分の想いを伝えて、彼は受け容れてくれるだろうか? セフェリスにはたぶん好きな人が居る、自分よりその人を選んだら…? その答を知ることはグレミオにとって次第に耐え難い恐怖となりつつあった。 そして部屋のドア近くに差し掛かると、グレミオは異変を察する。部屋の中から、ぼそぼそと会話が聞こえたのだ。
(…誰か、いる……?)
もしかしたらその相手こそセフェリスの想い人なのでは……そんな一種の確信に近い妄想を抱き、 グレミオはドアの前で足を止め、硬直した。聞こえてくる会話、聴きたくないのに聞こえてしまう会話。 あまりにも無慈悲で、あまりにも圧倒的な絶望が、グレミオの頭上でぱっくりと口を開けていた。
「ルック。ハイランド軍との戦争が終わったら、レックナートさまのところに帰るの?」
「一応、そのつもりだけど……君は不満そうだね」
「うん……言いづらいんだけど、もしよかったら、しばらくぼくと一緒に旅を…」
そこで会話は途切れた。部屋にノックの音が響き、ドアが開けられたのだ。入ってきたのは『二人分』のティーセットを持って、 月の光のように優しく柔らかな微笑みを湛えた青年。
「ぼっちゃん、ルック君。お茶をお持ちしましたよ」
「ありがとう、グレミオ」
会話を聞かれていたと気付いていないセフェリスはグレミオを笑顔で迎えた。それを鏡に映したようにグレミオも微笑む。 どんな表情をすればいいのかわからなくなったら相手の顔を写し取ればいい、ただそれだけの笑顔。
「グレミオ、明日クラリスたちと一緒に新同盟領に行こうと思う」
「……それでは、皆さんの分も合わせてお弁当を用意しますね」
「うん、お願いするよ。またしばらく戻って来れなくなるけど…」
人間は強すぎる痛みを束の間セーブするという能力がある。大怪我をしても直ぐに激痛に見舞われないのは、 咄嗟の危機を回避するための本能だ。だから麻酔を打たれたように、グレミオの精神は完全に麻痺していた。
「大丈夫です。留守は私やクレオさんたちがしっかり守りますから」
そう言ってドアに向かい扉を開けようとして、グレミオは後ろ髪を引かれるような感覚にとらわれる。 部屋から出たくない、けれど出なくてはいけないという強迫観念、奇妙な感覚。 出入り口をくぐり、扉を閉めた瞬間。その感覚がまさに『痛み』だったのだと知覚した。
―――しばらくぼくと一緒に旅を…
―――しばらくぼくと一緒に旅を…
―――しばらくぼくと一緒に旅を…
痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い。よろ、よろと危うげな足取りで何度もふらつきながら進む。 大粒の涙が絶え間なく溢れ、頬を滑り、血痕のように着衣を染めていく。濁りきった視界、じんわりと人影が浮かぶ。 おぼろげなシルエットから察するに、目の前にいるのはおそらく彼女だろう。
「クレオ…さん……」
駆けつけたクレオは沈痛としか表現できない様子でグレミオを迎える。彼をいたわること、 それがグレミオの為に彼女が出来る数少ない行為のひとつだった。
「…グレミオ……少し休もう。無理して立っていなくていい」
「……すみません…クレオさん。私はもう、…立てない……」
かくん、とグレミオの膝が折れ、くずおれるようにクレオに体重を預ける。その重みを悲痛な想いと共にクレオは受け止めた。 動けないグレミオを背負い、彼の部屋に連れて行ってベッドに寝かしつける。少し熱っぽい。風邪がぶり返したのかもしれない。
「クレオさん。ぼっちゃんには、軽い風邪だと伝えてください。お弁当だけは作っておきますから」
グレミオは脆弱な声でクレオに告げる。そんな彼にクレオは苛立ちすら滲ませて言い放った。
「弁当くらい私が作るさ…!それよりぼっちゃんと話さないのか?逢いたいって、あんた言ってたじゃないか! 傍にいたいってちゃんと伝えないと…伝えないと、ぼっちゃん、ずっと気づかないぞ!?」
「…いいえ。そんな資格は、私には無いんです……」
グレミオは力なく首を振る。なんで、とクレオが抗議すると、グレミオは哀しみを湛えた瞳で応えた。
「はっきりと聞こえました、ぼっちゃんの声が。あの方はルック君と一緒にいることを望んでいるのです。…私ではなく……」
「そんな……」
愕然とするクレオに対し、「不思議なことなんて何もありません」とグレミオは語った。
「ぼっちゃんが本当に必要としているものは、運命を共有し、 途方も無い長き時を伴に歩き続けることが出来るほどの重い定めを背負う方のみ。 ……私のように、いつか朽ちてしまう脆い人間などではないんです……どんなに私が無償の愛を注いでも、 結局はぼっちゃんを苦しめてしまうだけ……あの方と寄り添う資格は、私には……無い」
「だけど、グレミオ…!」
しかしクレオは二の句が継げなかった。セフェリスは時を裏切る身体を持つが、グレミオは唯の人。 セフェリスを苦しめることを何よりも恐れるグレミオは、伴に在ることがセフェリスを苦しめるのならば、 自分の望みも願いも何もかもを諦めてしまう。それを諌めることが出来る人間など、いるのだろうか。 いるのだとすればきっとたった一人だけ、でもそのたった一人の心が既にグレミオから離れてしまっているのなら、 これほど残酷なことは無い……
「…じゃあクレオ、言ってくるね。グレミオにもよろしく伝えて」
翌日セフェリスはクラリスたちと共に出立の準備を整えた。立ち会ったのはクレオひとり。 彼女が作った弁当を手渡し、複雑な面持ちで見送る。セフェリスは知らない、今朝になってグレミオの熱が上がってしまったことを。 セフェリスに心配をかけたくないからと、グレミオが彼女に口止めを頼んだのだ。
「いってらっしゃい、ぼっちゃん。出来れば早く帰ってきてくださいね、グレミオがすごく心配しますから……」
「…………」
その名を出されるとセフェリスは少しだけ神妙な表情になった。だがそれはすぐに困ったような愛くるしい笑顔に掻き消される。
「…ごめんね、今月末には絶対に帰るから。絶対にその日だけは帰るから。 ……だから、そのときまでには体調万全にしておいてね、風邪、早く治してね。そう伝えて?」
「……はい。ちゃんと言っておきますね」
クレオもまた笑顔で返し、セフェリスを送り出す。そして彼女は一刹那ルックに視線をやる。その途端ドキリとした、 ルックと視線が合ってしまった。グレミオによく似た色の瞳、翡翠色の瞳。だがそれも一瞬のこと、すぐに少年は踵を返した。
善も悪も、被害者も加害者も、その境界なんて曖昧すぎて誰も答えを提示できない。 一体何が悪くて歯車は狂ってしまったのだろう、それが運命の悪戯だとするならば、 運命の神を引き摺り出して喉元にナイフでも突き立ててやろうか―――そんな狂気めいた思考にクレオは駆られていた。



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