「…よって、明朝にも鉄甲騎馬隊全軍の出撃が可能とのこと。以上が各部隊長からの報告となります」 爪で引っ掻いた傷痕のようにか細い月。その月明かりよりも遥かに煌々と辺りを照らす、野営陣地のそこかしこで燃え盛るかがり火たち。 その光に負けるのか、星々の主張は心なしか頼りない印象を与えている、まもなく戦に赴かんとする帝国兵士たちに向けて…… 「次に、先ほど入ってきた情報ですが、反乱軍に放った忍者及び反乱軍首脳部内のスパイによる敵軍近況の報告です」 「うむ、続けてくれ」 ミルイヒ将軍の居城であるスカーレティシア城が先日、反乱軍の手に落ちた。 その反乱軍を率いるは、帝国将軍テオの実子にして今や国賊のセフェリス・マクドール。 どうやら激戦だったそうだ。となれば反乱軍の消耗も大きいはず、 その隙を衝いてテオの鉄甲騎馬隊が反乱軍の背後を急襲するという作戦だ。 帝国五将軍であるテオと、解放軍を名乗る反乱分子セフェリス。実の親子が敵対関係となって既に半年あまりが経つが、 直接対決はこれが初めてとなる。そして……これを最後としなければならない。 その勇ましくも悲劇的なテオの決意を少しでも感じることが出来た兵士たちは皆、ことごとく奮い立った。 それはテオの人徳のなせるわざでもあろう。 既にひと通りの軍議は済ませた。今、野営陣の中央にしつらえらえた大天幕の中には、 テオとその配下であるアレンとグレンシールのみが残っている。グレンシールはテオの前で本日最後となる報告を行っていた。 「…先日のスカーレティシアの戦いにおいて反乱軍の全兵は喪章をつけておりました。 スカーレティシア戦の前段階における潜入作戦で、主要メンバーの一人が死亡した為です」 「ほう、全兵が喪章をつけるとは……よほどの重要人物か」 テオが興味深げに呟く。一兵卒に至るまで喪章をつけさせていたのなら、さぞかし士気も高かったことだろう。 しかしそれも長くは続くまい、感傷とは大抵一時的なものだからだ。 テオは報告を聞きながら、鉄甲騎馬隊の突撃作戦にはさほど支障をきたさないであろうと判断した。 だがその判断が、テオにとって冷静な思考を編み出せた最後の瞬間でもあった。 「はい。スパイからの情報によれば、死亡したのは『解放軍リーダー第一の臣下』と呼ばれた、 グレミオという名の若い男。反乱軍リーダーが最も信頼を寄せる人物、腹心中の腹心だったそうです」 「…………」 テオはその報告を聞いても微動だにしなかった。彼が戦争に巻き込まれた以上、有り得ない事態ではなかったから、 この瞬間のための覚悟も固めているつもりでいた。その為か、思ったほど取り乱しはしなかったが…… あるいは下手に取り乱すより酷い状態だったのかもしれない。気づけば指先ひとつ動かず、視線すら泳がすことも叶わず、 どうやら全身が正常な機能を失ってしまったようだ。唯一まともに動作していたのは、両の耳……聴覚のみだった。 「以下、スパイの主観も入っておりますが……その男がミルイヒ将軍によってあまりにも残虐非道な殺され方をした為に、 怒りによって反乱軍全体の士気が高揚し、スカーレティシアは落ちたのかもしれないとのこと…… しかし、捕えられたミルイヒ将軍は反乱軍リーダー自身の指示と説得により処刑を免れたようです。 無論、このリーダーの判断に納得していない兵も多いようですが」 「ならば、これによって敵の結束力が弱まり動きが鈍れば、我らにとって重畳極まりないことでしょう。テオさま」 隣に控えていたアレンが力強くテオに語りかける。しかしそのときアレンはようやく気付いた、テオの様子がおかしいことに。 テオの黒曜の瞳は本来の光を完全に失い、今はもう何も映し出していない。どこかずっと遠くの方を視ているような…… 「……テオ…さま?」 「テオさま…?……いかがなさいました?」 グレンシールもまた報告用の書類から顔を上げ、凍りついたようなテオの顔を伺う。二人の部下からの心配げな声に、 テオはほんの少し瞳に力を取り戻して、微かに息を吐いた。そして静かな声で、改めてグレンシールに問う。 「……死んだ男の名は、『グレミオ』で相違無いか」 「?…はい。おそらく間違いないと思われます。スパイ、忍、捕虜、いずれの情報においても一致しておりますので」 するとテオは硬直したまま、掠れきった低音の言葉を絞り出した。その声は次第に、 まるで精神疾患者のようにゆらゆらと揺らぐ危なげな呟きへと変わっていった。 「その者は、わが家に長年仕えていた使用人だ。セフェリスにとって母親代わりのようなかけがえの無い存在だった。 それなのにミルイヒは処刑されなかったのか?あいつは最も愛する者の仇を赦したのか?…何故だ?何故?何故、何故……」 「…それは……」 グレンシールの困惑した声が耳に届くと、テオは辛うじて自分が混乱していることに気づくことが出来た。 とにかく落ち着かねばと、しばし瞑目する。…大丈夫、大丈夫だ。ちゃんとまぶたが動く。声も出る。息だって吸えるじゃないか。 テオはゆっくりと首を振り、目を開けるとグレンシールを促した。 「……いや、何でもない。続けてくれ…」 「は…はい、テオさま……」 それ以降の報告は、右の耳から入ってすぐ左の耳から抜けていくようで。 伝えられる言葉の数々は脳において何の化学反応も起さず、これっぽっちも頭に入ってこないまま、ただ適当に頷いていただけのようで。 ふと気づいたらテオの為にしつらえられた天幕の中で一人、案山子のように突っ立っている……そんな有様だった。 頭の中が真っ白だ。何も考えられない……奇妙な疲労感に襲われ、テオは鎧も脱がないままに簡易椅子に腰を下ろす。 すると首から下げた真鍮のペンダントが鎧と当たってチリンと軽い音を立てた。からっぽになった心に、その音は随分と大きく反響した。 反射的にテオは胸元のペンダントに手を伸ばす。手のひらに納まるほどの大きさの、楕円形をしたペンダント。 これはグレミオとセフェリスに術を施した頃に作らせたもので、今や愛するものと己を繋ぐ唯一の、テオの大切な『よすが』であった。 夜も深まってきた。数多く設置された天幕の外側では見張りの兵がぽつぽつと立っているが、 兵士たちの多くは明日に備えて一人、また一人と休み始めていた。 そんな中、アレンは屋外で静かに佇むグレンシールの姿を認めた。 テオの天幕の入り口を、やや離れた暗がりから見守るように立ち尽くしている。そんな戦友に向け、アレンが背後から声をかけた。 「グレンシール……」 「…アレンか。どうした、こんな所で」 後ろから歩み寄ったアレンはグレンシールの隣で足を止め、神妙な面持ちで口を開く。 「少し…テオさまのご様子を伺おうかと」 「奇遇なことだな、私もだ」 二人は互いに視線を絡ませ、頷き合った。勇猛果敢なアレン、冷静沈着なグレンシール……二人は対極的と評されることが多いが、 何よりもテオを敬愛している点では全く同じだ。 「やはり、気がかりか……」 「ああ。私も長くテオさまのもとで仕えてきたが、あそこまで動揺される姿を見たのは、初めてだ」 だから、迂闊に触れてよいものかとグレンシールは迷って立ち尽くしていたのだ。アレンがいてくれるなら心強い。 二人はテオの天幕の見張り番に声をかけ、ここは自分たちに任せて他を見回ってくるよう告げると、 天幕の中に居るであろうテオに向けて声を張った。 「テオさま、アレンです。少々お邪魔してよろしいでしょうか」 応えは微塵も返って来なかった。アレンとグレンシールは怪訝そうに顔を見合わせる。 返事はないが、明かりは点いているのだ。休んでいる訳でもなさそうで、中に居るのは確かなようだが。 「グレンシールです。テオさま、いらっしゃいますか?」 再び問いかけるものの、やはり何の反応もしない。たとえようのない不安感が増幅していくのを二人は自覚していった。 「……失礼、致します……」 無礼を承知で天幕をくぐる。そこで彼らが目にした光景とは。 テオは先ほどから飽きもせず、じっと手の中のペンダントを見つめ続けている。 幾度となくテオを励ましてくれたひとつのペンダント。真鍮製で決して豪奢なものではないが、 そこに詰まっている想いは何よりも鮮やかで色あせることが無く、グレミオが死んだなんて、 ただの誤報なのではないかと思わせる。…悪夢なら、早く醒めて欲しかった。 「残虐非道な…殺され方……か」 自分でも気づかないほど小さな声で、ぽつりと一言、呟いた。どんなにむごい最期だったのか、自分に知る術はない。 五体を裂かれて死んだ者、拷問に耐えきれず死んだ者、そんな人々をテオは職業柄多く見てきた。 しかし敵であれ味方であれ、彼らを視たときとは全く違う『何か』がテオに重く纏わり付いている。 グレミオは、苦しんだのだろうか。死は安らかにやってきてくれただろうか。志半ばで倒れて、辛かったか? 悔しかったか?そう想いを巡らせたところで、自分には何もしてやれない。ただ、不思議と目の奥が熱くてたまらないというだけで。 『テオさま。テオさま……』 「ああ…グレミオ。そうやってずっと私の名を呼んでくれ。おまえの声を聴いていたい……」 『テオさま…大好きです……』 「もっと囁いてくれ。おまえをまたこの腕で抱くために、私はどんな戦でどんな苦境に晒されようと、 必ず生きて家に帰るのだと戦い続けることが出来たのだ……」 今となってはもう家に帰ろうと誰も自分を待っていてはくれないけれど、 グレミオと愛を交わし合ったあの温かな日々の名残が、今日まで己を支え続けてくれた。 脳裏に浮かぶのはグレミオとの思い出ばかりだ。思い出はいつだって優しかったから。 「……本当に…思い出ばかりだ。おまえを想って脳裏を廻るのは、ただひたすらにおまえとの思い出ばかり。 未来が一切、想像出来ないんだ。一番変わってしまったのは、もしかしたら私なのか? これはおかしいのだろうか。私はもうおかしいのだろうか。こんな想いを……おまえはまだ“愛”だと言ってくれるだろうか…?」 生き生きと嬉しそうにセフェリスの成長ぶりを話してくれるグレミオ『テオさまテオさま!聞いてください、今日ぼっちゃんが…!』 怒るグレミオ『もう、テオさま!』拗ねるグレミオ『テオさまなんか、もう知りません…』 情婦のように淫靡な姿を晒すグレミオ『…ねぇ?テオさま…ここ、きて?…』 聖女のように高潔で穢れを知らないグレミオ『頬を撫でる風も、浅葱色の空も…全部全部、 この世界はこんなにも綺麗なんです!』抱き締められながら無垢な微笑みを浮かべ、 涙を零したグレミオ『幸せすぎて…怖い……』そして最後のあのとき、持てる限りの想いのすべてを、 深く刻みつけてくれたグレミオ……『これが、私の…最後の………』あの笑顔は…自分を祝福したのか、あるいは呪ったのか…… 「本当は片時も離れたくなんてなかった」 ―――彼のいない日々を重ねるごとに世界は色を失っていったから 「本当は感情を消したくなんてなかった」 ―――彼の愛は我が幸福の象徴であり命にも勝る宝物だったから だけど もうこれ以上彼を苦しませたくなかった だから 自らの激情に鍵をかけ、大事に大事に仕舞い込んだ せめて どこかで笑っていてくれるだけで良かったのに……
『テオさま!!』
『おやめください!テオさま!!』 or 目次に戻る? |