2.喪失 夜空に輝く赤い星、天をさきがける者、天魁星の宿命を背負うあの少年。 彼を見る度にこの胸に湧き上がる気持ちは、この切なさは、『恋』だとは俄かには信じ難かった。 真なる風の紋章の継承者であり、作り出された人間、ルックは初めて抱く己の感情に戸惑う。 「ルックって、あんまり食べないよね」 最初のうちは、自分ですら気づかなかった。ふと我に返ると、いつもセフェリスの近くにいる。声を掛けられる場所にいる。 食堂で同じテーブルについてしまった、今だってそう。 「……好きな食べ物が無いだけさ」 「なんにも無いの?ひとつも?」 セフェリスと話していると、不思議と気分が昂ぶっていくのを感じる。表情に出すことはまず無いけれど、 彼と一緒にいるのはやけに心地良かった。それは真の紋章を宿す同胞だからからだと思ったが、 もっと違うところに因があるような気がしてならない。 「そう…でもないね。随分前に食べた、塩味のきいたコロッケはあんまりまずく感じなかった」 しかしセフェリスと共に過ごして得られるのは良いものばかりではなかった。彼の口から発せられる、 一人の男の名。その音を聞くのはやけに不快でたまらなかった。 「じゃあ今度グレミオに作ってもらうよ。グレミオの料理はホントにおいしいんだ。何作っても天才なんだから」 「…………」 今日もやはりルックの気分は害された。嫌悪感、という類ではない。 胸の底がむかむかしてその挙句に涙が出てきそうな、子供じみた感情。言うまでもない、ただの嫉妬なのだ。 乳臭い悋気にいちいちイラつく自分自身も癪に障った。 そのマイナスに向かう感情と、同じだけの初恋の甘酸っぱい痛みがミルフィーユのように幾重にも重なり合う。 それが積もりに積もった時、ルックは誰にも聞こえないように心で呟く、繰り返し。 あいつなんて死んじゃえばいいのに……と。 ソニエールから戻ってきたセフェリスは、夕暮れを彷徨う隻鳧(せきふ)のようだった。 いなくなった片割れを求める鳧(けり)は悲痛に鳴きながら、その羽ばたきは瀕死の淵にあるように弱弱しく、 大地に墜落するその瞬間まで幾ばくも無いのではという危険性が見て取れた。 リーダーとしての体面を保つために辛うじて激しく取り乱したりはしなかったが、 心から消沈していることは誰の目からも明らかだった。 「……眠れない……」 先ほどクレオとパーンが部屋から出て行った。自分のことを深く心配し、傍についていてくれた二人。 彼らがいなくなってからというもの、セフェリスは孤独の時間を持て余していた。 ベッドに横たわり布団にくるまっても、安寧など訪れはしない。 むしろまどろみに身を任せることこそ酷く恐ろしい行為のように感じられた。 「眠れるわけないよ……寒いよ…グレミオ……」 セフェリスはいつしか軍主である己を忘れ、遥か遠き過去に精神を回帰させていた。 蘇るのは、グレミオのベッドに潜り込んでは身体を寄せ合って眠った心地良い思い出ばかり。 愛惜の溢れるままに涙も溢れた。シュン、と風の紋章の波動をセフェリスが感じたのは、 零れ続ける涙が枕に深い染みを作った頃合いの事だった。 「…まったく、これじゃリーダーも形無しだね」 「………?」 ルックはどこからともなくハンカチを取り出し、ベッドに横たわるセフェリスにはたきつけた。 ぺち、と軽く頬を打つ感触に、セフェリスが反応する。 「ほら。涙、拭きなよ。ひっどい顔だ、見てられない」 ゆっくりと起き上がるセフェリスを見据え、ルックはため息まじりに、吐き捨てるように呟いた。 「ホント、見てられない。腹心一人死んだくらいで、あんなみっともない姿を兵に晒すなんて」 棘のあるその言葉にセフェリスは一瞬瞠目し、そして相貌を哀しげな色に染めて手にしたハンカチを握りしめる。 グレミオを失って哀しむことを否定されることで、グレミオへの想い自体を否定された気になってしまったからだ。 「そんな言い方って、ないよ……だってグレミオは、ぼくの大切な、すごく大切な……!」 「……。大切な人を失うと、みんなあんたみたいになるのかな……?」 「…えっ?」 セフェリスは不思議そうに目の前の少年を見つめる。ルックの様子が少しだけおかしい。 月明かりに白く浮かび上がるその表情に、ほんの僅かな陰りがあるような。それは単に俯きがちな顔の角度が影を落としているように見えるからだけなのか。 「いっそ、うらやましいよ……そこまで想える相手がいて」 ―――うらやましいよ、そこまで想われる相手がいて。 しかしそれも一瞬のこと。すぐにルックは瞳を上げ、不遜な顔つきに戻った。 「…フン、そんなこと言いに来たんじゃない。近いうちにお師匠さまがあんたの前に現れるよ。 門の紋章について、それとウィンディについて、教えたいことがあるってさ」 「レックナートさまが……」 ルックがここに来たのは、伝言の為か。セフェリスは己で気づかないほど軽微な落胆を覚えた。 気づかなかったからこそ、彼を引き留める為の意思が働いた。 「伝えたいことは伝えた。あとはあんた次第だよ。じゃ、ぼくはこれで……」 「待って…!」 踵を返しかけるルックへ、セフェリスは追いすがるように声をかける。するとルックはぴたりと足を止め、 大して意外でもなさそうにセフェリスを見据えた。 「…何?」 「ねえ…もう少しだけ、ここにいてくれる…?」 母に捨てられた子のように心細い声音で訴える。リーダーとしてあるまじき態度だと普段のルックならば揶揄するかもしれないが、 今のルックの気分はそれとはほぼ逆方向のベクトルを有していた。 「お願い、ルック…今夜は、独りでいることに耐えられそうにない……」 「……後悔するよ」 短くルックが警告を発する。しかしセフェリスは微笑みでもって返した。 その微笑は星屑のように頼りなく、すぐに包み込まねば今にも凍えてしまう果敢なさを滲ませている。 「別に、もう……いいんだ」 その言葉に含まれた癒せない諦観をルックは知っていたはずなのに、彼はセフェリスの元へ足を向け、その身体を抱き寄せた。 そうするとセフェリスもまたルックの背に手を回し、懐かしい温もりを愛おしむようにうっとりとした声を漏らす。 「…あったかい……ルックの身体、あったかいね…とても……」 そしてルックはゆっくりとセフェリスの夜着の帯を解く。冴え冴えとした月光が、まぐわう二人を危うく照らし続けていた。 温かな母の愛の代替を無邪気に求めた少年の無恥な行為と笑うだろうか。 想い人の空虚な心に付け込んで悲願を叶えようとした少年の傲慢な行為と笑うだろうか。 しかし事実、今の彼らには、互いの熱が必要だったのだ。 or 目次に戻る? |