第二話


最後にこの家を出たときのことを、クラウドは上手く思い出せずにいた。 ミッドガル上層部、高級住宅街の一角。 メテオの被害を奇跡的に避けたらしい此処は、 クラウドがかつて英雄セフィロスと生活を共にしていた場所だった。
ティファから受け取ったカードキーをスロットに差し込むと、軽く電子音が鳴りロックが解除された。 この重厚な扉の先には、クラウドにとっては恐ろしくもある、 狂おしいほどに懐かしい部屋が待ち受けているはず。
そのくせ、ドアノブを手にしたクラウドは、躊躇うと思った、のに、 存外流れるような動作でいともあっさりとドアを開けてしまっていた。 その瞬間、ふっ…と、ドアの向こうから半透明の何かがクラウドの身体を通り抜けてゆく。
“セフィ、ねえ早く”
“そんなに急ぐな、クラウド”
“だって嬉しいんだ。セフィと一緒に任務に行けるなんて!”
「…………」
そのときクラウドは何も考えていなかったのだろう。 過ぎ去った幻を無感動に見て、ただ機械的にドアを開けて中に入っていった。
「……、?」
入ってから、クラウドは自分が何をすれば良いのか全く分かっていないことを知った。 そして困惑した。咄嗟にクラウドは自分がすべき行動を、過去の例に求めた。 すると、ほぼ無意識に声が口を衝いて出ていた。
「……ただい、ま」
確か、帰宅時には必ずその言葉を最初に口にした気がする。 しんとした空間に、その声音は羽根のようにふわりと落ちた。
それから…セフィロスが先に帰っている場合には、彼は余程のことが無い限り、 いつもクラウドを出迎えに来てくれたはず。また、セフィロスがまだ帰っていない場合であっても、 クラウドは真っ先に彼の姿を探したのだった。…そうだ、セフィロスだ。 次はセフィロスを見つけなければ。
「セフィ……帰ってきたよ……?」
ゆっくりと、クラウドはフローリングの廊下を歩いて部屋のひとつひとつを見て回った。 リーブが定期的に手入れを行っていたのか、意外なほど家の中は五年の歳月を感じさせず、 それが余計にクラウドを困惑させた。ただ明らかに、この家は五年前とは違い過ぎていた。
「セフィ……?」
リビング、書斎、キッチン、歩き回るけれど、誰もいない。
「セフィ……いないの?」
何の気配も伺えない、それは微生物すら存在しないとされる死海の湖を思わせた。 懐かしくも、何ともない。此処はただ静かなだけの、整然とした空間。

……ココはドコ?

「…………セフィ」
ココはドコ。俺達の家には、セフィロスがいた。セフィロスの気配がして、 セフィロスの匂いがして、なのに此処は、あまりにも何も無い……
クラウドは無性に空恐ろしくなって、必死にセフィロスの姿を探し始めた。 怖い、怖い。此処は怖い。あなたがいない。早く、セフィロスの声を聞いて安心したい。
「セフィ……セフィ、セフィ、セフィ、セフィ」
クラウドには解っている。心の何処かでは解っている。 頭の冷えた自分が俯瞰から自分を見つめている。 なのに家のそこかしこにはあの人の遺跡が残っていて、 ひょっとしたら本当のセフィロスもこうして何処かに 化石のように埋もれているんじゃないかって……
セフィロスが着た服
セフィロスが使った食器
セフィロスがつけていた香水
セフィロスが愛用した万年筆
セフィロスが読んだ本
セフィロスが座ったソファ
セフィロスが飲んだ紅茶
セフィロスが生きていた部屋
家中を探し回って、何度も何度も探し回って、息が切れるほど。
「ねえ……ねえっ」
扉という扉を開けて、抽斗をまさぐって。
「ねえ…セフィロスは…セフィは………確かにいたんだよ……ついこの前」
辺り構わず散らかして回る。それこそ気が触れたように。
「ついこの前まで……この家で…俺の隣で、笑っていたんだよ……!」
クラウドは寝室に駆け込んで、ダブルベッドに倒れ込んだ。 シーツは少し埃臭くて、セフィロスの匂いは全くしない。
「勝手に…消さないで!!」
飛び起きて、クローゼットから、セフィロスのシャツ、スーツ、コート、 無我夢中で引っ張り出して、シャツ、スーツ、コート、 部屋中に散乱して、抱き締めて、身体に巻きつけて。
「ねえ、セフィ……早く帰ってきて……」
猛烈にセフィロスに抱き締めて欲しかった。彼の大きな腕が、強い腕が、 恋しくて恋しくて堪らなかった。そのあまりに強い衝動に、 セフィロスのシャツを彼の身代わりにとキツく掻き抱いた。
それは、二人で暮らしていたときのこと。 セフィロスが遠征等に出掛けてしまって長く逢えなかったとき、 クラウドは幼い情動に翻弄され、 よく部屋中にセフィロスの私物を撒き散らしてその中に埋もれていた。
セフィロスが帰宅すると、彼はいつも「しょうがない奴だ」と微笑んで、 一緒に部屋を片づけてくれた。そして普段よりも一層優しくて激しい抱擁をくれた。 そうやってセフィロスの存在を直に感じると、あんなに泣いていたのが嘘のように、 クラウドは無垢な笑顔を取り戻すことが出来た。
だけど、今はもう。
どれだけ待っても、二度とセフィロスは帰ってこない。
だって、自分が、この手で引き裂いた。
死んだ 死んでしまった もういない   あの人は死ん だ
がくがくと身体が震え始めた。事実を理解してしまったとき、 どうしようもないモノが胸から喉元に込み上げてくるのを感じた。 涙は、出なかった。不思議なことに、 セフィロスを手に掛けてからクラウドの涙は枯れてしまっていた。 泣きたいのに泣けないことが、こんなに辛いものだとは。
「う、ああぁ、ああ」
込み上げてくるのに、行き場が無い。 シャツを抱き締めた腕の酷い痙攣がやまなかった。嫌な汗が噴き出した。 息を吸い込み過ぎて酷い過呼吸に襲われた。 指先が痺れ、体中を走る激痛で気が遠くなる。 まるで全身の皮膚を剥がされるような痛み、苦しくて苦しくて、次第に薄れてゆく意識の中で、 何故か自分の背を撫でる温かい手の感触をクラウドは思い出していた。
「セ、フィ……助けて……」
音がする……
「セフィのとこ、…行き…たい……」
心が壊れる音が聞こえる……



あの人がね、ライフストリームに溶けるとき、
俺はあの人の最後の言葉を受け取ったんだ


“生きろ”


どうして、「一緒に死のう」って言ってくれなかった?
あの人の唇から紡がれる言葉は、いつだって残酷で……




玄関のドアに鍵は掛かっていなかった。そのことをヴィンセントは訝しみながらも、 ひとまずクラウドの姿を探し始める。 「クラウドから二週間も連絡が無い」と、 痺れを切らしたティファから様子を見るように頼まれたのは昨日のことだ。 ヴィンセントという人選をしたのは、クラウドを極力刺激しない為のティファなりの気遣いだろう。
この家の異常な様相に気づいたヴィンセントは眉をひそめた。 ドアはひとつ残らず開け放たれ、抽斗の中身はぶちまけられ、 まるで物取りに入られた後のようだ。生活のにおいは無く、薄暗く、物音もしない。 まるで廃墟を歩いているような感覚にヴィンセントはとらわれた。
家中を確認して回ったヴィンセントがクラウドを見つけたのは寝室だった。 この部屋は特に荒れ方が酷い。部屋全体に物が散乱し、足の踏み場も無いほどだった。 クラウドはシャツを一枚抱きかかえ、ベッドの上に横たわっていた。
「……クラウド?」
歩み寄ると、クラウドの意識が無いことに気づいた。眠っているのだろうか、 起こそうとヴィンセントが触れた途端、その身体の熱さにぎょっとした。
「クラウド。……クラウド」
慌ててクラウドを揺さぶる。何度か揺らすと、クラウドは薄らと瞼を開けた。
「クラウド……まさか、何も口にしていないのか?ずっと?」
クラウドは億劫げに目線だけを動かして、ヴィンセントを見やる。 その姿を認めると、少しだけ残念そうに息を吐き、唇を小さく動かして緩慢と言葉を発した。
「何も食べなかったら……いつか死ねると思って……」
無残なしわがれ声だった。水すら飲んでいなかったらしい。 体温が高かったのは脱水症状を起こしている証拠だ。普通の人間なら死んでいてもおかしくない。
「でも………死ねないんだね……」
酷く哀しげに目が伏せられた。そんなクラウドを、 冷静沈着なはずのヴィンセントは愕然となりながら見下ろす。
(これは……間接的な、自殺行為…なのか)
クラウドが深く思い悩んでいることは察しているつもりだった。 しかし、ここまで追い詰められていたことには気づけなかった。 誰も、ヴィンセントも、おそらくティファでさえも。
クラウドの精神は、振り過ぎた一本の炭酸瓶だった。 誰にも悟られないスピードで少しずつコルク栓は上昇し続けており、 この家に帰還したことをきっかけとして、一気に栓が抜け、中身が噴き出してしまったのだ。
ふとヴィンセントは、クラウドの髪を愛しげに梳く白い手の幻影を見た。 その腕の先で、セフィロスが何処か誇ったように笑っていた。
「セフィロス……おまえは死んでまでも、クラウドを捕らえるのか……」
再び意識を失ったクラウドの頬を、ヴィンセントはそっと撫でる。 それはクラウドの求める手ではないと、ヴィンセントは重々承知していたのだが……



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