気がつけば、男はいつもそこにいた。スラムにただひとつの教会。
かつて花売りの少女がここに咲く花の世話をしていたころから、
ここへ祈りに来る者などただの一人としていなかった。
花売りの少女が消えて、幼い2人の子供が引き継ぐように花の世話を始めてもう随分経った頃、
その男は忽然と現れた。その男は子供たちが手入れをする花々には見向きもせず、
大きく穴の開いた天井から漏れる光を前に、ただ跪いていた。
男の端正な顔は横から流れる長い髪に隠されて見えなかった。
子供たちがふと気付いたとき、その男は現れ、
ずっと跪いていると思っていたらいつしかふっと消えていた。
陽の気をさんさんと輝かせる子供たちにとって、その男の気配はあまりにも希薄だった。
それゆえに子供たちはその男を「変なお兄ちゃん」と呼んでひどく不思議がっていた。
子供たちがいるときも、いないときも、ただ男は静かに跪く。
それは太古から人類に伝わる「祈り」という行為であったが子供たちは気付いていたのかどうか。
「また、来たね」
突如、男は声を聞いた。うら若い女性の声だった。
その声はどこから聞こえたのか定かではなく、間近で、いやむしろ自らの中で響く声だった。
「いつも、いつも。いつもいつもいつも」
男はその声の正体を知っていたから、特に驚くこともせずに、跪いたまま微動だにしなかった。
「何を祈っているのかな?」
少しおどけた調子で問いかけた。男は、答えなかった。
「………だんまりかぁ。でもね、わたし、わかるよ」
少女のふんわりとした微笑のイメージが突然男の脳裏に広がった。少し意地悪げな微笑み。
「でも、ほんとに、それでいいの?」
その春の日差しに似た気配は、母のようだ、と思った。
男は母らしい母という存在を知らなかったけれど、何故か。
次第に遠のいていく少女の言葉は、残響のようにふわりと残った。
会いたくないの……?
やがておもむろに、男は祈りを止めた。立ち上がり、
教会の天井辺りにまだ残っていそうな少女の声を感じ取ろうとするように、
ゆっくりと仰のいた。
「会い…た、い」
観念したように、瞳を閉じた。まぶたの裏に浮かぶ、あの子の笑顔が……
「会いたい、な……」
そう思ったら自らも驚く位、耐え難いほどの思慕の情が溢れてきて、
堪えるように身体を抱くと、腕がひどく冷えていることに気付いた。
逆に、手のひらの温かさを思い知った。寒くはない、けれど、身体が震えてくるのがわかった。
「あの子は……凍えてないだろうか」
震えて動けないことを悟ると、男は崩れ落ちるように跪いた。再び、祈るために。
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