翌日、マクドール家使用人に戻ったばかりのタムの辞任が正式に認められ、再びグレミオがその任に就くこととなった。 「淋しくなるけど、まぁ仕方ないねえ」とタムは笑い、グレミオとの引継ぎが済むまでの数日間を大切に過ごすのだと言っていた。 前々からそんな予兆はあったとばかりに、タムはある程度の覚悟をしていたようだった。 無論、何も聞かされていなかったクレオとパーンは驚きを隠せなかったが、それ以上に二人を狼狽させたのは、 昨日テオと共に出かけて行ったセフェリスと、屋敷に戻ってきたグレミオがやけに快活としていたことだ。 彼らが思い悩み、苦しみあがく姿を見続けてきたクレオたちが不審がるのも当然だろう。 「なあ、グレミオ……」 「あれっ、クレオさん?パーンさんも……どうしました?夕飯はもうすぐできますから、もう少し待ってくださいね」 夕方頃にクレオとパーンが厨房にやってくると、予測どおりグレミオは夕餉の支度にいそしんでいた。 足音だけで家人の誰が来たのか判ってしまうグレミオは、二人の表情すらも満足に確認しないままキビキビと家事をこなしていく。 「グレミオ、……あんた、テオさまとのことはもう……」 クレオが神妙な顔つきで、今朝からずっと気にかけていたことを問いかける。しかしグレミオはきょとんとして一瞬動きを止めただけだ。 「テオさま?…えっと……何のことですか?」 私、何かご無礼な事でもしちゃいましたか…?と、心底不思議そうな顔でびくびくしている彼は、 嘘をついているようでもとぼけているようでもない。クレオもパーンも思わず眉をひそめる。 そのときセフェリスが厨房の入り口からひょいと顔を出して、グレミオに笑いかけた。 「あっ、やっぱり今日はシチューだね。すごく良い匂いがする」 今日もセフェリスはテオと二人で出かけていた。どうやら今帰ってきたばかりのようだ。 おなかすいたぁ、とぼやきながら厨房に入ってくるセフェリスを、グレミオもまた笑顔で迎える。 「最近はろくに料理できませんでしたので……ぼっちゃんが満足できるように、頑張って腕をふるいますからね」 「うん。すごく楽しみにしてるよ」 クレオとパーンは再び目を疑った。セフェリスの、グレミオに対する態度があまりにも自然すぎて…… いや、以前のもつれきった三角関係が当然だったのならば、今の態度は極めて不自然と言える。 セフェリスの表情からは悩みや迷いの類はこれっぽっちも感じられない。昔に戻ったかのような、という表現もやや語弊がある。 上手く言えないが、セフェリスが、ほんの少しだけ大人びてしまったような…… クレオとパーンは互いに目配せし、不信感を共有する。セフェリスに尋ねようかと思ったが、 おそらく先ほどのグレミオと同じ反応が返ってくるだろう。ならば、一番の『大物』に問いただすしかあるまい。 すると突然、入り口の辺りから、ぐぎゅるるるる…と大きなお腹の音がした。全員が一斉に入り口を見やると、 セフェリスと同じくらいの年ごろの茶髪の少年がひとり立っている。少年は恥ずかしさのあまり顔を真っ赤に染め、慌てて頭を下げた。 「き、聞こえた!?すみません!……なんだかおいしそうな匂いで、つい……」 「あの……この子は?」 グレミオが尋ねると、セフェリスは機嫌よく笑って新しく家族となる少年を紹介した。 「テッドっていうんだ。うちで引き取るんだって、今日父さんが……」 「遠慮せずに入ってきなさい、テッド」 テオが手招きすると、テッドはためらいがちにこちらへ歩いてきた。 だがグレミオはそのときまでテオが厨房にいることに気づいていなかったらしく、主へ向けて間の抜けた声を出す。 「あれ、テオさま……いたんですか?」 「いたんですか、とはなにごとだ」 テオは軽く笑い飛ばすが、今までのグレミオなら有り得ない態度だ。 クレオは内臓が衝撃で凍りついた直後に憤怒で沸騰するような心理状態に陥った。 思わずグレミオの胸ぐらを掴みあげて怒鳴りたくなる衝動に駆られ、そしてふっと気づく。 ……忘れているのだ。自分がテオと深い関係にあるのだということを、グレミオは忘れている。恋愛感情を、忘れてしまっている……。 「グレミオ…火、つけっぱなしだけどいいの?」 「あ!いけないいけない!」 セフェリスの何気ない一言に、グレミオは慌ててかまどに駆け寄った。お玉で緩くかき混ぜながら、 セフェリスの方を振り向いて冗談めいた声を出す。 「ぼっちゃん、後ろからイタズラしたら駄目ですからね?」 「わかってるって。じゃあぼくは部屋でテッドとおしゃべりでもしてるよ。ほら行こう、テッド!」 セフェリスはグレミオにちょっかいを出すよりも先に、 新しくマクドール家の一員となった少年から異国の話を聞きたくてうずうずしているようだ。 テッドの手を取って小走りに厨房を出て行った。 セフェリスの指先はいまだ包帯が巻かれたままだったが、もしかしたら少年は、その怪我をいつ、 何故負ったのかも忘れているのではないかと……そう思えてしまい、 パーンはグレミオに感づかれないよう気を払いながら、小声でテオに詰め寄った。 「テオさま、これは……これはいったいどういうことですか……!」 テオは僅かに頷いて、押し殺した声で二人に告げる。 「パーン、そしてクレオ。ひとまず場所を変えよう……私の部屋で、すべて話す」 夕食の支度に夢中になっているグレミオを厨房に残し、三人は家長の部屋へと向かった。 テオは重厚な革張りの椅子に座ると、眼前に立つクレオとパーンを交互に見やり、口を開く。 「まずは、おまえたちに説明するのが後回しになってしまったことを詫びねばならん…… すまない。今回ばかりは極秘で事を済ませたかったのだ」 「事を済ます……とは?昨日ぼっちゃんと出かけられたのと関係が?」 「ああ。セフェリスを連れてグレミオのいる教会を訪ねた。そして、」 次に紡がれたテオの言葉に、クレオたちは咄嗟に言葉を詰まらせた。 「特殊な魔術によって、セフェリスとグレミオから、彼ら自身を苦しめていた感情と記憶を取り去った」 「………!?」 「……なん…ですって…」 魔術、というどこか得体のしれない響きが二人を震撼させる。しかし馴染みが無いゆえに、 セフェリスたちが突然ああなってしまったことも納得できることも確かであった。 「レックナートという魔術師は、やはり一流だった。私の望みはすべて叶えてくれた…… セフェリスはグレミオのことをまるで母のように無邪気に慕い、グレミオも真っ直ぐにそれに応えている。 グレミオにとって私はもう、身柄を引き取ってもらえた恩人だとしか映っていないだろう。 余計な記憶も都合よく消えている。すべて……私の望んだ通りだ」 淡々とひとしきり語ったテオは、絶句したままの二人の表情を見て、軽い苦笑を浮かべる。 「そんな顔をするな、クレオ、パーン。二人はあんなにも元気になっただろう?」 確かに、あの二人の精神は救われた。しかし目の前には唯一救われなかった人間がいる。 それとも我らが主は、これこそが己に与えられた救済だとでも思っているのだろうか…? 「…本当に……それでいいのですか!?だって……テオさまは、まだ…」 パーンは納得できずに問いかける。しかしテオはただ湖面のように静謐な微笑を湛えるばかりだ。 「いいや。私は今、実に幸せだ。あいつの笑顔を傍で見続けることが出来る……これ以上の幸福は無いだろう」 「ですが、テオさま…!!」 続いて食ってかかってきたのはクレオだ。パーンよりも感受性が高い彼女は、衝動を抑えることが出来ずに溢れるまま涙を撒き散らした。 「どんなに強く、どんなに激しく狂おしく相手を想っても!…もはや心が通うことも無く、 触れることも叶わないのですよ!?……それこそ、生きる地獄ではありませんか…っ!」 そんな悲痛な叫びを受けても、テオは動じない。クレオはふと感じた、テオを包む空気。これは一種の諦観…なのではないかと。 「もう……いいのだ。おまえたちも、早く忘れなさい」 「でも……テオ…さ、ま……」 まだ何かを訴えようとするクレオの言葉を、テオはにべもなく断ち切った。 「話は終わった。さあ、もう出て行くんだ…」 さあ、とテオがもう一度促すと、クレオとパーンはきゅっと拳を握りしめながら一礼し、 やりきれなさが滲む苦しげな表情のまま部屋から退出していった。 そして二人の気配が完全に感じ取れなくなった頃。テオはふと、己の指先が軽く痺れていることに気づいた。 さすってみると、その手は随分と冷ややかだった。まるで心をそのまま映したようだ……そんな思考に一瞬囚われて、つい口端を歪めた。 「クレオあたりは気づいたかもしれんな。私もまだまだ未熟らしい……」 ふう、と大きく息を吐いて、テオは自らの心に刻んだ誓いの言葉を読み上げるように、ゆっくりと呟いた。 「……すべては、私が決めたことだ。犠牲となった二人の想いを…決して忘れるわけにはいかない。 だから、……間違っても、後悔など…感じてはいけないのだよ……テオ・マクドール……」 クレオに言われずともわかっている。自分はもう二度と、グレミオを抱き締めることも、口づけを交わすことも出来ない。 一歩離れたところから笑顔を見られるだけでいいのだと…そう思い込んだ。 それは諦めなのだろうか?未来を望むことを止め、過去だけを抱きしめる、一滴も零すことのないように。 ―――あれ、テオさま……いたんですか? 最初から諦めてさえいれば、僅かな期待を砕かれて打ちのめされることも、後悔を覚えることもない。 クレオたちがあんな顔をするのは当然だろう、自分は逃げたのだ。殴られても蹴られても文句は言えまい。 コンコン、とノックの音が鳴った。しばし懐かしい回想に身を委ねていたテオはその音で正気に返り、背筋を正す。 ドアを開けて入ってきたのはタムだった。彼女が手にしているのは、ひとつの荷。 「テオさま、あの……件の方より、お届け物です」 「そうか。丁度良かった」 待ちかねていたところだ、テオは嬉しそうに微笑みながら荷を受け取る。 武骨な将軍としてはミスマッチなほど無邪気さを感じさせるその相貌を見て、タムは喜びよりも一抹の不安を感じた。 (……お顔の色が、いつもより蒼い……) 「タム、どうした?」 彼女の険しい表情を訝しがったのか、テオが声をかける。するとタムは慌てて眉間の皺を伸ばし、深々と頭を下げた。 「い、いえ…何でもありません。…それでは私は、失礼しますね」 踵を返したタムが部屋から退出するが早いか、待ちきれないようにテオは慌ただしく荷を解き始める。 そして中から目当てのものを取り出すと、その素晴らしい出来映えに、知らず感嘆のため息が漏れた。 手にしたそれをいとおしげに何度も撫で、これから幾度となく己を支えてくれるであろうものを、そっと胸に抱きしめた。 「これさえ……これさえあれば、私は……たとえどんなに離れてしまっても、どんなに変わってしまったとしても、 愛していける……ああ、私の…大切な………」 出会いがあれば、別れがあるのは必然。 そのくらい、みなは知っていた。 時は流れ、世は乱れた。荒れる情勢において別れは猶の事必然。 そのことを、みなは涙とともに思い知った。 まず、傾城に惑わされた皇帝の命によって彼らは裂かれた。 それはひとつ目の別れ。 次に、ほんのひと瓶の殺人胞子によって彼らは裂かれた。 それはふたつ目の別れ。 そしてみっつ目の別れも、じきに訪れるであろう…… or 目次に戻る? |