第七話


携帯もチョコボの存在も忘れたままでロケット村から飛び出して、何処を目指す訳でも無く、 遠く遠くへ駆けてゆくクラウドは、答える者の無い問い掛けを胸中でただ繰り返す。
(ねえ…セフィロスは本当に俺のことを愛していたの?)
痺れた心を宿した身体は疲労を知覚することも出来ず、視界の中心から四方へ流れゆく景色もまた、 まるで古びたビデオ映像を観るように現実味を微塵も感じさせない。
(だって本当に愛しているなら、寿命の来ない肉体を引き摺って、たった独りで、 永遠に続く虚構の時を流浪し続ける運命なんて、俺に課したりしない……)
どれだけ経っただろうか、やがて喉の奥から胸にかけて鋭利な痛みが沁み渡り、 重さを増した下半身をかばい切れなくなった頃、漸くクラウドは全力疾走のスピードを緩め始めた。 徐々に失速し、遂にはふらふらとした頼りない歩調となってしまう。
それでも前へ進む足は一向に止まる気配を見せなかった。どうして走り始めたのか、 その理由をクラウドが答えられないのと同様に、何故まだ歩み続けているのか、 その理由も彼には解らない。
いつしかクラウドは鬱蒼とした木々の中を彷徨っていた。此処は林なのか森なのか、 そんなことすら気に留めず、不要な思考を忌避するかのように重苦しい身体を動かし続ける。
迷い込んだ其処は豊かな場所だった。 人ひとりがどうにか通れる程度のけもの道を踏み締めるクラウドの頭上に、 野生の鳥獣達が奏でるハーモニーが降り注ぐ。磨かれた清浄な空気が草花の青臭さを仄かに纏い、 しっとりと青年の体躯を押し包んでいる。
えもいわれぬ心地良さを感じた。人の世から離れたこの地では、自然だけが世界を統べている。 あらゆる命が自然のもとで平等に生きて死に、しがらみにとらわれ嘆くことも無ければ、 ありもしない居場所を求めて苦しむことも無い。
もし、万一にも定住という選択をするのであれば、このような場所に根を下ろしたい…… そうクラウドが思い至った折、不意に樹木の群れが途切れ、少しばかり開けた土地に出た。
何にも遮られない穏やかな陽光が緑色の大地を照らし、 さほど広くないこの一角だけが、まるでひとつの舞台のように燦々と浮かび上がっている。 この不思議な空間のほぼ中心部に至極小さな魔晄の泉を見つけ、 物珍しさに興味を惹かれたクラウドは、 灯りに吸い寄せられる羽虫のようにそちらへ歩んでいったのだが。
「―――そろそろ来ると思っていたよ。クラウド・ストライフ」
突如、人間の声が鼓膜を震わす。ぎょっとしたクラウドが声の主を探ると、 魔晄の泉のほど近く、苔むした岩に腰を下ろす一人の男の姿を認めた。まさか、 とクラウドは戦慄する。全く気配が無かったのだ。自分の名を知っていたこともそうだが、 こんな場所に人がいること自体、俄かには信じ難かった。
「……あんた、何者だ」
「私はただの世捨て人さ」
ありったけの警戒心を込めた問い掛けに、男はさらりと答える。 純白の布を目深に被った男の顔は口元しか見えない。 薄い唇から紡がれる落ち着いた声音から、辛うじて男性だと判別がつく程度だ。
「普通の人間じゃないな。仙妖か?」
男の醸す空気は只人のそれではなかった。 まるで幾千年もの歳月を重ねた縄文杉の如き神秘性を匂わせている。 クラウドが妖(あやかし)の類と疑ったのも無理はないが、 男にとってその言葉は心外だったのか、彼はくつくつと低く笑った。
「人であることを捨てた覚えは無いがね……独りでは生きていけないことをわきまえている、 人がましい人だと自負しているつもりだよ。私を想ってくれる大切な者がいるからこそ、 こうして呑気に暮らすことが出来る」
白いローブの袖口から瑞々しい指が覗いている。どうやらこの男は、 クラウドが思ったよりもかなり若いようだ。 ゆったりとした語り口と老成した雰囲気がクラウドの感覚を惑わせていたのだろう。
「直ぐには理解出来ないだろうが……おまえと私はね、今この時、この場所での邂逅を、 予め約束されていたのだよ」
狐につままされたような気分ではあるが、不思議なことに、 クラウドの警戒心はみるみるうちに溶け崩れていった。 男の声はまるで故郷で見上げた星々の煌めきのように、温かく、懐かしくて、 するりと胸の深奥に入り込んでは優しく弾け、じんわりと沁みてゆく。
「…そう。おまえが正しい泣き方を思い出せるようになる為にね」
だから、核心を突く男の言葉を受けてもクラウドはさほど驚くことは無かった。 この男が何者なのか知る由もないが、きっと何もかもお見通しなのだろう。 嗚呼、あんたもそうなのか…と、そんな切なさをほんの少し覚えただけで。
「それは……無理だ。…誰であっても、無理なんだ」
「どうして、そう思う?」
男の穏やかな問い掛けに導かれ、クラウドは俯きながら想いを吐露した。 彼が抱えている苦しみ、哀しみ、諦めの心を、見ず知らずの男に、 それでいて狂おしい郷愁を掻き立てる男に向けて、少しだけ打ち明ける。
「気づいてしまったんだ。もう誰も俺を癒せないし、俺を救えない。 皆が俺と違う脳を持つ違う生き物である以上、俺と同じ立場になれる訳が無いし、 俺の心情も理解し得ない。だから皆、 あの人の死を克服出来るなんて空言を平気で口にするんだ……」
「死は克服するものではないよ」
明瞭な語調でもって、男はひとつの鍵をクラウドに示した。 予想だにしなかった類の言葉に、クラウドはハッと顔を上げる。
「死とは和解するものだ」
「……和解……」
咄嗟に言葉が浮ばず、クラウドは立ち尽くした。男の唇が、柔和な微笑みを形作っている。
「力を抜きなさい……死に敗北することをむやみに恐れる必要は無い。 死に打ち勝とうと無理に背伸びをする必要も無い」
それは何もかもを受け容れて抱き締める慈愛の微笑…… クラウドの記憶の中で眠っていた母の面影を、あまりにも鮮烈に思い起こさせるものだった。
「愛する者の死と和解することは、誰にとっても困難極まる道のりだ。茨道で血を滴らせても、 焦らず、時間をかけて、少しずつ進みなさい。誰に理解してもらわなくても良い、 誰に信じてもらわなくても良い。それでも、クラウド…おまえは決して独りではない」
男の声を聴いていると、次第におかしな気分になってくる。心臓の音が、やけに騒々しく感じられる。 得体の知れない戸惑いと動揺、そして思慕にも似た恐怖感が波となって打ち寄せ、 流されまいとクラウドは拳を握り、精一杯の強がりを見せた。
「赤の他人が、勝手なことを…あんたに俺の何が解るっていうんだ……」
それでも、男は微笑を崩さない。
「解るよ。おまえのことなら、誰よりも良く知っているよ」
「……え…?」
クラウドは、その言葉の意味を測りかねた。そんな青年の動揺などお構いなしに、 男はやおら立ち上がり、クラウドのもとへと歩み寄ってくる。
「この頃のおまえの心は、苦しみで一杯なのだと、知っているよ」
男の瞳は布に隠され、クラウドの方から伺うことは出来ない。しかし、 全く同じ高さの目線から注がれる眼差しは、何処までもたおやかだった。
「苦しむことは無意味ではない。だが、いつまでも愛別離苦の檻に閉じ籠っていてはいけないよ。 強過ぎる苦しみは、自然と己の感覚を閉ざしてしまう」
眼前で立ち止まった男は、そっとクラウドの右手を取る。間近で見る男の白い手、 その見慣れた色形から、クラウドは薄々と男の正体を悟った。 理論的には決して有り得ないことだと、クラウドは知っていたのだが。
「だから愛しい者の声も聞こえないのだ。ずっと傍で囁いてくれていたというのに……」
「……愛しい…者?…それって……」
呆然としたままのクラウドを、男は足元の魔晄の泉へと導いた。 この星を駆け巡るエネルギーの流れ、あらゆる生き物の故郷であり、 あらゆる生き物が還ってゆく場所でもある、 命の奔流へと、男に促されるままにクラウドは手を伸ばす。
「触れてご覧。怖がらず、心を開いて……大丈夫、此処のライフストリームは静かで澄みやかだ」
「あ…あぁ……、あ…!」
泉に手をかざしたその刹那、一筋のライフストリームがクラウドのもとへ吸い寄せられた。 淡い緑色をした光は手のひらから腕へと絡み付くように上昇し、同化する。 クラウドの身に吸収されたのは、ライフストリームに溶けたひとつの意識だった。
その意識は勢いよく体内を駆け巡り、妖精の囁きを思わせる小さな小さな歓喜の声を、 クラウドの中で響かせる。この頼り無い感覚は、遥か昔、夏の夜に母と見た、 線香花火の果敢なげな輝きによく似ていた―――



―――聞こえる……?なあ、聞こえるか?
逢いたかった、ずっと逢いたかった。気の遠くなるような長い長い間、 硬い岩石すら微小な瑣末に崩れてしまうほどの長い間、おまえに逢えることを夢見ていた。
オレのこと、分かるだろうか?いや、そんなことを言うのも変な気分だ。 オレは、オレのことが分からないんだ。自分の姿形も、名前も憶えていない。 いや、それだけじゃない、何処に住んでいたのかも、何をして生きていたのかも、 親の顔も、友の顔も、もう全く思い出せない。
でも、たったひとつだけ憶えていた。おまえのことだけ、憶えていた。
どうしてだろう。ハニーブロンドの天使、 おまえのその笑顔が魂に深々と刻み込まれて一向に薄れることを知らない。……何故?どうして?
…いいや、オレは解っているはず。たぶん、今のこの気持ちこそが、そのまま答えなんだろう。 そう、きっと、おまえのことがとても、とても愛しかったから。 心から愛していたから。オレはそう信じてる。
嬉しいんだ、そのことが。だって、おまえへのこの気持ち、ただこの想いだけが、 オレの自我を守ってくれているんだから。生前の意識は総て星に溶けてしまう、この生命の奔流の中で、 おまえの蕩けるような笑顔だけが、オレという矮小な意識を確かなものにしてくれるんだ。
好きだ。おまえが、大好き。オレの中から溢れてくるのは止め処ないおまえへの思慕ばかり。 オレの中にはもうおまえのことしか残ってないんだろう。
人格すら霞のようにおぼろげになって、こんな意識の断片だけになったオレが、 ……愛してるって、ただおまえを愛してるって思うだけで、 それだけでこんなに穏やかな気持ちでいられる。こんなにも、満たされる。 他に望むことなんて、……でも、ひとつだけ。もしひとつだけ、オレが願うことがあるとするなら。
……おまえには、笑っていて欲しい。いつまでも、笑っていて欲しい。
オレがこの命の流れに溶け込んでから、オレはおまえと離れていながらもずっと傍に感じていた。 そう、感じていたんだ。オレは願う。全身全霊を込めて願う。 おまえが笑ってくれるように。なのに、おまえは笑ってくれなかった。 いつも哀しそうな顔をして、どんなに願ってもオレの声なんて聞こえないんだ。 一度たりとも、おまえは笑ってはくれなかった。
聞こえる?俺の声、聞こえる?
お願いだから、笑ってよ。ほら、今はちゃんとおまえの中にいるよ。 鼓動が聴こえるくらいオレ達深く繋がったこと、分かるだろう? だけどこうしてる今も、おまえは笑ってくれない。ねえ、笑ってよ。 この想いが、おまえに届いたのなら。
誰よりも愛しくて、何よりも大切な人……なあ、どうして泣いているんだ? やっと、やっと逢えたのに。どうしてそんなに泣いているんだ? 次々と零れるおまえの透き通った涙はとても美しいけれど、こんなにもオレを切なくさせる。 どうか、笑って……ねえ、どうして…泣いて……?



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