7.想い


今晩のメニューはアサリのホワイトシチューにバゲット、セルバチコの辛味を活かしたフレッシュサラダ、デザートはワインゼリー。 シチューの仕上げが終わった頃合いに、背後で人の気配がした。不規則な足音から察するに、セフェリスだ。 またいたずらでもしに来たのだろうか。少年に背を向けたままグレミオはシチューの味見をして声をかける。
「…うん。完成ですよ、ぼっちゃん。今日のシチューはなかなか上出来ですから、たくさん食べてくださいね」
出来を確認し、かまどの火を落としていると、セフェリスは口を開いた。その声色は心なしか普段より甘い。
「ねえグレミオ、こっち向いてよ」
「どうしたんです?ぼっちゃ、……えっ?」
振り向いたグレミオはそのまま惚けた。セフェリスは大きな花束をグレミオに差し出していたのだ。 それはセフェリスが十歳の頃に贈ったものと同じ花で、けれどあの時とは比べ物にならないほど大きな花束。
「これ…あげる」
鮮血のように赤い花の美しさに目を奪われ心も奪われ、グレミオは感嘆のため息を漏らした。
「なんて綺麗な薔薇……どうしてこれを?」
間の抜けた問いにセフェリスは呆れた様子だった。今日が何の日かうっかり忘れているのかと思ったようだ。
「だって今日は記念日だよ?忘れてたの?」
別にグレミオは記念日そのものを忘れていたわけではない、彼が咄嗟に理解できなかったのは、手渡された大きな花束、 それに込められた想いだった。
「いえ、でも……なぜ今になってこの花を、だって…これは……」
赤い薔薇を贈るという行為、その意味を、ちゃんと自分はセフェリスに教えたはずだ。それなのに、どうして。 困惑するグレミオの瞳をセフェリスは緊張した面持ちで真っ直ぐに見据える、頬をほのかな紅色に染めて。
「あの……恥ずかしいけど、言うからね!」
(赤い薔薇、その意味は深い愛情、激しい熱情、その花を…その想いを、本当に私にくれるというのですか?ぼっちゃん……)
「…ぼく、グレミオのこと……」
(だって、そんな、信じられない、嬉しい、ああ、愛しい、あなたが愛しい…!)
「ぼっちゃん…!ぼっちゃ…ん……」
腕を伸ばし、セフェリスに触れようとしたその刹那、グレミオは目覚めた。目の前にあるのは大切な人ではなく薄暗い宵闇のみ。 寝崩した布団を被り直し、ため息をひとつ。熱に浮かされて見るのは悪夢が多いのだという、 それを思えば幸せなひとときを得られた自分は運が良かったのかもしれないけれど。
「……夢に逃げるなんて…馬鹿な私………」
横たわったままこうべを巡らせて部屋のカレンダーを確認する。……記念日が近い。 だからあんな夢を見たのだろう。セフェリスが懸命にプレゼントを吟味したり、どうしても思いつかないときは直接何が欲しいか訊いてくる、 狂おしい記念日。でも今年は、セフェリスは来てくれるだろうか?期待しない方がいいのだろうか……?
「グレミオ。夕食、作ってきたよ」
クレオがトレイを手に部屋へ入ってきた。トレイにはシンプルな粥と道具屋で買った薬が乗っている。 風邪をこじらせたグレミオは咳と発熱の症状を訴え、満足に料理も出来なかった。 食べ物も喉を通らず酷く衰弱し、医者に診せた方がいいと思うのだが、ただの風邪だから、とグレミオはずっと遠慮していた。
「ありがとうございます。でも、食欲が全然なくて……」
「それでも食べるんだよ、治りたかったら食べるんだ」
「…はい」
強くクレオに勧められ、ようやくグレミオは身体を起し、力の入らない上半身をベッドの背もたれに預けた。 器を受け取ると湯気の立つ粥の匂いが直に届くが、食欲を刺激されるはずもなく、むしろ軽い吐き気すら覚えて、 皿の中身をスプーンで数回かき回しただけでグレミオは食事を諦めた。
「………やっぱり駄目です、食べられません……」
「グレミオ……」
もう何日もグレミオはろくな食事を摂っていない。だから『唯の風邪』すら治らないのだ。 このままでは弱っていくばかり、それを見せつけられるクレオの忍耐力にも限界がある。 やりきれない思いで、苛立ちすら滲ませてグレミオに訴えかける。
「ねえ、食べないと駄目だよ。お願いだから、ひと口でもいいから、食べるんだよ。私の作った料理なんか、美味しくないと思うけど……っ」
クレオの目が何故か潤んでいるような…そう思った途端、鳶色をした瞳から雫は溢れ出た。 堪えきれずに泣き出したクレオを見やるグレミオは、不思議そうに小首を傾げ、かすれきった声で訊く。 その問いに対するクレオの答えは、涙に濡れて憐れなほどに震えていた。
「……怒ってるんですか?クレオさん……」
「ああ、怒ってるさ…!帰って来ないぼっちゃんもぼっちゃんだし、文句のひとつも言わないあんたもあんただ! 行かないでくれって、傍にいたいんだって、そう言って泣き縋ることがそんなに怖いのか!? ぼっちゃんに拒絶されることが、そんなに怖いのか!?」
クレオの哀願にも似た言葉を受けたグレミオは、ほんの少しの困惑が混じる微笑を浮かべる。 クレオはこんなにも泣いているのに、グレミオの面やつれた頬には一滴の涙すら滑り落ちることはない。
「いいんですよ……今の私は唯の抜け殻です。心はどこか遠くに行ってしまいまったみたいで…… 怖いとか、恋しいとか、憎いとか、だんだんよく判らなくなっていって……もう、涙すら…出ないんです…… ぼっちゃんはこのまま帰って来ない方が良いのだと思います。こんな私を、見せたくありません……」
何もかも諦めたようなグレミオの口ぶりにクレオは激しい怒りともどかしさを抱かずにはいられない。本当に無残で、悲惨で、見てられない。
「なんで……なんであんたは、ぼっちゃんの為だとか言って、いつも自分の願いを殺しちまうんだよ…… 本当はぼっちゃんのこと誰よりも愛してるんだろう?親愛だとか、思慕だとか、恋情だとか、愛欲だとか…… 全部ひっくるめて全身全霊でぼっちゃんのこと愛してるくせに!」
「愛しています…!」
グレミオが咄嗟に発した鋭い声にクレオがハッとなると、彼はいつしか苦渋に満ちた色に全身を染め上げていた。 涙の代わりにグレミオは言葉という形で想いを流す、次々と吐きだされる言語の羅列はまさに彼の号泣そのものだった。
「…あの人と離れて思い知りました。私は愛しています、あの人を。付き人として、兄として、母として、男として、 気が狂いそうなほど私の心も身体もなのもかもがあの人だけを求めている…… 私の愛情は私自身ですら制御不能になりかけるほど重く重く、想いの天秤はひたすらに傾き続けるだけで、 永遠に釣り合うことは無いんです。行き場の無い強すぎる想いはいつしか私の内面を破壊して、 愛しているのに、涙も出ない。痛覚すら麻痺して、何も感じない……おかしいんです、私は……」
もうグレミオはおかしくなっている。健常ならば感じるはずの痛みを、肉体の発する警告信号を知覚できない。 痺れた胸の痛みすら精神的なものだと思い込んでいる。やがてそれは彼を追い詰め、文字通り致命的な事態を招くだろう。 そして愛憎に疲れ果てた彼は、その運命に抗う術をもはや持ってはいなかった。



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