世界が俺を拒絶したのか、俺が世界を拒絶したのか、判らない。 ただ解るのは、もはや喪失感とも呼べなくなってしまった底無しの絶望が、 まるで鋼鉄の檻のように俺を捕え、 前にも後にも身動きを取れなくさせているという冷たい事実だけだった。 あの人が大好きだった……愛だなんて言葉で表し切れないくらい、 あの人の水晶のような髪の毛一本から形のいい爪の先まで全部全部が愛しくて、 哀切に鳴く弦楽器の音色のようなあの人の魂の美しさに心を惹かれて、 まるでひれ伏すように愛していた。 あの人の腕の中は心地良過ぎた。あの人の背中に腕を回して、 互いに抱き合うとそれだけで天国への道が拓ける気がした。 涙が出そうなほどあの人の躯は温かくて、 いつしかあの人の体温を感じないと俺は安心して眠れなくなっていた。 侵されていた、セフィロスという甘い毒に、心も、カラダも、隅々まで侵されていた。 下手な麻薬中毒よりもタチが悪く、少しでも足りなくなると悶え狂い、 底をつけば廃人となった。俺にとって、老いて死ぬまであの人に寄り添い続けるほか、 選択肢なんて無かったのに。 ……殺してしまったんだ…この手で。運命は、最も残酷な手口で俺の心を引き裂いた。 どんなに探しても、どんなに呼んでも、どんなに腕を伸ばしても、彼はいない。 セフィロスは、もう、何処にもいない。 かけがえの無いものを、喪う、ということ。 この星へ祈る 他の何を犠牲にしてもいい、欲しいものは、俺が本当に欲しいものは、 いつもたったひとつしか無かった。セフィロスが欲しい。欲しくて堪らない。 セフィロスだけが欲しい。セフィロスしか要らない。 あの人以上に意味のあるものなんて、この世界には存在しない。 喪ったら死んでしまう、亡くしたら死んでしまうと信じていた。本当にそうだった。 事実、俺は生きていけない。ただ『死なないでいる』というだけで、俺はもう生きてはいない。 涙が出ないのは何故だろう。もし泣けたのなら体中の総ての血液が無くなるまで泣いて、 瞳が壊死して溶けるまで泣いて、その果てに息絶えたのならあの人のもとへ還れるのだろうか。 ああ、大丈夫だよ、ナナキ、たぶん俺は死なないと思う。あの人が生きろって言ったから…… でも、呼吸ひとつすら苦しくて、なあ、何で俺の心臓まだ動いてるんだ? この星へ、祈る あの人はもういないのに、もう何処にもいないのに、 あの人を愛しいと思う心だけまだこんなにはっきりと俺の中に残ってしまって、 今もまだ絶えず溢れ続けていて、行き場の無いこの想いは、一体何処へ? 何処へ行ったらいい?まだこんなにあの人を愛しているのに、 この気持ちは何処へ行ったらいい?いつまでも当て所なく俺の中で渦巻いて、張り裂けそうなんだ。 緋く熟れ過ぎた果実のように俺の心臓はほんの少し力を加えただけで ぐちゅりと音を立てて滴りそうで、セフィロスが好き、セフィロスが好き、 どうしようもないくらい、好き、なのに、どうしてあの人は俺の傍にいないんだろう? どうして傍にいてくれないんだろう? 何処で道を間違えてしまった?何故あの人を殺さないといけなかった? いや、そんな不毛な疑問すら、もはやどうだっていいんだ。 ただ、あの人はもう二度と俺を抱き締めてくれない、その現実だけが、 俺をいつまでも何処までも苦しめ続ける。俺は知っているんだ…現実はもう、 決して俺を癒してはくれないのだと。 ただ、この星へ祈る 『―――あの人に、逢いたい……』 天に引っ掛かったような上弦の月が、頼り無い光を大地に注いでいる。 夜更けのコスモキャンドルは、明かりの落ちた谷の数少ない光源のひとつだ。 クラウドは半刻ほど前からずっと膝を抱えたまま、暖かい炎の揺らめくさまを静かに眺めていた。 そんなクラウドを、最上部の天文台からナナキが遠目に見下ろしている。 だらんと姿勢を低くして、時折尻尾をゆらゆらさせながら。一体何を考えているのか、 遠くに見えるクラウドをじっと見つめたまま動かない。 「ナナキはクラウドが好きか?」 唐突に声がして、ナナキはぴんと耳を立てる。ヴィンセントはナナキの隣に腰を下ろすと、 同じようにクラウドを見やった。 「好きだよ」 天文台の明かりも既に消えている。一旦は三人とも就寝したのだが、 結局誰一人眠ることが出来なかった。夜の暗がりの中で、ナナキの尻尾の火が僅かに明るい。 「クラウド、じっちゃんみたいに優しいもん」 ナナキはくるっと首をひねって、ヴィンセントを見上げる。 「ヴィンセントも、好きでしょ?」 その言葉に、ヴィンセントは軽く口元を緩めた。 「……そうだな」 ヴィンセントの真紅の瞳に、僅かばかりの翳りが生まれる。 けれど暗過ぎてナナキには判らなかった。ナナキは再びクラウドに視線を戻す。 「多分ね、ティファも、シドも、ユフィも、…皆クラウドのことが好きだと思う。 でも、クラウドにとっては……」 泣く一歩手前のような、少し震えた声だった。これ以上声が揺れないように、 ナナキはぎゅっと前足を地面に押しつける。 「ちょっと強引にだけど、クラウドから聞いたよ。 クラウドがどれだけセフィロスのこと、大切に思ってたか…… だから何となく、解ったような気がする。きっとオイラ達は、 誰一人としてセフィロスを超える存在には成り得ない。 どんなにオイラ達がクラウドのこと好きだって言っても、 クラウドが本当にそう言って欲しい相手は、オイラ達じゃないんだ」 「…………」 ナナキはそう言い切ると、しばし声も無いまま、尻尾だけを所在無げにぱた、ぱたと跳ねさせた。 「否定……してくれないんだね」 「……ああ」 「ヴィンセントらしいね」 もしナナキがヴィンセントの様子をしっかりと視ていたのなら、 もう少し違った受け答えをしたのかもしれない。 ナナキとヴィンセントは遠くからでも判るクラウドの物憂げな表情を、 各々異なる想いを抱きながら見つめている。 「クラウド、今もセフィロスのこと考えてるのかな」 「おそらくな」 ねえ、とナナキは、クラウドに視線を合わせたままでヴィンセントに尋ねた。 「また、来てくれるよね?」 「クラウドに直接、言わないのか」 「……ちょっと、怖いんだ」 「では引き摺ってでも連れてくるとしよう」 「ありがと……」 ナナキの脳裏に蘇る、絞り出すような呻き声。 『あの人に…逢いたい……』 目に見えない緋色の涙を、流して…… 「ナナキ」 「うん?」 「あまり心配し過ぎるな」 ぴく、とナナキは反応した。自覚が無かったことを言われた所為だ。 「これは直ぐに解決出来る問題ではない。長い目で見守ってやれ」 「そう…だね」 「長い旅だ。こうして此処を訪れるのも一度や二度ではないだろう」 「クラウド……いつか、元気になるよね。いなくなったり…しないよね……」 ヴィンセントは神妙な顔で「ああ」と頷いた。 「その為の仲間だ」 不意に、クラウドが夜空を仰いだ。暫くそうしていたと思ったら急に頭を左右に振って、 ゆっくりと立ち上がる。こちらに戻るつもりなのだろう。 「そろそろ休むか」 「うん」 ヴィンセントとナナキも腰を上げた。星の渓谷の夜はそれぞれの想いをのせて更けてゆく。 空には宝石をばら撒いたような星々が広がり、 ちっぽけな尺度で生きざるを得ない憐れな人々の切なさや哀しみを、余さずに優しく包み込んでいた。 コスモキャニオンでの滞在期間はおよそ十日に及んだ。 ナナキは何かと世話を焼いてくれる。会話の有無に関わらず、 クラウドの隣で甘えるようにじゃれついていた。 クラウドには、ナナキのその行為が甚だ愛おしく思えてならなかった。 懐かしい思い出の中の自分自身に重ね合わせていたのかもしれない。 特に何をする訳でもなく、セフィロスの隣にそっと寄り添っていた頃の自分に。 だが一方で、クラウドはナナキとは決して相容れることの出来ない点を悟ってしまった。 ナナキが「じっちゃん」の死を悼みながらもその事実を克服し、 未来を見据えていることに。恐らくナナキは、 クラウドにもそれが可能だと信じているのだろう。ティファのように。 開きかけていた重たい心の扉が、再び閉じられようとしていた。話を聞いてはもらえても、 この苦しみは誰とも共有出来ないのだと、誰にも理解してもらえないのだと、 結局自分は独りなのだと……そんな負の思考に、脳が支配されるばかりだった。 仲間達へ向かう友愛の念と、それに相反する拭い切れない失望感。 それらが混ざり合って拒絶反応を起こし、赤剥けの心はただれ、ジリジリと刺すように痛んだ。 ―――もう消えてしまいたい。皆が期待するように、俺は……強くはなれない……… or 目次に戻る? |