-祟り神-


今思うとその日の夜空は、星が輝きすぎていて恐ろしかったように覚えている。
夕食後に自宅の界隈をふらりと散歩をするのは僕の日課だ。 近頃は日が落ちても気温がさほど下がらないから、風をゆるやかに感じるにはちょうど良い。
僕の生まれ育ったここは、元々丘陵地だったところを開発してできた町だから、 少し見通しの良い場所に出れば、斜面にぽつぽつと点在する民家からこぼれる光が、 まるで夜空の星のように見えるのだ。それを眺めるための「特等席」を僕は昔から知っている。
僕が歩く散歩のルートは気ままに変わるのだけど、いつも必ずといって良いほど「そこ」を通る。 それは僕の家からさほど遠くもない、小さな公園だ。
外灯がひとつと、遊具が3つほど。あとはまっさらな広場が面積のほとんどを占める、 こぢんまりとした公園。昼間は近所の団地などに暮らす子供たちで賑わう公園は、 日が落ちればつつましく静まる。一番高い滑り台の上から見える夜景は (といっても大した夜景ではないのだけれど)僕は大好きだった。 夜の公園には誰も来ないから、全部僕が独り占めしている気分になれたのだ。 大人になった今、その頃の気持ちがひどくいとおしいものに思えてきて、 ここには毎日来てしまう。子供時代の名残を惜しむように。
けれど毎日通るこの公園の景色が、今日は違っていた。人影があったのだ。 そのひとはキィ、キィと一人、ぶらんこを揺らしていた。それは、僕が初めて、夜に、 ここで目にした人影だった。夜のこの公園は、僕だけの秘密基地だとすら思っていたから、 僕はそのとき存外驚いていたのだと思う。
近づいてみると、その人影は大人の男性であることがわかった。 服こそ目立たない暗色のものだったが、色素の薄い金髪が夜の暗がりに浮かぶように、 彼の存在を際立たせていた。彼はゆるやかにぶらんこをこぎながら、 上のほうをぼうっと眺めていた。
珍しいな、と僕はそう思った。それは、大の大人が公園にいることか、 しかもぶらんこを揺らしていることか、はたまたチョコボの羽に似た奔放な金髪のことか、 僕にはよくわからなかったのだけれど。
「何を、しているのですか?」
僕のかけた声に、彼は少し驚いたようで、ぶらんこを止めてこちらを向くと 、眼を僅かに見開いていた。随分若く端整な顔立ちだったが、僕は、おや?と思った。 彼の両目は青かった。それだけでも珍しくはあるのだが、その輝きは燐光に似ていて、 瞳それ自体が発光しているようにも見えた。 僕はいつしか物珍しげにまじまじと見てしまっていたようで、ふと気づいたとき慌てて謝った。
「あ、すみません……ただ、この辺りでは、見ない顔だと思って」
僕の陳謝を、彼はかすかな微笑みで受け流すと、視線をもう一度上のほうに戻した。
「星を……見ていたんです」
言われて、僕は空を見た。別に、いつもと変わらない空だと思った。
「星が好きなのですか?」
僕の問いかけには答えず、彼は何を思ったのか、両手を空へさしのべる仕草をした。 それはまるで、星を掴もうとするように。思えばこのとき、 既に僕は引き込まれていたのかもしれない。
「ここは、僕の特等席だったんですよ。夜にここに来て、夜景を眺めるのが、 好きなんです。でも、そうですね、星も、きれいですね」
「特等席ですか……俺の故郷にも、ありましたよ」
彼はどこか懐かしそうな目をして笑った。笑った顔が見れたのが僕は嬉しくて、 つい色々と彼に話しかけた。軽く自己紹介などをして、 他愛の無い世間話などを軽く笑い飛ばしながら。すると彼も一緒に笑ってくれて、 それが僕には嬉しかった。
僕が最初に思った近寄りがたい印象よりも彼は遥かに好青年だった。 たくさん話してくれた。旅人であること、もう長い間世界中を巡っていること、 この町へは今日着いたこと、町の感想、他のいろんな街のこと。
よくある話だと思った。旅人と、現地の人との触れ合い。 そのワンシーンに自分は参加しているのだ。そのことが僕を不思議な気持ちにさせていたのだと思う。 彼の旅の記録、その1ページに、僕のことが良いように書かれることがあれば良いな、 と、ぼんやりそんなことを考えていた。
「宿はもうお決まりなんですね?」
「ええ、2丁目にある『リバーサイドYAMAYA』に」
「本当ですか?そこ、僕のうちのすぐ前なんですよ。送っていきましょうか」
偶然の配置。僕は何か運命的なものを感じた。僕の申し出に、彼は、感じの良い微笑みを浮べた。
「じゃあ、お願いします」



その一瞬のこわばりを見逃さなければ良かったのだろうけれど。
突然の訪問に、彼は随分驚いたのだろうな、とそのときの僕は思っていた。 僕の家のすぐ目の前にある宿、あの金髪の彼が取った部屋。 僕はその宿のおかみとは馴染みだから、彼と知り合ったことを話すと、 快く彼の部屋を教えてくれた。
その夜、缶ビールを数本手にして部屋にやって来た僕を見て、彼はひどく驚いたように見えた。 それは僕が、彼の微妙な表情筋の変化を見てそう思っただけなのだけれど、 本当は顔を「こわばらせていた」だけなのだと、僕は気づくことができなかった。 けれどその変化は一瞬のことで、彼はすぐにあの人懐っこい微笑みを浮べて 「どうぞ」と僕を招き入れた。
一泊二食で800ギルの宿、素っ気無いつくりだが、特別悪いところも無い、 ごくありきたりの宿だ。彼は荷解きをしていなかった。 だからシンプルな部屋が余計に素っ気無く見えたのだろう。
「突然押しかけて済みません。何かご予定はありましたか?」
「いえ、もう寝るだけでしたから」
ベッドに腰掛けた彼は僕から缶ビールを受け取ると、 「この銘柄好きなんです」と微笑んで僕に座るよう促した。 彼の傍の適当なところに座ると、存外近くに彼の顔があって僕は僅かに面食らった。 先ほどの公園より遥かに明るい所為だろう、彼の顔立ちがはっきりと伺えた。 間近で見れば見るほど、綺麗な顔だと思う。 その繊細な美しさは女性らしさすら匂わせるが、 女性と間違えるほどか弱くも見えない。 歳は二十歳を越えるか超えないかくらいだろうか。 もう随分と旅をしていると聞いたが、こんなに若くして何故旅を始めたのだろうか。 尋ねようかとも思ったが、僕ごときが図々しいなと思い、やめておいた。
「この町には、どれほど滞在される予定ですか?」
「そうですね、三日ほどを考えてますが」
「もっとゆっくりされれば良いのに」
性分ですよ、とビールを軽くあおりながら、彼は笑う。
「あんまり長くいすぎると、愛着が沸いてしまいそうなんですよ。 俺は、通り過ぎるだけの旅人ですから」
「ええと、定住される気がないということですか?」
僕の問いに、彼はビールを飲む手を止めた。
「そうですね……俺にはきっと……無理です」
彼の顔に少し、淋しげな色が落ちたのを見て、まずい質問をしたかもしれない、 と僕は不安げに思った。彼は、まだこんなにも若いのに旅人をしている。 それには、相応の理由があるのだろうに。僕は話題を変えようと思って、別の話を切り出した。
「さっきから思ってたんですけど、あなたの髪、きれいな色をしてますね。 ここまで純粋な金髪は、この辺りにはあまりいないんですよ。 髪型も変わっているし。そうそう、チョコボにそっくりですよね」
僕は何とは無しに、彼の髪に手を伸ばした。癖のあるその金髪が、 硬いのか柔らかいのか、少し、触れてみたいと思ったのだ。けれど彼は、 僕が予想もしなかった反応を示した。
「触るな!」
一瞬何が起きたのか分からなかった。ただ反射的に僕は伸ばした手をひっこめた。 気づけば彼は凍りつくような、ひどく冷ややかな瞳で僕を見やっていた。
「あんた、空気が読めないんだな。気づけよ、俺が鬱陶しがってることくらい」
「え……?」
突然の豹変に、僕は面食らった。いや、唖然とした、とでも言うのか。
「旅人に話しかければ喜ばれるとでも思っていたのか?お目出度い奴だな。 うざいんだよ、あんたみたいに図々しい奴は」
僕は青ざめていたのだと思う。こんなあからさまな拒絶を人から受けたのは、 初めてだったから。彼の声は、それだけ容赦が無かった。 それでも僕は無意識に平静を装おうとしたようで、 ともすれば震えそうになる身体が硬く強張った。 そのきしみが、まるで音になって聞こえるようだった。
「帰れよ。早く」
僕は、従うほかなかった。



家に帰った僕は何をするわけでもなく、ぼんやりとデスクチェアにもたれかかったまま、 オーディオから流れるラジオの音声が耳を素通りしていくのを感じていた。 一種の放心状態に近いだろう、存外強くショックを受けている自分に驚く。 彼の言動は、どんなに客観的に見ようとしても、突拍子のなさ過ぎるものに思えた。 本当なら怒りを覚えても良い状況だ。けれど僕の心にあるのはそんな激しいものではなく、 もっと澄んで凝っているもの。悲しみ、に近いものだと思う。
(嫌われた、のかなあ……)
彼の表情に、嫌悪感が含まれていたのかは、よく覚えていない。 いや、彼の表情自体、良く思い出せない。ただ言葉が、 彼の言葉があまりにもあからさまで強烈過ぎたのだ。
(どうして……?)
ショックというか、悲しみというか、そういう感情が僕の中でひと段落つくと、 今度は疑問が浮かんだ。何故彼は豹変した?それまであんなによく笑っていた彼が何故? 僕は彼を怒らせるようなことをしたのだろうか?うざい、と言っていた。 気安く話しかけすぎたのだろうか?
「とにかく、謝りたいな……」
自らの軽率さが彼を豹変せしめたのなら、謝りたいと、思った。彼と、 嫌われたままで終わりたくないと、僕はそう無意識に願っていたのだろう。
こういうのは卑怯なんだと思う。ねちっこいのは嫌われると分かっているのだけれど、 ほうっておけなかった。彼を、というか、僕を……違う。彼と僕を。
翌日の夜、僕は彼を探した。彼のいる場所は、思いのほか簡単にわかった。 宿屋のおかみに、彼が繁華街に出かけたという話を聞いて、 男性が入りそうな店ばかりを探した。たいして栄えても無い町だ、すぐに見つかった。
そこは地元の常連も多い小洒落たバーで、彼は隅っこの席にひとり座って飲んでいた。 手洗いの傍の奥まった席で、みんなあまり座りたがらない所だ。他にも席は空いているのに、 何故わざわざそんな席を選ぶのだろう。旅人という引け目の所為だろうか。
彼の席へ向かう僕を、他の客がちらちらと見ている。彼は僕に気づくと、 特に表情は変えずに、かすかに俯いた。まだ怒っているのか、うまく判断できない。 僕は彼の目の前まで来ると、頭を下げた。
「その……昨日は、すまなかった」
彼の表情は変わらない。視線もあさっての方にそらしたままだ。 それはどこかふてぶてしさすら感じる。
「……僕が軽率だった。もう少し、あなたの気持ちを考えるべきだった」
返答は無く、彼は黙々とグラスに口をつけた。昨日見せた好青年の印象が嘘のようだ。 あれは何だったのか。あんなに親しげだったのに。
(いや、…そうじゃなかったんだ……)
あれはきっと、仮面だったのだろう。僕と距離をとるための仮面だ。 けして本心を見せない、うわべだけの親しさ。となると、今のこれが彼の本性? あるいは、これすらも仮面なのか……
「昨日も言ったでしょう……うざいって」
ようやく彼が、口を開いた。出てきた言葉は拒絶そのものだったけれど。
「ああ。僕は気づかなかった……だから、すまなかった」
謝る必要はありませんよ、と彼はわずかに表情を和らげた。
「人が、嫌いなんですよ、俺は。それだけです」
彼は一気にグラスをあおって酒を飲み干すと、おもむろに立ち上がった。 もう店を出るつもりなのだろう。
「もう良いでしょう。これ以上、俺には近寄らないでください」
レジを通って外に出て行く彼の後姿を、僕はぼうっと見つめた。そうか……人が嫌い、なのか。 だとしたら、僕の行動は確かに馴れ馴れしくてうざかったのだろう。 けれど、それでもどこか釈然としなかった。人が嫌いだと言うには、やけに、
(淋しそうな表情をする……)
「ちょっとあんた、ムトーさんだろ」
突然背後から名前を呼ばれた。驚いて振り返ると、 3丁目で道具屋をやっているマキノおじさんが席を立っていた。 凡庸ながら気の良い人だが、おじさんはいつもより少し渋い顔をしている。
「マキノさん、何か?」
「さっきあんたと話してた旅人のことだよ。気をつけたほうが良い」
「どうか…したのですか?」
滅多に人を悪く言わない人だ。僕は少し嫌な予感がした。
「東の大陸から伝わってきた噂がある。金髪碧眼で見目の良い旅人の噂だ」
「……聞いたことがありません。悪い噂でも?」
「人を呪う、と」
僕は僅かに瞠目した。呪う、とは随分、悪意に満ちた噂だと思う。 そして迷信じみた噂だ。だからこそ広がりやすいのかもしれないが。
「あの旅人が訪れた町では、必ず人が死ぬという。しかも、 うかつに旅人に近づいた者ばかりが。だから、あの旅人は近づく者を呪うのだと」
「そんな……唯の噂じゃありませんか」
僕は笑い飛ばした。正直、馬鹿らしい噂だと思った。 同時に現実味の無い噂の内容に僕はかえって安堵した。 どうってことはない、毛色の変わった旅人だからそんな噂が流れたのだろう。
「それに、どうやって人を呪うんです」
「むう……確かにそうだが」
人を呪える道具やマテリアなど無い。たまに怪しげな香具師(やし)が 藁人形や蝋燭を売ったりしているが、そのような呪いの段取りは非常に難解で、 それに効き目があるとも思えない。おじさんも噂の信憑性を多少は疑っているようで、 少し思い悩むそぶりを見せた。
「気にすることはないですよ。ただ彼も、もう少し愛想が良ければ、 こんな噂流れないでしょうにね」
「まあ、違いないな」
おじさんは一応納得したようだ。それは何よりだが、 一瞬僕に一抹の不安がよぎった。この小さな町では噂はすぐに広がるし、 特に老人には迷信を信じるものも多い。何か悪いことが起こらなければ良いと、 そう思って、僕はマキノおじさんとひと飲みしようと酒を注文した。 それは不安を押し流そうとする一種の緩衝作用だったのだろう。



結局焼酎割を2杯ほど空けて、僕はバーを出た。少しほろ酔い加減だが、 足元がふらつくほどではない。大人になるというのは自らの酒量をわきまえることだというが、 僕はふらふらになるほど無理をしたことが無い。昔から大人びていたということなのだろうか。 いや、度胸が無いだけなのだと思う。
日付が変わるまでにはまだ2時間ほどある。今が一番騒がしい時間帯だ。 小さな町の繁華街はささやかにネオンと電飾が華やぎ、タクシーの往来、知った顔、 さほど速くも無い足音。
やはり田舎だな、と思う。ここよりももっと田舎なところはいくらでもあるのだけれど、 身に馴染んだこの町の閉塞感は、やはり田舎特有のものだと僕は思う。 別に嫌な訳ではないが、特別好きでも無いだけだ。
ふと気づくと、大通りの隅に小さな人だかりができている。 それ自体は大して珍しくも無いものだ。10人程度が何かを遠巻きに見ている。 喧嘩かな、と少し気になってのぞいてみると、僕は「あっ」と思った。
そこには彼がいた。跳ねた金髪と、少しむっとしたような整った顔立ちが見える。 何か言い合っているようだ、相手を見て僕は驚いた。この界隈では荒くれ者で有名な不良の若者だ。
「だからちょっと付き合えってんだよ。そうしたら許してやるよ」
「……早く宿に帰りたいんです。そこをどいてもらえませんか」
些細な言い争いのようだが、相手が悪い。けれど彼は思いのほか平然として見えた。 自分より遥かに大きい体躯の若者を恐れていない。 いや、何か焦っているように見えるのは気のせいか。心の動揺を、 努めて表に出さないようにしているかのような。強がっているのか。
「けっ、お高くとまってんじゃねえ!」
若者が動いた。強引に胸倉を掴み上げようとしたようだが、 旅人は思いのほか俊敏で、うまくその手をかわした。そしてそのまま走り出そうとするが。
「そこの人、喧嘩を止めなさい!」
騒ぎを聞きつけた警官が走ってきた。その声に驚いたように、彼の動きが一瞬止まる。
「……野郎!」
硬直した彼の頬に若者の左フックが入る。その瞬間、鈍い音がした。 それでもフックは浅かったようで、彼はよろめくこともなく、少し痛みに耐えるような表情。
「……!?」
そのときの空気の変化を、僕はなんと表現すれば良いのか……ぞくっ、とした。 僕の体中の毛穴という毛穴が一気に収縮した。周りの温度が瞬時に10度くらい下がったような。 空気が沼の底のように淀んでいる。そして痛い。 びりびりと身が竦むほど強い……強い、何?この正体は何だ?
「あ、ちょっと君、待ちなさい!」
警官の声で僕ははっとなった。気づけば彼はとんでもなく素早い動きで走り去っていた。 その姿は雑踏に紛れて既に見えない。
「何だったんだ……今のは」
どれだけ茫然自失としていたのか分からないが、 いつのまにか僕の周りの空気は元通りの暖かさを取り戻していた。 ギャラリーも既に散り、僕だけがその場に取り残された感じだ。 他の人は、感じなかったのか?あの寒気を、おどろおどろしい空気を。
―――人を呪う、と。
ふいに、マキノおじさんの渋い顔が思い出された。まさか、と思う。呪いだなんて、 到底信じられない話だ。けれど彼が殴られたときの空気は、気のせいにするにはあまりにも……
「何かが……起こるかもしれない」
僕の予感など、当たったためしも無い。今度ばかりは、杞憂で済ませて欲しいと思う。 僕の予感など、当たったことが無い。今はその事実に縋りたい気分だった。



よく眠れなかった。翌日の午前中、僕は重い頭を持て余しながら 自室のベッドでごろごろしていた。ふと、何度目かのうたた寝から覚めると夕方の4時になっていて、 何だかひきこもりになった気分だった。流石に動いた方が良いと思って、 そういえば牛乳とパンが切れていたことに気づくと、買いに行こうと外へ出た。
外へ出るとどんより重い雲が低く垂れ込めていて、僕は傘を取りに戻ろうか迷った。 でも降ったときはそのときだと思って、構わず歩き出した。 まるで夏の夜のように風が生ぬるい。空気がいつもより重いようだ。雨の前兆だろうか。
「ちょっとお兄サン、いいですかィ」
辻にさしかかったころ、背後から声をかけられた。振り向くと、 見たことの無い小男がそこにいた。ひどい猫背で、その雰囲気は猿に似ている。 薄汚れた旅装束で、大きな荷を担いでいた。ぎょろりとした目がやけに印象的だ。 一瞬物取りかと思った。
「繁華街はどっちですかいね」
「……物売りの方ですか?」
「旅の香具師(やし)ですわ。怪しげなものばかり売っております。魔よけ、沈香、藁人形」
「はあ。……あっちの方に行くと大通りに出ますからね、そこに案内板がありますよ」
「かたじけないねぇ」
その香具師はひょいっとおじぎをすると、ざんばらの頭を掻いた。
「それにしてもお兄サン、この町、やっかいなんを迎え入れたもんですナァ」
「……はい?」
「良くないもんが紛れ込んでますよ、空気が淀みきってますわ。こりゃあ不幸が起きるねぇ」
僕はどきっとした。得体の知れない香具師の言葉が、やけに真実味を帯びて聞こえたのだ。
「……呪い……」
僕のつぶやきに、香具師はからからと笑った。
「呪い、呪いね!ちがいないねぇ。でもこれはもっと生々しいもんさ。 お兄サン、あんた、人間の持つ最も強い感情を知ってるかい」
「……いえ」
「『憎・し・み』。憎悪でさぁ。行過ぎた憎悪は、不幸を呼ぶのさ。 相手にも、自分にも、周りにも。そこいら中にね」
香具師の言葉に、僕は昨夜のことを思い出した。思い当たるフシがありすぎた。 もしかすると、あのとき……彼が殴られたとき感じたもの、 あれは、憎悪――憎しみだったのか?あの淀みは……彼の憎悪なのか?
「たまぁにね、憎しみが暴走しちまう奴がいるんですわ。 しかも厄介なのは、本人がそれに気づいてないんでサ。 だから知らぬ間に人を呪う。本人に自覚がないんで、止めようが無い」
こんな怪しい香具師の言葉、普段の僕なら信じなかったのだが。 あの旅人に続いて、示し合わせたように現れたこの香具師。 僕が言うのも変だが、何か、啓示を受けた気分だった。
「どうしたら……不幸は止むのですか」
「そりゃあ難しいねえ。まず刺激しないこと。で、本人が自覚することよ。 ま、一番楽なのは、嵐が通り過ぎるのを待つことでサ」
「はぁ……」
嵐が過ぎるのを待つ――それはつまり、彼が去るのを待つことか。 でもそれでは、解決にならない……それに気になるのは、昨日彼を殴った若者だ。 マキノおじさんが話していた噂と、この香具師の話をもし信じるとするならば、 あの若者はおそらく無事では済まない……眉をひそめる僕をからかうように香具師は明るく笑う。
「まぁどの道、あと少しすりゃ終わりますよ、この淀みも。で、お兄サン、お守りひとつ、どうですかィ」



薬局で牛乳とパンを買って家路に着くと、家の辺りが何やら騒がしかった。 僕の家のすぐ前にある宿屋、あの彼が泊まっている宿屋の入り口辺りに、 町の人が集まっていたのだ。若者から老人まで、優に三十人はいる。 その中にマキノおじさんがいるのを見つけて、僕は慌てておじさんに話しかけた。
「どうしたんですか、こんなに人がたくさん」
僕を見たおじさんは、今まで見た中で一番怖い顔をしていた。 その瞬間僕は、嫌な予感が的中したのだと確信した。
「ムトーさん。やっぱりあの噂は本当だったんだよ」
「……亡くなられたんですね、人が」
おじさんは頷いた。僕は、静かに瞑目する。
「ヤガワさんちの息子だよ、不良の。夜中のバイク事故らしいが、 昨日の夜、あの旅人と口論になってたって言う目撃者がいる。 今、宿のおかみさんに旅人を引き渡すようにお願いしてるんだ」
「彼を……どうするつもりなんですか」
「……皆でしかるべき処置をする」
「でも彼が意図的にやったって決まったわけじゃないでしょう? それに偶然かもしれないじゃないですか」
「だが人が死んでる!」
語気強く言ったおじさんの目を見て僕ははっとした。 おじさんの目には明らかな怯えがあった。「呪い」という、未知のものに対する怯えが。
「おじさん……」
そのとき、周りが騒がしくなった。宿の入り口から彼が出てきたのだ。 彼はよくある罪人のように上着などで顔を隠すこともせず、 特に不安や狼狽などの表情は見えない。 むしろ入り口付近にいた人たちが彼を恐れるようにじりじりと後ずさっていく。
彼は無表情のまま、辺りの群集…つまり僕たちを見やった。 彼の身体は拘束されてはいないが、一切の抵抗をせずに用意された車に向かっていく。 彼に近づこうとする者は、誰一人としていない。
「……何をしてる!」
突然、思いがけない方向から大きな声がした。何事かと皆が一斉にそちらを向く。 そしてどよめきが広がった。声の主は皆が知る人物だった。 町の住人にしては珍しい、上質のスーツを身にまとう初老の男性。 この町の町長だ。この町長は人柄が良いと専らの話で、町人の信頼も厚い。 たちまち辺りが動揺でざわつき始める。
「扇動者は誰だ」
町長が問うと、ひとりの男性がおずおずと前に出る。 その顔を見て町長はため息をつくと、皆を見渡した。
「話は聞いた。不安というものは誰にでも在るものだろうが、 噂に振り回されるのは看過できない。なにも進んで自らを貶めることをせずとも良いだろう」
「し、しかし……実際、人がひとり死んだのですよ……」
落ち着き払う町長に対し、前に出た男性はおどおどと控えめに不満を漏らす。 町長はそれを目を細めて見ると、立ちすくんだままの旅人にゆっくりと歩み寄った。
「なら、証明をすればいいことだ」
町長は彼のすぐ前まで来ると、「失礼する」と一言かけて、ためらうことなく、ぱしん、 とごく軽く彼の頬をはたいた。突然の行為に彼は一瞬目を見開いたようだったが、 それ以上の反応は一切無い。群衆は町長の行動に息を呑み、辺りは静まり返った。
「……ふむ、なんともないな」
数十秒経った頃だろうか。町長は異変の無いことを確かめると、周りを見渡して言い放った。
「これで明日まで私が無事なら、噂は唯の噂だと証明できるだろう」
町長は皆に散るよう告げた。そして彼に向かって小さく頭を下げた。
「旅人さんにはご迷惑をおかけした。明日には疑惑は晴れるでしょう。 それまでは、念のために外出を控えた方がいい」
彼は少し顔をこわばらせたまま頷くと、宿屋に入っていった。 町長が傍に停めたマジェスタに乗り込んで去ってゆくと、 やがて群衆も散り始める。騒ぎは一応の終結を見せたようだった。
「町長さんも豪胆なことをする」
隣のマキノおじさんの言葉に、そうですねと僕はどこか上の空で答える。 豪胆だが僕には愚かともとれた。これで何も起こらなければそれでいいのだが。
とはいえさきほどの町長の行為が、香具師が言うところの呪いの元凶である 「彼の憎しみ」を招くとも思えなかった。昨日の場合とは違う。 僕が見る限り、町長は彼の怒りを買うような行動はしてないし、むしろ助けたのだから。 もちろんこの仮定は、あの怪しげな香具師の言葉を全面的に信用するのが条件ではあるが。 僕がそう納得しかけたときだった。突然、首筋がひやりとした感覚を捉えた。
―――さ、…ナい……
「……!?」
耳を掠めたのは、低く唸るような男性の声だった。 僕は咄嗟に辺りを見回すが、近くにはマキノおじさんしかいない。 違う、おじさんの声ではなかった。幻聴か?
―――ユる…さ……ナイ……
また聞こえた。そのとき、あの香具師の声が蘇る。
『人間の持つ、最も強い感情を知ってるかい――』
僕は愕然とした。
「……憎悪…だ……」
この淀み。この寒気。身が竦むほど強い――憎しみ。
「いけない……」
嫌な汗が噴き出した。このままではいけない……また犠牲者が出る。
「……どうした、ムトーさん。顔が真っ青だぞ」
「おじさん……何か感じませんか」
「はぁ?風邪でもひいたかね」
おじさんは心底不思議そうな表情をしている。何も感じていないのか、 こんなに空気が淀んでいるのに。嫌な予感が止まない。 このままでは、まず犠牲になるのは町長だ。そうなったら町の人は、絶対に彼を許しはしない。 どうしたらいい?僕は……どうしたらいい?もしも僕しか気づいていないのだとしたら……
(いや……違う)
あの香具師。彼はこの淀みに気づいていた。だからこそ僕は、 この空気の淀みと若者の死が繋がっていることを知ったのだから。 あの香具師なら何とかできるのではないか。そう直感して僕は走り出していた。 香具師の向かった繁華街へと。



見つからない……
この先三ヶ月くらい走らなくても良いんじゃないかというくらい走り回ったと思う。 この町の繁華街なんて大した大きさでもないのに、 今夜はどうしてこんなに広く感じるのだろう。 小走りと早歩きのコンビネーションで大通りを何往復もして、 ついには息が切れて立ち止まった。はあ、はあ、はあ、 必死に呼吸を整えようとする僕の横を人の波が過ぎてゆく。 何してるんだろう、僕は……脳に酸素がまわらなくなって、 何だかもうどうでもよくなって、僕は空を仰いだ。星の少ない、貧相な空が見える。 繁華街の明かりが邪魔をして、本来の輝きを失っている星々。
(……あそこからなら、もう少し綺麗かもしれない……)
僕はふと、公園で彼と初めて会ったときの星空を思い出した。 つい先日のことなのに何処か懐かしく思えるのは何故だろう。 その時はたいして綺麗だとも思わなかったくせに。 それでも僕がその情景を覚えていたのは、きっと隣に彼がいたからだ。 蛍の光に似た瞳を持つ、あの不思議な青年が……
とぼとぼと僕は繁華街を抜けた。何だか無性にあの公園に行きたくなったのだ。 外灯に浮かび上がったぶらんこ。彼がそうしたように、そのひとつに座って、 そこから星を見たかった。そんな気分になったのは、 僕が彼との運命にも似た巡りあわせを信じ始めている所為なのだ。 だからあの日の夜と同じように、彼がぶらんこを緩やかにこぎながら、 ぼんやりと空を眺めているのを見つけたときも、僕はさほど驚かなかった。
「……こうやってぶらんこをこぐとね」
僕の気配にすぐ気づいたのか。彼はこちらを向かないで空を眺めたまま、歌うように口を開いた。
「空が近づいたり遠ざかったりするでしょう? 距離としては本当に些細なものだけれど、それでも、近づくんですよ。 星との距離がね。昔そんな話をしたら、あの人はね、オレにはわからない、って言いながら、 それでも微笑んでくれました」
キィ、キィとぶらんこのきしむ音を聞きながら、僕は彼のすぐ傍に立ち、 彼の横顔を見つめると、短く切り出した。
「……どうか早く逃げてください」
「…あなたは……俺から逃げないんですね」
彼は、ふ、と視線を落とした。こぐのを止めたぶらんこは惰性のまま揺れ続けている。
「逃げてください。町長はじきに亡くなられるでしょう。 そうなったらあなたは無事では済まない」
「それも……いいでしょうね」
そのときの彼の顔は、八十代の老人にも似ていた。……そんな疲れ果てた色をして。
「………なぜ」
「いつしか俺の周りでは、不幸ばかりが起きるようになりました。 『呪う』という噂。あれは本当ですよ。もう何人も殺してきました……」
「だから……もう自分はどうなってもいいと?」
彼は少しためらってから、控えめに、こくりと頷いた。
「俺はいい加減、報いを受けるべきなんです……俺を殴った男は、事故に遭いましたね。 俺を襲おうとした賊は、湖の底に沈んでいたそうです。 俺を励まそうと思いっきり肩を叩いてくれたおばさんは、包丁で自殺したと。 他にも。……きっと、これは俺自身にかけられた呪い…… 大事な人をいつも…見殺しにしてきたから」
彼は自嘲気味に呟いた。その言葉に僕は違和感を覚える。……違う、僕は漸く気づいた。 彼は何か思い違いをしている。
「ちがう……あなたが憎むのをやめれば呪いは起きないんだ」
「憎……む?」
少し呆然とした顔を、彼はした。
「旅の香具師が言っていました。憎しみが暴走するから人が死ぬのだと」
「俺は……憎んでいたんでしょうか……」
「おそらくは」
本人は自覚していないと、香具師は言った。そして自覚させないと、呪いは止まないのだと。
「あなたは、気づかないといけないんです」
「でも……俺は憎んでなんか」
「いいえ、憎んでいるんです」
「ちがう……ちがいます」
彼は頭を抱えてかぶりを振った……そのときだ。なにかとても嫌な――嫌な感覚がした。 彼が何かに弾かれたように反応したのに僕が気づいたとき、僕は彼に大きく突き飛ばされていた。
「……!」
直後、鈍くて重い音がした。そして僕は信じられない光景を見る。 さっきまで僕がいたところに、人の頭ほどもある石があった。 落ちた衝撃で少し地面にめりこんでいる。思わず頭上を見上げたが、 そこには星がいくつか瞬いているだけだ。こんな石、どこから降って……
ふたりの間に、鉛ほどに重い沈黙が降りた。僕は今度こそ蒼白になって、呆然とつぶやいた。
「…僕も……憎いのか…?」



「…………」
彼は否定もせずに、どこか苦々しい顔をして俯いた。そのときだ、向こうから怒声が響いた。 僕らが驚いてそちらに視線を移すと、幾つもの懐中電灯の光がフラッシュのように目を灼いた。 光が数え切れない、半端な数ではない。
「いたぞ!ここにいる!」
「公園に隠れていやがった!」
群衆がこちらにどやどやと駆けて来る。どれだけの人が集まったのだろう、 目に見えるだけで先ほど宿の前にいた人数の数倍はいる。 公園にある外灯の光が男たちを照らすと、 その百人あまりの群集を先導している男の中に僕は見知った顔を見た。 ――町長の息子だ。彼が此処にこうしている理由は、町長はあの後どうなったのか、 ……もう言うまでも無いだろう……
「もう言い逃れできると思うなよ……!」
「やはりさっき叩き出すべきだった!」
「いや殺すべきだ!」
「殺せ!」
「殺せ!」
「殺せ!!」
僕は……そのとき生まれて初めて、群集が恐ろしいと思った。 人の波は凶器だ。初めて、人間が作る集団が恐ろしいと思った。 「殺せ」「殺せ」のコールが鳴り止まない。 それはけして僕に向けられているものではないのだけれど、 それは僕にとってあまり関係のないことだった。震えが止まらない。 両の足が木偶のように感覚が無い。僕は立ちすくんだままもはや一歩も動けなくなっていた。
視線だけゆっくりと彼の方に移すと、 彼は先ほどから能面をかぶったように表情が変わっていないのが心なしか奇妙に思えた。 俯いて、どこか苦々しいように、何かに耐えるように、押し黙ったままだ。 般若の顔をした町長の息子が手にしていた出刃包丁を両手でしっかりと握りなおし、 彼めがけて真っ直ぐ駆け出すのが見えた後も、彼の表情は何ら変わりはしなかった。
(駄目だ……)
何が駄目なのか、何に対して、なのか、僕にはわからなかったけれど、 もう叫ぶしかなかった、いつしか僕は力いっぱい叫んでいた。
「駄目だ!駄目だーー!!」
キィン、と鋭い音が聞こえたように思う。僕はその瞬間思いっきり目をつぶっていたようだ。 気づくと町長の息子は吹っ飛ばされたように地面に倒れていた。 いや、「何か」に吹っ飛ばされたのだ。出刃包丁は町長の息子の手を離れ、 少し離れた所に転がっていた。群衆は信じられないものを見たように静まり返る。 その水を打ったような静けさの中で、僕は再び、あの声を聞いた。
―――サ……ナイ…………
地を這うようなうめき声だ。寒気と同時に、びりびりとどうしようもなく強い感情を感じた。 そう、憎しみだ。半端でなく強い、呪いの根源……何よりも強い憎悪だ。
「みんな…逃げろ……!」
―――る…サ……なイ…ユルさ……な…
「逃げろ!逃げてくれ!……逃げるんだ!!」
僕は無我夢中で叫んだ。ここにいては駄目だ!直感がそう告げていた。
「ぐあぁっ……!!」
―――ユル…サナ…イ……
急に苦悶の声が上がった。町長の息子が横たわったままのたうっている。 何事かと思って僕が視線をそちらに移すと、あちこちで絶叫が響いた。 僕らを取り巻いていた群衆が次々と倒れていく。 それに気づいた人々が蜘蛛の子を散らすように逃げ出すが、逃げる傍からどんどん倒れていく。
「い…痛い痛い痛い!!」
「ぎゃああぁ!!…うあぁ…っ!」
「助けて……!助けて、誰か!!」
―――ユルサ…ナイ……!
たちまち辺りは阿鼻叫喚の様相を呈す。周囲を支配する淀んだ空気と、 悲鳴と、のたうちまわる町人たち。いつしか立っているのは僕と彼だけだった。 何故僕だけ無事なのかを気にする余裕すら無く、呆然と辺りを見回すことしかできない。 ゆっくりと僕の視線が身体と一緒に一周すると、 最後に俯き加減に立っている彼に視線が行き着いた。そしてそこから動けなくなる。 彼からとてつもない威圧感を感じるのだ。モンスターどころの騒ぎじゃない。 まるで邪神のようだ。彼の周囲に僕は黒い霧のようなものを見た。 彼に絡みつくようにまといついている黒い衣。それは彼の憎しみそのものを表すのか、 夜の闇のように淀んで……
―――ユルサナイ……!
「なにが……そんなに憎いんだ……」
呆然と僕はつぶやいた。周りのうめき声は、僕の耳にはもう聞こえていなかった。 こんなひどい憎悪を僕は他に知らない。過ぎた憎しみはどこか悲哀すら漂わせるように。 こんな憎悪を身にまとう彼を、何故か僕は哀れだと思った。
「ありゃりゃりゃ!こら大変ダァ」
不意に、場違いな声が聞こえて僕は反射的に彼から視線を外して声の主を見やった。 あのときの香具師だ。倒れている人々を踏まないようにひょいひょいと飛び跳ねながら、 おおい、と僕に呼びかけた。
「そんなとこにいちゃ危ないよォ。こりゃあ世紀の大怨霊のヒナだァ」
「……大怨霊?」
僕の傍にまで来ると香具師は両手を奇妙な形に組んで、聞いたこともない異国の呪文を唱えた。
「おんあぼきゃ・べいろしゃのうまがぼたら・まにはんどま・じんばらはらばりたや・うん!」
香具師が気合をかけると、どういう訳か、 彼が身にまとっていた黒い霧が吹き飛ばされるように彼から剥がれていった。 途端、その場の空気が変わった。まだ沼の底のような淀みは消えない、が、 身に痛いような憎悪が和らいだ。その代わりにごく小さなすすり泣きが聞こえた。 それは彼から剥がされた黒い霧の中から聞こえる。 霧から解放された彼はふっと力が抜けたようによろめいて膝をついた。 彼から離れ黒いかたまりになった霧を、香具師はひょいと指さした。
「お兄サン、こいつが呪いの元凶でさァ。ライフストリームに還れなかった人の魂よ。 ずっとこの男にとりついていたのさ。そんで、この男に近づく奴らを憎んで殺していったわけでサ。 それがエスカレートして、無差別に生き人に危害を加える大怨霊になりかけてたとこさね」
「人の魂……?」
「まぁ、今は光明真言聞かせて、すこぉし落ち着かせてはいるがねぇ」
「何てことだ……」
僕は軽く眩暈を覚えた。思い違いをしていたのは僕の方だ。 憎しみを持っていたのは、彼自身ではなく、彼に取り付いた怨霊だったなんて。 酷い思い違いだ。途端、羞恥に近い後悔を感じた。 僕は、憎しみの原因が彼だと思い込んで、彼を責めたのだ。
「……すまなかった。僕はひどいことを……」
僕は彼に謝ろうとして声をかけたが、黒い塊から解放された彼は、 信じられないものを見るように、まるで両目がはちきれそうなほど目を見開いて、 すすり泣く黒い塊を凝視している。唇がかすかに動いた。 声は小さすぎて僕には聞こえなかったけれど、唇の動きが読めた。……まさか、と。
「強すぎる執着は、得てしてよくない結果を招くもんでさぁ。旅人サン、 あんたはもう、『これ』が誰だかわかってらっしゃるんでショ? ここまであんたに執着している人間のことをサ」
「……セ…フィ……」
呆然としたように彼は口を開いた。『セフィ』とはこの黒い塊のことか。
「セフィなの……?」
彼はゆっくりと立ち上がった。覚束ない足取りで黒い塊に歩み寄ると、へたりと座り込む。
「そ……っか。ずっと……俺の傍にいたんだね……」
黒い塊のすすり泣く声に、彼は悲しげに目を細めた。
『……っ…く…ぅ……ユルサナイ………』
「悲しい…?苦しいの……?セフィ……?」
彼は黒い塊に触れようとして、けれど霧を掴むのが不可能であるように、 彼の手はいとも容易くすり抜けてしまった。彼はそれを悲しげに見て、 すすり泣きに紛れた微かな声を聴き取ろうとするように顔を寄せる。
『…うぅ……ユルサ…ナイ……』
「苦しかった…?……寒い?……淋しいの…?」
おもむろに彼は辺りにこうべを巡らせて、町長の息子が持っていた出刃包丁を見つけると、 それを拾い上げた。
「セフィ……還れないなら……一緒に還ろう?…俺が、そっちに行ってあげるね…… そしたら……もう淋しくないから……」
優しく黒い塊に語りかけると、彼は手にした包丁を自らの首筋にあてた。 僕は背筋が凍った。いけない!と思った。そう思った瞬間身体が動いていた。 まるで「自分のものではないように」身体が動いた。その刹那、 走馬灯のように誰かの意識が僕の中で駆け巡った。 それはまるで頭の中一杯に映画のネガフィルムを撒き散らすのにも似て。



ここに、いるよ……
おまえは気づかないね
夜な夜なひとりで眠るおまえに
ひとりのベッドが広すぎて涙するおまえに
私は寄り添うだけ
おまえの唇が私の名前をなぞるのをみて
ここに、いるよ……
けれど、おまえは気づかないね
それでも、傍にいたくて
髪を梳く手も
抱いてやる腕も
私にはもうないけれど
ここに、いるよ……


触れたい
おまえに触れたい……
思い出せないんだ
おまえの匂いが思い出せない
肌の弾力も
唇の柔らかさも
おまえにもう一度、触れたい
どうか、もう一度だけ……


もう戻らない
もう触れられない
願いは絶望を生んだ
絶望は悲しみを生んだ
死者は涙を流せない
泣くこともできずに叫ぶだけ
ただ、叫ぶだけ


毎夜のように涙を流すクラウドをずっと見ていたから
少しでもクラウドが癒されるのなら構わないと思っていたのに
泥酔したクラウドと共に宿の部屋に入ってきた男
押し倒す、男。クラウドは其のまま受け入れて
男の唇とクラウドの唇が重なるのをみて
裸の胸と胸が重なるのをみて
気が狂うかと……思った
(…やめ…て……!)
声の無い悲鳴が
『成る程、綺麗な身体だ』
きしむベッドの嫌な音が
(こんな光景…見せないで……)
なのに離せない、目が
『おまえ、相当溜まっていたのか』
首筋に吸い付いた男の左手が
(お願い…オレをここから消して……!)
神を呪う消滅願望が
『く……そんなに締めるな』
クラウドの上気した顔が
(あれはオレだけのもの…なの…に…っ…)
嫉妬では到底説明のつかないものが
『どうした、もっと腰を振れ』
男の獣じみた吐息が
(……る…さ…ない……!)
爆発した、感情が
ゆるさない……
ユルサナイ……ユルサナイ……!
オレの…クラウドに……触れるな……!!!


クラウドの首筋にあった包丁の刃は粉々に砕けていた。 呆然とするクラウドと、包丁の柄を剥ぎ取った僕との間に漂う黒い霧を、 僕は瞠目して見つめた。僕の中で一瞬のうちに駆け巡った意識、あれは、黒い霧が見せた幻か。 ……何て哀しい幻。僕は放心したように、ぽつりと小さくつぶやいた。
「憎かった……?」
僕の両目から涙が滑り落ちた。それは本当に僕の涙なのだろうか。
「クラウドに触れられる奴らが、憎かった……?」
胸の中に、まだ残っている。黒い霧の意識の残響。
「違うだろう…?…おまえは、ただ……」
悲痛な、憎しみという外郭に覆われてしまった、クラウドへの想い。
「おまえは、ただ……クラウドが大好きだっただけなんだろう……?」
クラウドを抱いた男を惨殺した日から、何かが狂ってしまった。 呪いたくて呪ったわけじゃない。本当は、本当はこの黒い霧は、 クラウドの傍にいたかっただけ、ただ、それだけで……
すすり泣きは止んでいた。けれど黒い霧は、透きとおった硝子のように冷たい悲哀の空気を 漂わせたまま、クラウドを包み込むように彼の身体にまといついていた。
「……セフィ……セフィ…」
クラウドは涙を堪えるように俯いて、肩を震わせて、黒い霧がかつて人間だった頃の名を、 何度も呼んだ。
「だぁいぶ、おとなしくなりましたなァ。これなら、除霊も楽ですわ」
除霊、という言葉に、僕の心臓が跳ねた。
「除霊………ってどういう…」
「ライフストリームに還すんですヨ。そうすりゃもう、呪いはなくなります。 ちょっと強引なやり口ですがね、自分の力だけじゃ還れない霊にはそうするしかないんでさ」
「でも、あなたは前に言っていたじゃないですか。自覚させれば呪いを止めることができるって」
「そりゃ生き人に原因があった場合の話しでさ。 霊は心がむき出しだからすぐ感情的になるしねェ。 なんにせよこの霊は力がありすぎて危険でなあ、ライフストリームに還さなぁいかん」
「けれど……けれどそれでは……」
僕は黒い霧の心に触れてしまった。一度同調してしまった僕の心は、 除霊という荒療治に耐えられそうにない。 香具師はその猿のような顔をやや悲しげに歪ませた。
「……この世には摂理が……因果律ってもんがあるんですヨ。 このふたりは既に永訣を迎えてるンですから。 死者はあるべきところに還らなくてはねぇ……」
正しい。香具師の言うことは正しいのだ。それは分かっている。
「しかし……でも…それでも……僕は……」
それでも納得できない僕の言葉を遮ったのは、存外はっきりとしたクラウドの声だった。
「セフィがね、いいよ、って。還るって言ってる」
僕が驚いてクラウドを見ると、黒い霧をまとったクラウドは、 少し寂しい顔をして、そう言った。
「もうこれ以上、人を殺したくないって」
「……!」
僕は泣きそうな顔をしていたのかもしれない。あるいはクラウドの表情が、 僕に移っていたのかも知れない。クラウドは、……の表情で (残念ながら僕の語彙では上手く言い表すことが出来ない)、 ゆらゆらと自らの身体を包むように漂う黒い霧をすくいとろうと手を差し伸べる。
「ごめんね……最期に、抱きしめてあげたいのに……身体がないから…… 抱きしめてあげられない……ごめんね、ごめん…ね…」
このふたりは、こんなに傍にいながら、とてつもなく遠いところにいる。 けして重なることの無い距離。ふれあうには、クラウドが死ぬか、 黒い霧が生き返って実体を持つしかない。だが前者は、黒い霧の方が拒絶した。 では、……では、後者は?
「僕の身体を……使えないか?」
「……え?」
呆然となるクラウド。僕の言葉が突拍子も無さ過ぎた所為だろう。確かに突拍子も無い。 ただ昔テレビで見た「イタコ」という女性のことを思い出したのだ。
「その霧が僕の身体に乗り移れば……実体が得られる」
「お兄サン、そりゃあ駄目サァ!確かにあんたは多少この霊と波長が合うらしいねぇ、 でももしこの霊が悪い気起こして完全に乗っ取られたら、 あんた身体を追い出されて死んじゃうよォ」
香具師が慌ててわめいた。僕ごときの素人の考えだ、否定されて当然だと思う。 成る程、身体が完全に乗っ取られたら僕は死ぬのだという。
……でも、 僕にだけこの黒い霧の声が聞こえていたのは、そう定められていたからではないのか?
「どうしてでしょうか……それでもいい、と…思ったんです」
「お兄サン……?」
本当に、どうしてか分からない。憐れみ、ではない。同情ではない。 そしてこれは共感でも、ない。―――ああ、もしかしたら、これが……
(これが……感動、なのか……)
「……おいで、僕の中に」
黒い霧はためらうように漂っていたが、やがて徐々にクラウドから離れると、 僕を取り巻いた。頭の中に冷たい何かが這入ってくる。途端僕を襲う、寒気と、吐き気。 次第に強くなる。僕はぎゅっと目を瞑って耐えた。 気持ちが悪くて悪くて、もう限界だ、と思ったら次第にそれが遠くなって、 やがてほとんど何も感じられなくなったとき、いつしか僕は僕を「見て」いた。 けれど僕の見ている「僕」は、それはもう僕ではなかった。
ゆっくりと目を開いた「僕」の瞳は、見たことも無い綺麗なエメラルドグリーンに変色していて、 顔つきも全く違っていた。
確かに僕の身体のはずなのに、美しいと、感じたのだ。 神の姿を見たかのように、僕は陶然とした。
「セ、フィ……?」
クラウドの瞳が揺れる。信じられないものを見るような目で。
「………クラウド……」
「僕」は躊躇いがちに口を開いた。その声もともすれば僕のものではなかったのかもしれない。 「僕」はクラウドへゆっくりと手を差し伸べる。うまく身体を動かせないのか、 きしむ音が聞こえそうなほどぎこちない動きだった。
「クラウド……抱きしめてくれないか……?」
深層の海底のように深く、深く傷ついたエメラルドグリーン、 僅かに苦痛の入り混じった表情で、それはまるで救いを求めるかのように。
「どうか…オレを抱きしめてくれないか……」
震えながら「僕」が足を一歩、踏み出す。けれどバランスがうまくとれなくて、 ぐらりと身体が傾いだ、その時、審判は下った。 クラウドは自らの身体に倒れ掛からせるように「僕」の身体を支えた。 「僕」の身体を思いっ切り掻き抱くことで。
「――――」
一瞬驚いたように「僕」が目を見開く。渾身の力で抱きしめられて、何処か呆然としたまま、 「僕」はやがてクラウドの背中におずおずと手をまわした。
「クラウド―――クラウド」
首筋に顔を埋め、頬を寄せる。柔らかな髪、香るのは少し甘いクラウドの匂い。
「クラウド、クラウド、クラウド―――」
幾度と無く名を呼び続ける。その音を確かめるように、幾度も、幾度も。
「クラウド……ありがとう」
クラウドの温かさを深く感じ取るよう目を閉じると、頬を涙がつたう。
「思い出せた……おまえの匂い。おまえのすべて。…やっと逢えた…… オレはもう行かなくてはならないけれど。……でも、これが最後じゃない」
クラウドは頷いた。その穢れの無い顔に、微笑みすら浮べて。
「…生まれてきてね、セフィ。今度はひかりの子になって。みんなから愛される子になって……」
「そしていつか、おまえに会いたいな……」
「うん……俺はいつまでも、待ってるからね……」
視線が絡みあうと、少し照れた様に微笑む。クラウドの白い頬を撫でて涙を拭い、 親指でそっと唇をなぞる。
「また巡り会えるその日まで、どうかオレを忘れないでいて…… オレの愛しい……オレのクラウド……」
そしてゆっくり、唇がふれ合う。クラウドの唇…クラウド、クラウド、クラウド、 クラウド、クラウド…!……頭が真っ白で何も考えられない……胸が…苦しい…熱い…… 何かの、奔流に、飲み込まれて…息ができない……涙が、溢れて…… どうして?…どうして…?………どうして?
「あ……」
ふと気がつくと、すぐ目の前でクラウドが僕を見て涙を流している。 まだほんの少しだけ照れくさそうに微笑んで。僕は四肢の感覚が戻ったことに気づくと、 無意識に自分の頬に手をやる。濡れた感触がした。しかもまだ次々と溢れ出して。
「どうも除霊の必要は無いみたいですなァ」
飄々とした香具師の言葉に、僕は頷いた。
「…彼は、還りました」
それなのに涙が止まらない。これが幽霊に身体を貸した代償であるなら軽いものか。 あのキャパシティによくこの身体が持ったものだ。我ながらとんでもないことをしたと思う。
あの「セフィ」と呼ばれた男が何者だったのか、僕には知る由も無いが、 僕の心に残った、この残響の透明なこと、 クラウドを愛くるしく想う心の純粋なこと。これだけあれば、他に説明など要らない。
男ふたりが涙を流している妙な場を、香具師が騒いで急かす。
「さァさァ、成仏も済んだトコで、旅人サン、早いとこ逃げた方がいいですヨ。 幸いみなさん気絶しているだけですカラ、今のうちにとんずらしましょ」
その言葉に僕は慌てて涙を拭った。いつまでも泣いているわけにはいかない。 公園には半端でない人数の人間が倒れている。町長も亡くなった。 「誰が、何故」それをしたのか、真実を話しても誰も信じはしないだろう。 ならば今すべきことは、速やかにここから立ち去ることだ。
「クラウドさん、逃げましょう。町を出る近道を知っていますから」
「…………」
けれどクラウドは顔をこわばらせて、逃げることを躊躇っているように見える。 ……罪人そのもののような顔をして。僕は堪らなくなって口を開いた。
「……クラウドさん。彼岸に去った者を裁くことは、此岸にいる者にはできません」
「…………」
クラウドの表情は変わらない。痺れを切らした香具師が背を叩いた。
「ホラホラ、あたしが倒れとる人ら見張って、目ェ覚めたら適当に誤魔化しときますカラ。 早よ逃げナァ」
「さあ、行きましょう」
公園の裏出口へ駆け出して、後ろを振り返ってクラウドが付いて来ているのを確認し安堵する。 裏出口を抜けて、家屋と家屋の間の細道、街道を目指して入り組んだ道を駆ける。 夜逃げ屋になった気分だった。
やがて街灯はなくなり、建物もまばらになる。漸く街道に出る頃には、 情けないことに僕の息はすっかりあがってしまっていた。
「はぁ、はぁ……ここまで来れば、大丈夫だと思います」
「……ありがとうございます」
クラウドは息ひとつ切らさずに、礼を述べた。その顔にわずか、 ほんのわずかに静かな笑みを浮べて。
「ああ、やっと笑ってくれましたね」
たとえ心から来る微笑みでなくても。それでもいい。 そして僕は、あつかましいとは思いながらもどうしても気になったことを訊いた。
「…これからどうなさるんですか?」
「…………」
人が嫌いな彼、定住しようとしない彼、それがもし呪いの所為だったのなら、 もう彼は危険な旅を続けなくても良い筈だ。
「あなたは、人が嫌いな訳じゃないのでしょう?本当に人と関わりたくないのなら、 山奥にでも隠居をする筈です。それでもあなたが旅を続けていたのは、 呪いを背負った身でありながら、人が恋しかったからではないのですか?」
クラウドの表情から微笑みが消えて暗い陰が差す。 それでも僕は言わなくてはいけないと思ったから、構わずに続けた。
「僕があなたの髪に触ろうとしたとき、あなたは酷い言葉を使って僕を拒絶しましたね、 僕を殺さないために。そんな優しさを持っているのなら、 なおさら、あなたは安息の地を見つけるべきです。いえ、見つけて欲しい」
「俺にそんな資格はありません」
クラウドは吐き捨てるように早口で言った。手を硬く握り締めて、小刻みに震えてまで。
「俺はあなたが思っているよりずっと最悪な人間ですよ。俺はね、 あなたにあのひとが乗り移ったとき、 あのひとがあなたの身体を完全に奪い取ってしまえばいいと本気で願ったんです。 あなたを殺してでも」
「…………」
「そう、呪いなんて本当はどうでもいい。周りの人を何百人殺したってかまわない。 俺は……俺はただ、あのひとが、 あのひとが俺のそばにいてくれれば、それだけでよかったのに……!!」
最後のほうは声が震えていてもう良く聞こえなかった。 堰をきったようにクラウドの青い瞳から涙が溢れ出す。 涙は拭っても拭っても溢れて、堪えようとしても嗚咽は漏れ続けた。 街道にぽつん、ぽつんと百メートル間隔に立った外灯の光が、クラウドの涙をきらきら照らす。
「また……会えますよ」
「……?」
クラウドが不思議そうに顔を上げる。涙でぐしゃぐしゃになった顔は少し幼く見えて、 きっと彼もクラウドのこんな表情が大好きだったんだろうなと、何気なく、思った。
「現世で近しかったもの同士は、来世でも巡り会うといいます。 あなたと彼も、いつか、再び邂逅を果たす筈です。僕が、彼と出会ったように」
「……本当に……?」
クラウドが涙で濡れた瞳を揺らす。その瞳を真っ直ぐ見て、 僕は自信を持って頷いた。だってこんなに残っている、 彼の想い。胸の中がまだ、こんなに温かい。
「あんなに純粋で強い愛は、他に知らない」
その言葉に、一瞬クラウドは驚いたようになって、そして少しだけ、そう、 ほんの少しだけ微笑みを浮べた。僕にはもう分かっていた。 それがうわべの微笑みでないことを。
「…俺は旅を続けます」
はっきりとクラウドはそう告げた。頬の涙はまだ乾かないけれど。
「あのひとを探します。昔みたいに、また一緒に笑えるように」
僕は頷いた。きっとそのとき、僕も微笑んでいたはずだ。 クラウドはもう一度僕に微笑みかけると、小さくお辞儀をして、遠くを見据えた。 そしてゆっくりと夜更けの街道を歩き出した。 今度は目的の在る旅へと。僕はずっとクラウドの後姿を眺めていたが、 少しばかりぼうっとしていたのだろうか、その姿はいつのまにか夜の闇へと静かに溶けていた。



その後、僕の町では奇妙なことが起こった。短時間の記憶喪失者の多発。 それは100人もの町人に及んだ。 皆、同じ日の夕刻から明け方にかけての記憶を失っており、 その中にはマキノおじさんの姿もあった。そして僕は気づく。 記憶を失った人々の頭の中から、ある一人の人間の情報が消えていることに。
あの香具師の仕業だろう。
僕はさほど驚かなかった。あの香具師の正体は今になっては知る由も無いが、 もしかしたら物の怪の類だったのかもしれないなと思う。 結局あの香具師にはこれ以後一切会うことは無かった。
「みんなで変な喰いモンにあたったのかねえ」とぼやくマキノおじさんに 適当に相槌をうちながら、僕はひそやかに思いを馳せる。 あの夜、この世のものと思えないほど美しい二人が、再会の約束を交わした、ことを。 その夜、ひっそりとこの町から姿を消した青年がひとり、いることを。


わたしの場合、夜眠る前に、よく神様は降りてきます。
死んで肉体をなくしたセフィロス
クラウドの傍に居たいあまり背後霊になったセフィロスが
クラウドが他の男に抱かれているのを見て発狂して呪い殺すさまが
ある夜ものすごくリアルに頭の中で再生されまして
これをどうにかして書きたかった
ただ、守護霊が過剰に守りすぎる、という設定では
どうしても○野不由美の「魔性の子」に似てしまう
悩んだうえで友人に読んでもらいましたが
「こういう設定は怪談で良くあるし、
結末も魔性の子とは違うから平気だと思う」
とアドバイスをもらったのでアップするに到りました
……これでよかったのかな?


Galleryに戻る?