第六話


「分かった。二日後にはそちらに着く予定だ。よろしく頼む」
夜風が長い黒髪を弄ぶ中、ヴィンセントはそのように告げて仲間との通話を打ち切った。 携帯を閉じ、野宿用のテントの傍で立ち尽くすクラウドに一言、声を掛ける。 彼は何処か夢うつつとした表情で、先ほどからずっと空を凝視していた。
「明日は早い。クラウド…おまえはもう休め」
クラウドは一瞬だけ、ちらとヴィンセントを垣間見る。しかし再び夜空に視線を戻すと、 まだ少し虚ろな様子のままで、小さく呟いた。
「月が……」
「月?」
「今夜は出てないな……」
ヴィンセントもまた夜空を見上げた。視界に入るのは漆黒の曇天ばかり、星のひとつさえ見えない。
「クラウドは…月が……好き、なのか?」
控えめに尋ねるとクラウドは頷き、淋しそうに己の身体を抱いた。
「月の光は……優しいから……」
―――あの人の眼差しみたいに。
言外のクラウドの呟きを確かに聞いたヴィンセントは、 思わず携帯を持つ手を固く握り締める、人知れず。 首をもたげかけた暗い感情を無理やり遠くに押し遣ろうとするかのように、彼は唇を開いた。
「漸くシドと連絡がとれた。シエラと婚約してまだ日が浅く、少々慌ただしいらしいな。 だが家の客室に泊めてくれるそうだ」
「……そう」
クラウドは雲に遮られた僅かな光を求めながら、ぼうっとした面持ちでぽつりと零した。
「何だか、悪いな……」
その二日後、クラウドは同じ台詞をロケット村で出迎えてくれたシドに向けて口にする。 するとシドは束の間目を剥いたが、直ぐさま意地の悪い笑顔でその表情を満開にさせた。
「けっ、余計なことを気にし過ぎなんだよ、おめえは」
「でも、シエラさんもいるのに……」
婚約したばかりの男女が醸す空気は特別なものだ。 だからこそクラウドはその場に立ち入ることに強い躊躇を覚えていた。 しかし、そんな青年の懸念をシドは笑みを崩すこと無く払拭してみせる。
「シエラの奴なら、一昨日から暫く出張だ。気兼ねは要らねえよ、まあ入れや」
「…そうか。ならいいんだ」
シドの言を聞いてひとまず頷いたクラウドに対し、ヴィンセントは僅かに眉を寄せた。 そんな話は聞いていない。一昨日電話を掛けた時に、何故伝えてくれなかったのか…いや、 その疑問を抱くことすら愚かしく思えた。
しかしヴィンセントの努力でどうこう出来る問題ではない。 シドの勝手な選択がクラウドの逆鱗に触れないことを祈るのみだが、 家の玄関をくぐったクラウドは、ヴィンセントが危惧したとおり、若干の違和感を覚えているようだ。
「紅茶でいいか?あんまり上手くは淹れられねえんだけどよ」
「あ、…うん」
オープンキッチンで湯を沸かし始めたシドの声に、クラウドは適当に相槌を打つ。 しかし、周囲をキョロキョロと見渡しながら椅子に腰を落とそうとしたとき、 唐突な物音と共にシドの舌打ちが耳に届いた。
「あ〜あ、やっちまった」
「どうかしたのか?シド」
気になったクラウドは席を立ち、調理台に向かう。 どうやら茶葉の入った瓶を床に落としてしまったようだ。 瓶こそ割れてはいないものの、 フローリングの床には瓶の口から溢れたらしい少量の茶葉が散っていた。
「…そそっかしい所は変わらないな」
「うるせえよ。慣れてねえだけだ……この葉っぱはもう使えねえな」
落ちた茶葉を両手で掻き集め、シンクの三角コーナーに捨てる。 大雑把な手つきだった為か、僅かな茶葉がコーナーの端からシンクに零れ落ちたが、 シドはそれに頓着する様子を見せない。そんなシドの行動を目の当りにしたことで、 クラウドの中で生じていたひとつの疑念が確信へと変貌を遂げた。
「シエラさんが出張だなんて、嘘だ……」
クラウドが小さく発した一言に、シドの動作がぴたりと止まる。 嘘を暴かれた動揺からではない。クラウドの声に、明白な怒気が篭もっていた為だ。
「シンクが綺麗過ぎる。洗い物が残ってないし、ゴミひとつ無い… シド一人だったらこんなこと、有り得ない」
「ははっ、そりゃあまた…随分な言われようだな」
シドは乾いた笑いで大きく口を開けながら頭を掻く。 彼のあっけらかんとした態度は不思議と憎めないものだが、 残念ながら今のクラウドには些細な冗談すら通じない。 クラウドは怒りに任せてシドの胸倉を掴み上げ、低い声で問い詰めた。
「……騙したのか」
「クラウド、よせ…シドは悪意があった訳では」
激昂するクラウドを落ち着かせようとヴィンセントは口を開くが、もはやクラウドは聞く耳を持たない。 比較的感情の起伏が少ないはずの彼が、シドに向けて激しく迫った。
「騙したのか、シド!」
「シドを責めないで!クラウド君…!」
クラウドの怒声を聞いて飛び出してきたのは、別室に控えていたシエラだ。 彼女は懸命にシドをかばおうとするが、シドもヴィンセントも芳しい顔をしない。 残念ながら、シエラの言動は火に油を注ぐものでしかなかった。
「私が悪いのよ、私が言い出したの……私がシドと一緒にいるのは、 もしかしたらクラウド君にとって酷なことなんじゃないかって……」
「そうされた側がどれだけ惨めか、考えもしないんだな」
忌々しげにクラウドは吐き捨てる。他者の幸福を妬んでしまうなんて… 醜悪で愚かだとしか言えない自分自身が酷く馬鹿馬鹿しく滑稽に思え、 それなのに表情筋は凍てつくように凝るばかりで、 冷笑ひとつ浮かんでこない事実さえもが青年の心を傷つけた。
「うざったい……吐き気がする。誰も彼も、俺を腫れ物みたいに扱って…」
しかしそれ以上の暴言は遮られた。今度はシドが声を荒げたのだ。
「仕方ねーじゃねえか!腫れ物なんだからよ」
一旦堰が切れてしまうともう止まらない。クラウドへの不満、心配、もどかしさ、 シドが溜めていたもろもろの感情が、一気に喉元から噴出した。
「いつまでも女の腐ったヤツみたいにウジウジしやがってよ。 自分の苦しみだけが世界の中心で、自分が一番不幸だって顔して……女々しいんだよ、 死んだ奴はもう戻ってこねえんだ!」
「言い過ぎだシド…!」
ヴィンセントがたしなめてくるが、シドは敢えて無視した。 自分が言わなければ、おそらく誰も言わないのだとシドは解っていたのだろう。
「過去にばっかり縋ってるんじゃねえよ!いい加減、前を向きやがれ!!」
「………、っ…」
その時のクラウドの反応は、親から厳しい叱責を受けた幼子のそれに近いものだった。 顔をしかめ、声を詰まらせる。シドの意見はおそらく間違ってはいないのだろう、 しかし、子供じみた感情の所為で苦言を受け止めることが出来ず、 ただ副作用としての痛みだけがクラウドの胸を深々と抉った。
涙の落とし方を忘れた身でありながら、クラウドは慟哭そのものの色で己の相貌を染め上げる。 何度もかぶりを振り、血の塊を吐くように悲痛な呻きを叫び放つと、 身を翻してその場からの逃亡を図った。
「もうやめてくれ…未来なんて見えない…俺は、あの人の死に打ち勝てるほど強くないんだ…!!」
「あっ…待って、クラウド君!」
部屋から、そしてシドの家からもクラウドは走り去ってゆき、 シエラが慌ててその後を追いかける。一方で男二人は声も無く立ち尽くした。 彼らは動けぬままシエラの背を見送るのみだったが、数瞬の後、 先に言葉を紡ぐことに成功したのはヴィンセントの方だった。
「…シド。何も、あそこまで言わなくとも……」
「見てられねえんだよ……あんなクラウドは」
シドは肩を落とし、苦虫を噛み潰すような面持ちで声を絞り出す。 もはやヴィンセント相手に去勢を張る気力など無かった。
「ひでえ顔色してやがったぜ。もうずっと、まともに食ってねえんだな」
済まない、とヴィンセントは短く零し、自らの非力さを素直に詫びる。とはいえ、 謝ったところでシドは喜びなどしないだろうし、 現に彼は忌々しげな瞳でもってヴィンセントをねめつけていた。
「おめえもおめえだよ、どうせクラウドのハンストに付き合ってんだろ?」
「私なら平気だ」
ヴィンセントもまた時の流れを無視する身体を持つ。 多少食事を抜いた程度で命を落としたりはしない。 しかし今、そんなことはさしたる問題ではなかった。
「そんでクラウドの奴は、おめえがどんな目で自分を見てるのかにすら気づいてねえのか」
「シド、私の想いはクラウドに伝わらなくて良いのだ…… ただ、クラウドが少しでも笑ってくれたら……」
「おめえら……見てられねえよ」
このままでは、クラウドもヴィンセントも救われない。 怒りにも似たやるせなさに苛まれ、シドは呻いた。 小刻みに揺れるシドの肩に、ヴィンセントは片手を添える。 感情の色を刷くことの少ない真雪のような細面に、ほんの少しの哀しげな微笑をのせて。
「……クラウドを連れ戻そう。シド、手伝ってくれるか」



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