カフカ

このお話はF.カフカ作の『変身』を元にしています。


ある朝、目を覚ますとクラウドは一匹の蟲になっていた。
ベッドから頭を起こすと、節の連なった暗褐色の腹が目に入り、 それが自分のものであると理解するのに果ての無い時間を要した。 おそらく夢と現実と幻覚の区別がつかないでいるのだろう。
(…………?)
クラウドはこれを夢あるいは幻覚と判断した。 頭を枕に下ろしてしばし目を瞑り夢が覚めるのを待つ。 しかしいつまで経っても意識は途切れなかった。 観念したように目を開けると先ほどと同じ天井が目に入る。 そして僅かな希望をもって頭を上げるとやはり節の連なった暗褐色の腹が見えた。 側面からは小さな足のようなものが幾つも生えている。 それは敢えて言えばムカデに似ている気がした。
気味が悪くてこれ以上の観察を恐れたクラウドは、 寝返りを打とうとして、気づいた。身体を反転させるどころか、 捻ることすらままならない。どれほど力を込めようと胴体は動かず、 わしゃわしゃと無数の足が宙さまようだけだった。
クラウドは動転のあまり悲鳴を上げた……いや、 上げようとしたが僅かな鳴き声すら発することができなかった。 元より、蟲は鳴くことなどできないのだ。
(どうして……!?)
どうして、どうして、どうして、どうしてこんなことに―――!
「クラウド、起きたか?」
寝室に入ってきたのはクラウドの伴侶であるセフィロスだった。 朝食の準備を終えてクラウドを起こしにきたのだろう。 クラウドは酷く身体を強張らせた。愛する人がこの姿を見たらどうなるのだろう……
セフィロスはクラウドのいるはずのベッドの上を視界に捉えた途端、表情を歪めた。 それは明らかな生理的嫌悪感を示すものだった。
「……何だ?…コレは……」
嫌悪に歪んだ表情と言葉は、クラウドの胸に鋭利に突き刺さった。 そう、今のクラウドの姿は、愛らしい金髪の少年とはあまりにかけ離れ過ぎていたから。
だがセフィロスの方はそれ以上その蟲を気にしてはいられなかった。 自分が起きたときには確かにいた少年がいなくなっているのだ。 慌ててセフィロスは寝室を飛び出してクラウドを探した。
「クラウド……クラウド!」
セフィロスの呼ぶ声が、寝室からでも聞こえた。 心からとめどなく血が流れるのを感じながら、 クラウドはセフィロスの声をぼんやりと聞いていた。
(…どれだけ呼ぼうと、返事は無いよ……だって、俺はココにいる
から……)
どうしてこんなことになったんだろう……クラウドは胸の痛みをひきずりながら、 必死で思考を巡らせようとする。昨日はごく普通にしていた。 いつも通りに起きて、仕事に行って、帰ってきたらセフィロスと一緒に夕食をして、 セフィロスに抱かれて、お風呂に連れて行ってもらってから、ベッドに入った…… 特別なことは何もしていない。それなのにどうして……
しばらくしてセフィロスが寝室に戻ってくる。セフィロスは明らかに狼狽していた。 それを見ているのが辛くて、クラウドはいつもみたいに「セフィ」と呼ぼうとする。 でもやはり声なんて出なくて、クラウドは本当に泣きたい気持ちだった。 名前を呼べないだけで、こんなに苦しいなんて……
「……ザックスか?……クラウドが………いなくなった……外に出たのかもしれない…… ああ、そのつもりだ。捜索願も出す。……は?見つかるまで行かないからな。 文句は受けつけん。じゃあな」
苛立たしげに携帯電話を切ると、セフィロスはベッドに腰掛けて瞑目した。 必死に自身を奮い立たせようとしているのだろう。 やがて目を開けると、偶然すぐ傍に横たわっている蟲に視線が移った。 クラウドの身代わりのようにそこにいる不気味な蟲。
「……もしかして………おまえなのか?」
クラウドはその言葉に反応した。ひょっとしたらわかってくれるんじゃないかと思って、 どうにかして動こうとする。けれどそれはひっくり返ろうともがいているようにしか見えない。
(セフィ……!)
しばらく蟲を見つめていたが、否定するように首を振った。
「…まさか……な。こんな醜い蟲が?オレもどうかしている」
(……セ、フィ………)
セフィロスはコートを羽織ると足早に部屋を出て行った。クラウドを捜しに行ったのだろう。 残されたクラウドは、セフィロスの言葉に打ちひしがれたように じっと堪えることしかできなかった。



何度まどろみを繰り返しても、自分が蟲であることは変わりなかった。 目覚めるたびにショックを受けるのにも次第に慣れはじめた頃、セフィロスは寝室に戻ってきた。
当然、クラウドは見つからないままなのだから、その表情はひどく暗い。 シャワーを浴びた後、おもむろに棚からコニャックの瓶を取り出して、 そのまま一気にあおった。あっという間に空になった瓶をやや乱暴に置くと、 ベッドに腰掛ける。そのまま横になろうとして、ベッドの半分を占めている蟲が気になった。
「…………」
ゆっくりと立ち上がって、壁にかけてある正宗を手に取ると、ベッドに近づいた。 蟲を斬るつもりなのだろう。頭部にぴたりと正宗を突きつけられても、 不思議とクラウドはあまり恐怖を感じなかった。
(……セフィに判ってもらえないなら、もう死んでもいい……)
生きてても、苦しいだけ。だってこの姿じゃ、あなたにキスもできないし、 抱いてもらえないし、触れてすらくれない、名前さえ呼べない、 思考するだけの地獄。唯一の幸福は、きっと、あなたの手で殺してもらうことだけ……
手元をあと僅か動かすだけで、蟲は息絶える。だがセフィロスは何故か、 なかなか手を動かそうとしなかった。
「………フン」
やがて気が変わったのか、正宗を収めると壁にかけて、部屋を出て行った。 それきり、セフィロスは一晩戻ってこなかった。おそらく別室で寝ることにしたのだろう。 こんな蟲と一緒に寝てくれるはずなど、ないのだ。 クラウドは耐え難い悲しみともどかしさで、気が狂いそうになっていた。身を引き裂かれるようだった。 涙を堪えようにも蟲は元から涙など出せず、嗚咽を堪えようにも僅かな声すら漏れない。 ただ小さな足が、喘ぐようにぴくんぴくんと震えるだけ。
(淋しい…なん、て……思ったら、だめ……)
……傍にいて欲しい、なんて…もう、望んではいけない……



それからどれだけの日数が経ったのだろう、クラウドには皆目、わからなかった。 そしてセフィロス自身にも。毎日毎日、セフィロスはミッドガル中を捜し回った。 それでもクラウドは見つからなくて、深夜に疲れ果てて帰ってくると、 寝室で酒をあおってリビングのソファで寝た。
寝室に行くと気味の悪い蟲が横たわっているが、 いつのまにかひょっこりクラウドが寝室に戻っているんじゃないかと思って、 「どうしたの?セフィ」って笑顔で自分を迎えてくれるんじゃないかって期待して、 セフィロスは毎日寝室を覗いてしまう。けれどそこにはやはり一匹の蟲しかいなかった。
一方クラウドは一日のほとんどを眠って過ごしていた。 起きているのはつらくて苦しくて堪らないからだ。傍にセフィロスがいない。 どんなに求めてもセフィロスは来てくれない。でも眠ってさえいれば夢で会える。 夢の中でクラウドはセフィロスを呼ぶ。 クラウドの声が届くとセフィロスは柔らかく微笑んで、優しく抱きしめてくれる。 セフィロスの腕の中にいるのがクラウドは大好きだった。 何度も何度も愛の言葉を囁き合って、キスをして、抱き合って、これ以上無いくらい幸せで。 目が覚めれば絶望に打ちひしがれることは分かっていたけれど、それでも夢を見続けた。 そして衰弱する体とともに、クラウドの意識は次第にまどろみの中に霞んでいった。
ある夜、いつものようにセフィロスが酒を飲みに寝室に来ると、 ふと、蟲が以前より随分と弱っていることに気づいた。 そういえば、自分は酒を飲んでいるが、この蟲は何も摂取していないのだ、水すらも。
「…………」
すると何を思ったか、セフィロスはキッチンから蜂蜜の小さいボトルを持ってきて、 蟲に近づいた。餌を与えようとしているのだ。
(……セフィ……どう、したの……?)
クラウドはぼんやりする頭で、久しぶりに間近に寄った恋人の顔を不思議そうに見た…… その恋人はひどく、疲れきった顔をしていた。
「…………あ……」
セフィロスは弱弱しい声をあげて悲しげな表情を浮べた。 あるいは憐れみだったのかもしれない。 蟲には、食物を摂取するための『口』が無かったのだ……
へたりと座り込んで、セフィロスはベッドに頭を埋めた。長い銀髪がまるで滝のように流れ落ちる。
「…………クラウド…」
力無い声で、恋しくて堪らない人の名前を呼ぶ。
「クラウドに…会いたい……」
顔を上げると、ムカデに似た蟲が目の前にあった。 無数の足がゆらりゆらりと動いていることで、どうにか生きていることがわかる。
「………おまえ……クラウドだろう…?」
どうしてそんなことを言うのか、セフィロス本人にもよく分からなかったのだけど。
「なあ……クラウドなんだろう……?」
セフィロスは問うた。それは最期の救いを請う罪人のようでもあって。 その声を、クラウドは薄れ行く意識の端でとらえた。
(…うん……俺は、…クラウドだよ……)
届くはずなどないのに、霞む思考の中でクラウドは問いかけに答える。
「…おまえ、淋しかったのか……?」
(うん……すごく淋しかった……)
「オレも……淋しいんだ……」
おそるおそる、蟲の足の一本に手を伸ばす。そっと握ると、ぴくっと揺れた。 それは一種の反射反応に過ぎなかったのだろうけれど、 セフィロスは何処かほっとしたように微笑んで、蟲の隣に横になって、そのまま眠りに落ちた。
(セフィ……おかえりなさい……)



どうしたら元に戻れるのかな……
俺さえこんな姿にならなければ、
あなたをこんなに苦しめなくて済んだのに……



翌日から、もうセフィロスはクラウドを捜しに行かなくなった。 まるで力尽きたようにクラウドの隣に寄り添うように横たわったまま、 何度もまどろみと半覚醒を繰り返した。クラウドと一緒に幸せな頃の夢を見ていた。 ふたり一緒に。
ふたりとも日に日に衰弱していった。けれどあまり苦しいとかつらいとか思わなかった、 そういう感覚が麻痺してしまったのかも知れない。
「なあ…どっちが…先に死ぬんだろうな……?」
(…たぶん俺じゃないかなあ……)
「でも…オレもきっと…すぐ……だから……」
セフィロスは手を伸ばして、クラウドの暗褐色の身体を優しく撫でる。 するとクラウドの小さな足も弱弱しく動く。その足のひとつに唇を寄せて、幾度と無く囁いた。
「愛してる……どんな姿でもいい……オレは、クラウドだけを愛してる……」
(セフィ、ずるいよ……俺、声が出ないのに……俺だって、 愛してるって言いたくて堪らないのに……)
「ふふ……大丈夫、クラウドの気持ちは……オレが一番、わかってるから……」
セフィロスの携帯が何度も鳴っている。気だるげに通話ボタンを押すと、 馬鹿みたいに大きな声がクラウドの方にまで聞こえた。
「……ああ、ザックスか?…お前の声はうるさいな……」
そのうるさい声が、クラウドは見つかったのかと、訊いた。 するとセフィロスは酷く穏やかな笑みを浮べて、呟いた。
「……もう………いいんだ………」
まだ何か言いたげなザックスを無視して携帯の電源を切ると、 飽きることなくクラウドの身体を撫で続けた。
水すら摂取できない蟲は弱っていくばかり。 覚醒していても意識がだんだんぼんやりしてくるのをクラウドは緩やかに自覚する。 それでもクラウドの心はひどく穏やかで、 愛しい人が身体を撫でてくれるのを心地よく感じていた。
「クラウド……」
セフィロスは重い身体を引きずるように身を乗り出して、蟲のグロテスクな頭部を見つめる。 何をするんだろうとクラウドは不思議に思っていたが、 蟲のふたつの目の真ん中辺りにセフィロスがゆっくりと唇を落とすと、クラウドは歓喜に震えた。
(……!)
表情の判らない蟲の瞳を見つめて、セフィロスは少し困ったように語りかけた。
「済まない……クラウドにキスをしたかったんだが、口がどこにあるのか判らないんだ……」
(…嬉しい……)
涙は出ないけれど、嬉しくて泣いてしまった。 いなくなったクラウドの代わりのようにセフィロスが蟲を愛していることに クラウドはもう気づいていた。でもいい。それでもいい。これ以上の幸せなんて、ない。 それでも望むのなら、自分が息絶えるその時まで、傍にいて欲しい。 それだけ。それだけでいいから、どうか叶えさせて下さい……
(セフィ……大好きだよ……大好き………)



けれどそんな優しい時間は、唐突に破られた。 エントランスの方で何かが派手に割れる音がして、あわただしい足音が近づいてくる。 その気配にセフィロスとクラウドがまどろみから浮上する頃には、 寝室のドアが力いっぱい開けられていた。
「セフィロス!!」
侵入者の正体は、ザックスだった。電話が繋がらなくなったことに嫌な予感がして、 扉を破り強引に乗り込んできたのだ。
「!?」
ソルジャーであるザックスでさえも、目の前の光景には硬直せざるを得なかった。 セフィロスと身の丈ほどもある巨大な蟲が寄り添うようにベッドに横たわっていた。 その蟲のおぞましさに数瞬、身体が凍りつく。 しかしすぐ正気に戻るとセフィロスに駆け寄っての頬をはたいた。
「セフィロス、何だよ!?この化けモンは!」
セフィロスは一瞬だけ視線をザックスに移すと、くくっと笑った。
「………どうした?クラウドに決まってるじゃないか……」
「な……っ」
しわがれた声でそう言いながらいとおしげにクラウドの身体を撫でるセフィロスの優しい目は、 普段クラウドに向けるそれと全く同じものだった。 しかしザックスにはセフィロスが狂って 巨大な蟲をクラウドだと思い込んでいるようにしか見えなかった。
「セフィロス、しっかりしろ!こいつはクラウドじゃない!」
「クラウド、愛してる……クラウド」
「……セフィロス……!」
―――ザックスは、セフィロスの副官だった。 だから、ザックスにはセフィロスを正気に戻す義務があった。 ザックスは、セフィロスが狂った原因はこの蟲だと判断した。 だからザックスは、この蟲を排除する使命があったのだ。
「こいつがセフィロスを狂わせたんだな!」
衰弱しきったセフィロスには、止める間もなかった。ざしゅっ、と鈍い音がして、 セフィロスの目の前で、クラウドの腹部がナイフでつらぬかれていた。
(ざ……く、す?)
「……クラウド!!」
セフィロスが目を見開いて悲痛な叫びをあげる。
「セフィロス、目を覚ませよ!これの何処がクラウドなんだよ!」
「クラウド!クラウド……!」
「もうよせ、セフィロス!」
(ああ……俺ね、セフィになら殺されてもいいって、思ってた。 でも、ザックスも、しょうがないよね?…セフィ……)
「クラウ…ド……?」
「ちがう!クラウドじゃない!!」
「クラウドじゃ……ない?……だって…クラウド…… 何処を捜しても居なかったじゃないか……」
「だからあんたは思い込んでたんだ。クラウドが何処にも居ないから、 こいつをクラウドだと思い込んでたんだ」
ザックスが強引にセフィロスを掴んで上体を起こさせる。 セフィロスは小刻みに痙攣を続けるクラウドの身体に触れながら、瞠目して見つめる。
「クラウド…じゃ……ない?」
最期の痙攣をする蟲の硬い身体を撫でる。 震える手でぎこちなく触れていると、 手のひらがカツンと蟲の表皮とは少し違う感覚を捉えて、 怪訝に思って手をずらして見た。そこにあったのは、 ごく小さな、碧色にきらめくマテリアだった。



「クラウド、その……誕生日のプレゼント、色々考えていたんだが……」
「え?セフィがくれる物なら何でも嬉しいよ」
「じゃあ、受け取ってくれるか?」
「あっ、これ……ピアスだね」
「小さいがこれもマテリアだ。きっとおまえを守ってくれると思って」
「うん、嬉しい!つけてくれる?」
「ああ」
「セフィの瞳と、同じ色だから…セフィに見守られてるみたい」
「ふふっ……可愛い事を言ってくれるな」
「ありがとう。絶対外さないからね」



「………クラウドの……ピアス」



ねえ
もし生まれ変われたら、
もう一度あなたを愛してもいい……?



「……、…、…………」
ザックスは、目を疑った
静かに、セフィロスは涙を流していた
もう動かなくなった蟲の身体を見つめて
声もなく、ただ、静かに



ね、セフィ
どうしたら元に……なんて
……もう、どうでもよかったんだ






ただ あなたが すき ……









アンチ『変身』として書いたもの。
小学生の頃に出会ったあの後味の不味さ
好きじゃないのに忘れられない胆汁の味。

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