「……それでは、今日はゆっくりお休みくださいね、セフェリスさま」
「うん、そうするよ。クレオ」
トラン湖のほとりにそびえる解放軍本拠地の城、その4階の離れ部屋。 テオとの戦いを終えて自室へと戻ってきたセフェリスは、入り口まで付き添ってくれたクレオに礼を述べて別れ、 そのままベッドへと直行した。寝っころがらずに座り込むだけで済んだのはささやかな奇跡だったのかもしれない。
「……疲れた、な……」
引き締めていた表情を弛緩させ、小声で呟いた。あんな激戦だったのだ。強い疲労を感じるのも当然だろうが、 やはり父との決闘、父の死による精神的なショックが全身に鉛の重しをかけたような錯覚を起こさせていた。 哀しむことも嘆くことも、とりわけ膨大なエネルギーを消費する。とにかくもう、セフェリスはひたすらに疲れていた。
身体に力が入らない。このまま横になりたい衝動に駆られて、入浴は明朝にすることに決めた。 せめて着替えだけはしておこうと衣服に手をかける。 すると懐から何か硬いものが床に落ちて、どこか郷愁を醸すような、切なく儚い音をたてた。
(……ペンダントだ。父さんがあのとき、ぼくにくれた……)
床から拾い上げ、ベッドに座り直したセフェリスはしげしげとそれを見つめた。 いかにもテオらしく、華美ではないがどこか品の良さを感じさせるデザイン、縦長の楕円形をしたペンダントだ。
父は何故、今わの際にこれを渡したのだろう。すがるとは、救うとは、どういうことなのだろう。 そんな疑問を抱きながら何度も撫ぜるように触れているうちに、セフェリスはペンダントに施されている細工に気づいた。
「あっ、これ……ロケットになってる……」
ロケットペンダントは中に小物などを収めることが出来るアクセサリーで、一般的に形見として身に着けられることが多い。 カチッと軽い音がして、ペンダントの蓋が開く。中に入っていたものが視界に入り、そのままセフェリスは言葉を失い硬直し、 凍り付いたように動けなくなった。
ペンダントの中にあったのは、土台にはめ込まれた一枚の肖像画だった。 そこには複数の人物が描かれている。たおやかに微笑むグレミオを中心にして、その右隣には力強くも穏やかな微笑を湛えるテオが、 左側にはあどけなく笑うセフェリスが、それぞれグレミオに寄り添っていた。 手のひらよりもずっと小さな画だが、繊細なタッチは各々の特徴を見事にとらえ、表情もはっきりと判る。 温かな優しさに満ち溢れた、三人の表情が。
「………あ…」
刹那目の前が真っ白になり、そして一瞬だけ間を置いて襲い掛かって来たフラッシュバックの洪水。 反射的に瞳が潤み、理由の判らない涙がほろほろと頬を滑っていく。
「…あ…あ、…あ……」
何かが喉の奥から溢れそうなのに、それでも言葉にならないもどかしさで喉をかきむしりたくなる。 絶え間ない涙ですっかり霞んだ視界の向こうに、おぼろげな人影が見えた。セフェリスにはもう、それが誰なのかも分からない。
―――許してくれ。こんな歪んだやり方でしか救えない私を、どうか許してくれ……
「あ、あ……あ、ありが…とう……あい、し、て…る……ぐ、れ……っ」
セフェリスは咄嗟に己の口元へと指をやった。唇に蘇る『あの』生々しい感触に、 精神がじわじわと侵されていく、狂わされていく、殺されていく……ベッドから床へと崩れ落ちて、 その拍子にペンダントがチリンと金属音を鳴らしながら手から落ちて転がった。 腕を伸ばして床の上のペンダントを手探りで捉えてきつく握り締める。そしてそのまま跪くように深くぬかづいた。
―――許してくれ…こんなにも弱い父を、許してくれ……許してくれ…………
…ぱたぱた……ぱたぱた……床をしとどに濡らす瞳から降る雨音は、きっと時計を巻き戻す音。 錆びついた感情はきしみながら歯車を再構築して、新たに、再び、動き出す。 ぱたぱた……ぱたぱた……雨は止むことを知らず、苦い痛みを含んでいつまでも降り続ける。
「ごめんなさい、ごめんなさい父さん……ぼくは取り戻してしまいました。全部思い出してしまいました。 あの人の少しかさついた唇の感触と、ぼくのなかを蹂躙した舌の感触が、あの至福に満ちた口づけの記憶が、 まるでついさきほどのことのようにはっきりと蘇ってきます。もう頭の中がぐちゃぐちゃです、 まるで土砂崩れでも起きてしまったかのようです。涙が止まらないんです。苦しくてたまらないんです。 心に巨大な穴が開いてしまったような、この途方も無い喪失感は、この孤独感は、 父さんの思いやりを裏切った罰なのですか?代償なのですか!?これが救済だとあなたは言うのですか……答えてください、父さん!!」
ああ、グレミオに逢いたい……もう一度だけ、あの金髪に触れて、抱きついて、声を聴きたい。彼への想いはこんなにも無尽蔵に溢れてくる、 もうこの世の何処にも彼はいないのに……!
いつしか右手にズキズキとした疼痛を感じていた。しかしセフェリスはその痛みを、 ペンダントを渾身の力で握りしめているからなのだと思っていた。何も知らないセフェリスは天を仰ぐ、 その視線の先に父が見守ってくれているのだと思い込んで。
「お願いです、父さん。グレミオを想うあまりに壊れていったぼくを憐れに思い、慈しみ、記憶を消してくれた父さん。 もし今一度ぼくをその情け深い慈しみで包んでくれるのなら、どうかぼくの不毛な想いを堰き止めてください。 あの人に会いたいなんて、愛して欲しいなんて、もう思ったりしません。 ぼくの魔の手の届かない彼岸で、天国で、あの人と幸せになってください。 だって、あの人が心から愛していたのは他でもなく、父さんなのですから。今度はぼくが耐える番。 たとえ遠く離れてしまっても、あの人がどこかで笑っていてくれるのなら、ぼくはそれでかまいません……」
このペンダントを身に着けるなど、自分には堪えられそうにない。かといって捨てることも出来ない…… 戒めの証として、封じよう。セフェリスは部屋にある小ぶりのチェスト、その一番上の抽斗を開ける。 中に入っていた物を一旦取り出すと、空いた所にペンダントを仕舞い込み、覆い隠すように元の中身をその上に戻した。 この小さな抽斗に、彼への想いをすべて封印しよう。そうすれば自分はまだ立っていられる、これからも戦っていけるから。
これを授けてくれた父を恨んだりしたくない。 けれどあの頃の想いを抱えたままグレミオの死を直視出来るほど自分は強くないことを、セフェリスはよく知っていた。
父の遺品のペンダントは、抽斗の奥に仕舞われたまま。セフェリスは長きにわたりそれを視ようとしなかった。 何故グレミオだけでなく三人が揃って描かれているのか…その意味も、父が言った『救済』という言葉…その意味も、ついに知ることもなく。
想いの宝石は暗く閉ざされた監獄の中に置き去りに。光を失った宝石はもはや輝けずに濁るばかり。 精神だけが大人びていく一方で、少年はもう彼を求めることもなく。 淋しさにむせぶこともなく、優しさに餓えることもなく、二度と愛することもなく……



日々を重ね少しずつ命が産まれ続ける奇跡、育まれた命が戦によって瞬時に燃え尽きる悲劇。 奇跡と悲劇は互いに背中合わせ。昨日も今日もそして明日も、その二つの概念は螺旋状に乱世を廻っていく。 生きている奇跡と死んでいく悲劇、ならば『死者の復活』は何と呼ぶべきか……問う者は、いなかった。
気づいた者は居ただろうか、歓声の真ん中で親しき仲間たちにもみくちゃにされているグレミオ、彼を見つめる少年の表情に、 気づいた者は果たして居ただろうか。そのときの少年の顔色こそは深淵。それはまごうことなき、“恐怖”。



108星の目の前で復活したグレミオは、自分が死んだということも、自分が生き返ったということも、はっきりと自覚していなかった。 だから事実を伝えられると大層仰天したが、グレミオの手を握りしめて泣きじゃくるキルキスや、涙ぐむカミーユと話すうちに、 彼は少しずつ事態を呑みこんでいった。
聞けば明日、帝都へ向けて出撃するのだという。そんな状況を一応理解したとはいえ、グレミオに出来ることはほとんど無かった。 セフェリスをはじめとして親しい者たちは皆、出撃に向け慌ただしく動いている。 前線で戦えないグレミオはぽつんと一人、まるで周囲から置いてけぼりを食っているような心境で城内を巡った。
自分が死んだ後に仲間になったのだろう、見知らぬ宿星たちに奇異の目で見られ、 かと思えばミルイヒに怒涛のような勢いで謝罪の言葉を浴びせられ、やっと終わったと思ったら今度は、 まだ陽も高いというのに酒の臭いをさせたタイ・ホーとキンバリーに絡まれて……妙に疲れたグレミオは、結局家事に逃げることにした。
城の一角でマリー、セイラと共に洗濯にいそしんでいると、不思議と落ち着くことが出来た。 作業に没頭することで、テオが死んでしまった哀しみも、テッドが死んでしまった切なさも振り切れる気がした。 聞けば、復活するときに洗濯物を心配する言葉を口走っていたとか。よくよく考えると少し恥ずかしい。
セイラとは初対面だが、彼女の仏頂面と口の悪さには少々驚かされた。しかし彼女は根っからの洗濯好きな為に、 グレミオに仕事を取られたような気がして不機嫌なのだとマリーに説明されると、グレミオは洗濯を彼女に任せ、 厨房を借りてマドレーヌをいくつか焼いた。
洗濯の取り込みを終えて一息ついていたセイラにそれを振る舞うと、絶妙な甘みとふわふわの食感に彼女の機嫌はすっかり直り、 意味深でやや不気味とも言える微笑を浮かべた。そして何故か、気迫たっぷりにライバル宣言をされたのだった。
「フン、洗濯の腕はあんたと互角なのに、私なんか料理はからっきしさ。悔しいから…決めた。 いつかあんたより美味いマドレーヌを作ってみせる」
「は、はぁ……」
そこへやってきたのがマリーだ。彼女はぴっちりと畳まれた洗濯物を両手に抱えている。
「いい匂いだねえ。グレミオ、あんたが焼いたのかい」
「あっ、…はい……」
マリーはグレミオとセイラを交互に見やり、その微妙な空気を感じ取る。縮こまるグレミオの様子が可笑しかったのか、 彼女は快活に笑って揶揄した。
「なぁんだグレミオ、もしかしなくても、また口説かれてるんだね?」
「…え……」
「ふーん…また、ってことは……競争率、高いのか」
絶句するグレミオを傍目に、セイラはおふざけなのか本気なのかよくわからない口調で、独り言のようにぼそっと呟く。 常人には理解しかねるセイラのテンポにマリーはもう慣れているのか、おどけた雰囲気を醸しつつ笑いながら語った。
「セイラみたいに、強気な女性に結構モテてるのさ。でもグレミオの頭の中はぼっちゃんのお世話のことでいっぱいだから、 競争率どうこうの話じゃないねえ」
「あの…えっと、私はただ……」
どうも話についていけないグレミオはおどおどと何かを言おうとするが、そんな彼にマリーは緋色の服を差し出した。
「はい、ぼっちゃんの服。アイロンがけは済ませておいたから、部屋に届けておいで。 まぁ、軍議がまだ終わってないから本人は居ないだろうけどさ。 あっ、そうそう。このマドレーヌも後で持っていくよ。せっかく作ったんだから、ぼっちゃんにも食べてもらわないと!」
「あ…ありがとうございます、マリーさん。じゃあ、私はこれで……」
セフェリスの着衣一揃いを受け取ると、ぺこりと頭を下げてグレミオは足早その場を後にした。 何を考えているのか今ひとつ分かりにくいセイラという女性に、彼は軽い苦手意識を持ってしまったようだ。 しかしセイラは特にそのことを気にするそぶりも見せず、淡々とマリーに問いかけた。
「マリー。あいつの本命って、セフェリス坊やのこと?」
セイラの言葉が少々意外だったのか、マリーは数度目をしばたたかせる。ひとまず、無難に答えておいた。
「うーん。私の見る限りでは…そうでもあり、そうでもないとも言えるね。ただ…… もしかしたら本人自体、気づいてないかもしれないけどねえ……」
ひょっとして、あんたの好みのタイプなのかい?と今度は冗談交じりにマリーが訊くと、セイラは無表情のまま、至極ぶっきらぼうに 「嫌いじゃないよ」と一言。それは彼女にとって『是』を意味するものであった。



グレミオはセフェリスの部屋に着くと、知らずうちに大きなため息を漏らしていた。 自分が死んでいる間に本拠地の城は空恐ろしいほど広くなり、設備が増え、人も増えた。 しかしこの部屋だけは時間が止まってしまったように、調度品も増えておらず、 その配置も変わっておらず、グレミオのなかの記憶そのままだった。
でも、セフェリス自身はどうだろうか?いや、それはまさに愚問といえよう。 真の紋章を継承して身体そのものは時を止めたようだが、大広間で目の当たりにした少年の纏うまばゆいカリスマ性、 もはや自分などが守る必要などないほどにたくましく見えて、甘えん坊の幼い時分を知っているがゆえに痛ましいほど強く見えて……
そういえば、生き返ってからセフェリスにはまだ一言も声をかけてもらってない。忙しいのは分かる、 しかし自分はその程度の存在だったのかと、つい考えが悪い方向に走ってしまう。 それに自分は本来なら死んだはずの人間。もうセフェリスの中には、 自分の居場所など無いのではないかと、鈍色の不安がじわじわと心を侵食しつつあった。
「……忙しい、んですよね。そう…ですよね……でなければ、私は……何の…ために……」
そこまで呟いてから、グレミオは何度もかぶりを振った。こんな浅ましい思考に陥るなんて、らしくない。 見返りなんて無くてもいいじゃないか、何があっても自分はセフェリスについていくと決めたのだから。 自分がセフェリスを信じてあげなくてどうするというのだ。
何をすべきか分からなくなったときは、まず一番手近な作業から始めるように、と。 いつしか教えられた言葉を思い出して、とりあえず明日の為にピシリと整えられた服を箪笥に仕舞おうと決めた。 後のことはそれから考えればいい。小さなチェストの一番上、バンダナの入っている抽斗を開ける。するとつい苦笑が零れてしまった。
「もう、ぐちゃぐちゃじゃないですか。誰がやったんですかね……」
訊くまでも無く、セフェリスの所為だろう。良家の御子息のくせに少しものぐさな面もあって、整理整頓を怠ける癖があった。 以前は収納物の整理もグレミオがしきりに世話を焼いていたが、今はどうやらそうではないらしい。 変わらぬものをまたひとつ見つけられて、嬉しかった。
無造作に入れられているバンダナをちゃんと畳んであげようと、グレミオは何枚かを取り出す。 すると、コトンと音をたてて何かが床に落ちた。
「?…これは……ロケットペンダントですね。なんでこんな所に……」
疑問に思いながら、真鍮色をしたそれを手に取る、そして元の抽斗に戻してやろうとして……ふいに奇妙な感覚にとらわれた。 後ろ髪を強く引かれるような、何かが警鐘を鳴らしているような。
隠すように仕舞われていたこのペンダントの中身は、きっとセフェリスのプライバシーそのものだと推測できる。 勝手に見て良いものではない。しかし、見なくてはいけないのだと、一種の強迫観念がしきりに襲ってくるのだ。 その原因も分からないまま、グレミオはおそるおそるペンダントの蓋を、開けた。





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