水底吹笛

―みなそこでふくふえ―


みなそこ(水底)とは世界の原始から存在していたわけではないのですから、 そこにたたずむ少年についてもまた同様なのでしょうけれども、 わたしがふと気づいたときには少年は常にみなそこにありました。

「よう、クラウド!おはようさん。今日もいい音色だな」
「ありがとう、ザックス」

「おはよう、クラウド!今日もいい日ね」
「そうだね、エアリス」

少年はいつもみなそこで笛を吹いていました。 それは口笛であり、草笛であり、ひちりきでありリコーダァでありました。 その音色は空気ではなく水でもなくなにか特別なものをぴぃんとふるわせて 辺りにひろがるようでした。

「おい、クラウド!聞いてくれよ、今日俺、デートなんだ」
「がんばってね、ザックス」

「こんばんは、クラウド!今日はね、お花、いっぱい売れたの」
「よかったね、エアリス」

少年の周りにはたくさんのいきものがおりました。 彼らは少年の上を漂いながら、せわしなく行き交うのです。 しかし誰も彼も、少年の頭上をゆらめきながらおしゃべりすると、 またどこかへ行ってしまうのです。 それなので彼らは少年にとってオーディエンスではなくいわゆるパッサァバイでありました。

「ひさしぶり、クラウド!今日はずっと向こうまで行くんだ」
「いってらっしゃい、ザックス」

「こんにちは、クラウド!相変わらず、きれいな音色ね」
「ありがとう、エアリス」

少年はただの一歩も動かずに、たたずんだまま、笛を吹くのです。 たったひとりで、笑うでもなく嘆くでもなく、 ついと走り去るひめますの軌跡を目で追うこともなく、ひたすらに笛を吹くのです。

「なあクラウド、どうしていつも笛を吹いているんだ?」
「それはね、」

「ねえクラウド、どうしてそこから動かないの?」
「それはね、」


その日、少年はお日様を浴びて光るみなも(水面)を眺めながら笛を吹いていました。 みなそこから見るみなもはとてもきれいで、 少年の笛の音もいつもよりずっとすきとおって聴こえました。
ふいに、みなもに黒い影があらわれたのは、 日がちょうど中天に達したころでした。 その影は少年に近づくにつれて、ひとりの青年であることがわかりました。 この辺りでは見たことのない、きらきら、白銀の青年でした。

「おい、そこのちっこいの」
青年は急に少年に語りかけてきました。
「なぜ泣いている?」
少年はどきりと体を揺らして、笛を吹くのをやめました。
「泣いてなんかないもん」
少年は元から大きな瞳をめいっぱい広げて主張しました。
「水の中では涙は見えないからな」
青年は少年の目の前に降り立ちました。みなそこの砂が煙のように舞い上がります。
「じゃあどうして、泣いてるなんて言ったの」
「オレがそう思ったからだ」
少年はびっくりしたのでしょう。ぴくりと震えました。 だけど、努めて表情には表そうとしないようでした。
「へんなの」
「そうだな」
青年は口端をかすかにゆがめました。 そして、一歩、少年に近づきました。 青年の瞳孔はつんとした縦長で、その鋭さがどこか野性味を帯びています。 少年は、あからさまにうろたえながら、問いかけました。
「どうして来たの」
「遥かとおくから、笛の音に誘われて、長い時間をかけてようやくここまで来たら、 おまえがいた」
「そうじゃなくて、どうして、みなそこに降りたの。 どうして、こんなにそばに来るの。いままで、誰も、ここまで来なかったのに」
青年は首を横に振りました。
「わからない」
「わからない?」
「だけど、わかることもある」
「?」
青年は何かを確信したように、言いました。
「明日も来たい。来ていいか?」
わたしが見たところ、きょとんとした表情のまま、少年は頷いていました。


青年が去った後、少年がいつものように笛を吹いていると、 いつものようにザックスがやってきました。
「こんちは、クラウド!今日の音色は、いつもとちがうな」
「こんちは、ザックス」
「どうしてそんなにうつくしい音を出すんだ?」
「わかんない」
「今日は何があったんだ?」
「あのね、かくかくしかじか」
「ふんふん、なるほどな、あ、わかった」
「?」
「へーぇ、そうなんだ、うんうん、いいねぇ」
「何がわかったの?」
ザックスがひとりごちていると、少年は問いかけました。
するとザックスは、にかっ、と満面の笑みを浮かべました。
「また、そいつと会えばわかるさ」


深い夜。しぃんと静まりかえったなか、ひょうひょうと笛の音は響きます。 今夜も少年はみなそこで笛を吹きます。瞳をとじて、祈るように。 あまりにも熱心に笛を吹いていたものですから、少年はしばらくのあいだ、 同じみなそこに立って笛の音を聴く青年の存在にきづきませんでした。
「明日が待てなかったから、今夜来てしまった」
「………」
青年が口をひらくと、ようやく少年は青い瞳をのぞかせて、 笛を吹くのをやめました。存外近くに、互いの顔がありました。 しばし、言葉なくふたりはみつめあいます。 青年の瞳孔は昼間と違って、かすかな光を取り入れようとまあるくひらいていて、 いくぶん柔和な印象を与えました。
「お前の瞳は」
先に口を開いたのは青年でした。
「お前の瞳は、なんにもうつしていない」
「だから、なあに?」
少年は、昼間と違って、ひどく落ち着いていました。 それはある確信を少年が持ったからでしょう。
「お前の心は、笛を吹くことばかり。他のあまねくいきもののように、 他のことに気をとられ、心をすりへらすことがないように、 お前は一心に笛を吹くのだろう?オレは知っていると思う、だけど敢えて聞こう。 お前はどうしてここで笛を吹いている?」
「それはね、」
少年の顔からは、何も読み取れません。
「一緒に笛を吹いてくれる人を待ってるの」
予想していた答えだというように、青年は口元をゆがめます。
「オレに笛は吹けない」
「かまわないよ」
「だけど、オレはお前に、違う世界をみせてやれると思う。 そのことは、お前を他のいきものと同等に引き上げ、おとしめることになるだろう。 お前は美しさを得て、失うことになるだろう。 しかし、お前もそれを、望んでいるのだろう? だからずっと、ここで待っていたのだろう?」
青年は少年の頭上に舞い上がりました。そして、少年に向けて、手をさしのべました。
「その瞳にオレだけをうつせ」
少年は、手を伸ばしました。 だけど、届きません。もっと上へ! おそらく少年がそう願ったときでしょう、少年の足元、 ながい年月をかけて堆積した砂がほろほろと崩れ始めました。 その崩壊は瞬く間に周囲のみなそこに広がり、辺りに大量の砂塵を巻き上げました。 少年の手と青年の手が触れ合って、わたしが見ることができたのはここまでです。 砂埃が静まったとき、ふたりの姿はもうどこにもありませんでした。


大岡信の詩「水底吹笛」のサブタイトルは「三月幻想詩」
「みあげれば、みずのおもてにゆれゆれる、やよいのそらの、かなしさ、あおさ」
ここからこのお話はできました。
「みなそこ」は本当は「みなぞこ」なのだけど
語呂の良さから「みなそこ」に変更したのでした。

戻る?