あれから数日後。教会での一日の行がひと通り済んで、宵闇が少しずつ迫り来る頃合い。 グレミオは司祭によって呼び出され、小さな応接間で待たされていた。 司祭が言うには、テオとセフェリスが面会に来たというのだ。
グレミオが動揺しないわけが無かった。先ほどまで一緒にいた司祭が出迎えの為にこの部屋から出て行ってからというもの、 グレミオは蝋のように蒼白な顔でしきりに視線を泳がせ続けている。
あまりにも早すぎる、とグレミオは感じた。どういう用件で二人が会いに来たのかは知らないが、 まだ自分自身の気持ちに整理がついているとは到底言えないからだ。 テオに抱かれる色夢だってまだ見るし、気を抜くといつの間にかテオのことばかり考えている、 酷い時は恋しさのあまり涙すら滲んでしまう。こんな脆い精神状態で会っては、本当に何をしてしまうか分からない。 自分で自分が怖くてたまらなかった。
ドアノックの音がして、グレミオは心臓が止まりそうなほど震えあがった。 どんな顔をすればいいのか、どんな言葉で迎えればいいのか……扉が開くまでの数秒間がまるで無限に感じられた。 しかし、入ってきたのは何故かセフェリスただ一人。グレミオの強張っていた顔は僅かに緩んで、呆然としながら来客を見つめた、 真昼の陽のようにはしゃいだ表情で歩み寄ってくるセフェリスを。
「…ぼっちゃん…?……あの……」
テオさまはどうなされたのですか、と…訊くに訊けない疑問をグレミオが抱くのは当然だった。 セフェリスは満面の笑顔で、だけどほんの少しだけ、ぎこちなさを感じさせる笑顔でその無声の問いかけに答えた。
「ちょっとの間、二人っきりにしてくれるって!」
だから、今だけは父さんのこと考えないで、ぼくを視て……不自然な笑顔の裏の言葉を、グレミオは理解して真摯に受け止めた。 椅子から立って表情を和らげ、セフェリスを迎え入れる。 少年はいたって揚々としているが、両手の指先に巻かれた包帯にグレミオは直ぐ気づいた。
「…少し…痩せてしまわれましたね……」
指の包帯には触れず、敢えて差し障りのない言葉を紡いだが、それでも『少し』というのも若干控えめな表現かもしれない。 久しぶりに会ったから、余計に面やつれた感じが気になってしまうというのもあるのだろう。 あまり食べていないのかとグレミオが訊くと、セフェリスはためらいがちに頷いた。
「でもグレミオだって…何だか痩せちゃったんじゃない?」
「ああ、これは仕方ないんです。教会で出される食事は質素で、量もありませんし…」
セフェリスに比べれば全然大したことはない…そう思ってグレミオは少し困惑気味な微笑みを返し、 腕を伸ばして少年をいたわるようにその黒髪を撫でてやった。するとセフェリスは嬉しそうにくすくすと笑う。
「教会でも、グレミオがシチュー作れたらいいのにね。きっとみんな喜ぶよ?だってこの世界で一番おいしい料理なんだから」
悪気も裏も無い、心からの言葉。褒められることに慣れていない訳ではないが、どうしても気恥ずかしさは隠せない。
「そ、そんな、こと……もったいない言葉です……」
「あーあ、ぼくも食べたいなぁ……ふふっ…」
無邪気な笑い声を零すと、唐突にセフェリスはグレミオへ体重を預けるように、 軽い音を立てて胸の中に飛び込んできた。久しぶりの積極的なスキンシップ、直接的な愛情表現に、グレミオは驚いて目を見開く。
「ぼっちゃ…ん?」
セフェリスはグレミオの胸元に顔を埋め、背に腕を回し、思い切り、ぎゅうっと抱きついた。
「…グレミオ、大好きだよ。大好き。大好き。大好き……」
しきりに頬を擦りつけながら、何度も、何度も繰り返される言葉。聞くだけで胸に荊が食い込んで、鋭利な痛みと切なさを感じさせるような。
「これが最後なんだって、父さんが言ってた」
「えっ…?」
それはどういう意味なのか……面会は今回限りということだろうか?グレミオの胸に一抹の疑問がよぎったが、 その不安感は続くセフェリスの声音によってかき消された。
「だから…ね。ひとつだけお願い…」
セフェリスは名残惜しげに、ゆっくりと顔を上げる。涙で潤んだ琥珀色の瞳が、グレミオには何よりも美しく見えた、 そのまま引きずり込まれてしまう気がした。そしてセフェリスは、掠れた声で一世一代のお願いごとを告げる。
「……ぼくに、キス…して……?」
その切なる囁き声は、グレミオの禁じられた扉の鍵を開ける音だったのかもしれない。 不思議な力に導かれて、おずおずと頬に手を添えて、糸で引かれる人形のように少しずつ顔を寄せていく。 そして唇がふれ合おうかという距離まで接近し、少年の吐息が顔にかかるとグレミオは少し緊張したのか、僅かにためらって瞼を開けた。
すると直ぐ眼前には瞳を閉じて静かに待つセフェリスのあどけない顔があって。それを目の当たりにしたときの気持ちは、 ほろ酔いの状態のとき顔がかぁっと熱くなって酩酊する、あの感じに良く似ていて。 さあ、欲望の赴くままに最後の駄目押しを!自らの唇にセフェリスの柔らかな蕾の感触が伝わった瞬間、 グレミオの思考は霧散した。見渡す限り純白の花々が咲き誇る平原にたった二人で放り出されたかのような感覚だった。
ほんの少しの心細さと、少年が強く抱きついてくる息苦しさと、互いのぬくもりの心地良さ。 白く白く染まった心だけがひたすらに痛くて、苦しくて、そしてだんだんと痺れてきて。 やがて萌芽の時を迎えるように、グレミオの胸に満ちていったのは……ただひとつの感情と、自我と超自我を超えた衝動。
「…っ、はぁ……はぁっ……は、あ…ぁっ……」
どれほどの間、正気を失っていたのだろう。気づけば重ねた唇も絡めた舌も離れてしまっていたが、あまりにも激しく、 けれど何よりも無垢な口づけの余韻は長く長く尾を引いて、人肌に温めた蜂蜜のなかに全身が浸っているかのような、たまらない陶酔感があった。 そして突き動かされてしまったその結果を、グレミオは思い知る。 セフェリスのとろけるような笑顔と、ぽろぽろと頬を零れ落ちていく大粒の涙と、息乱しながら紡がれる告白と……
「…ありがとう。ありがとう……あい、してる…」
それらはまるで聖槍のようにおごそかであり高潔であり何よりも鋭くあり、 キリストの脇腹を素通りしてグレミオの心臓をあやまたず刺しつらぬき、否応にも彼に激痛をもたらした。 そしてこの痛みの正体を、彼はようやく理解した。今なら言える、迷うことなく言える。私は、あなたを…。
「ぼ…っちゃん……私は……!」
しかし、セフェリスは首を左右に振り、儚げに微笑んでグレミオの言葉を遮った。
「ううん……もう、いいの。…ぼく、幸せだったよ……」
セフェリスはそう言い残し、両手でぐいぐいと涙を拭って、逃げるように小走りで部屋を出て行く。 グレミオは、無理やりセフェリスの腕を掴んででも、伝えてやるのだったと後悔を覚えた。
行き場を失った感情が今にも噴き出しそうで、息がつかえるほど苦しい。しかしその苦痛も、ほどなくして跡形もなく砕け散るだろう。 セフェリスが出て行った今、次に部屋に入ってくる人間は一人しかいないのだから。
「…。…テオ…さま………」
部屋に入ってきたテオを凝視したまま、グレミオは立ち尽くした。数瞬間ほど、空虚だけに囚われてしまったように一歩も動けず、 身じろぎひとつ出来ず。唯一発せたのは消え入るような一言、ただ一言名を呼んだのみ。怒涛のような想いに押し潰されて表情はかき消され、 グレミオの相貌は何の感情も示せない。敢えて言えば、愕然としている…そう表現出来るのかもしれない。
そんなグレミオをテオは神妙な風情で正面から見据え、足早に歩み寄る。どこかで立ち止まると思った、しかし彼は立ち止まらない。 立ち止まらず、ためらいなく射程に入り……相手を襲うかのように飛びかかったのは、どちらが先だっただろうか。
「テオさまぁ…っ!」
勢いよく肢体と肢体がぶつかって、かたく抱き締め合い深く絡み合う。テオの広い胸に抱かれて、 夢で何度もなぞったはずの感覚がこれ以上なく鮮明に、リアルにグレミオを包み、自然と涙が滑り落ちる。 それは幸福感に打ちのめされるがゆえの涙だった。
「あぁ……テオさまの腕…テオさまの匂い……私を包んでくれる温かさ……これは夢?…そうでないのならば、 もうこのまま…息絶えてしまいたい……!」
歓喜を歌うグレミオの身体を一層きつく抱きながら、テオは押し殺した声で言葉を紡ぎ始めた。先日ここの司祭から手紙を受け取ったのだと。 その手紙には、グレミオが深く思い悩んでいたということ、その挙句に去勢をはかったこと……その手紙には総てが包み隠さず書かれていたと、 テオはグレミオに語った。
「手紙に書かれた一句一行読むたびに、おまえの緋色をした涙が私の心に滴り落ちてくるようだった。 酷なことをさせたな……すまなかった……」
テオの沈痛な言葉を受けて、ちくり、とグレミオの胸に罪悪感の棘が刺さる。己の苦しみが結果的にテオをも苦しめてしまったという棘。 だが無理もない、テオとグレミオは一心同体とも言うべき関係。二人が離れるということは、身が二つに裂かれるということ。 痛みを伴わないわけがないのだ。
「グレミオ、もう苦しまなくていい。おまえにも、セフェリスにも…辛い思いは、もうさせん」
だから、痛みを無くすためには……単純な事。一心同体などという関係でなくなればいい。
「今日はセフェリスと、あともう一人、ここに連れてきている」
「もう、一人?…どなたを?」
不安げなグレミオの声を聴き、なだめるように背中をさする。これから言うのは大事な話だ、ちゃんと目を見て伝えたくて、 重なり合っている身体を離してやった。
「この赤月帝国でも指折りの魔術師、レックナートを知っているか?彼女は帝国の未来を占う『星見』を生業としているが、 他にも様々な魔術を自在に扱う。私は手紙を書いて彼女に頼み込み、その力をおまえとセフェリスに使ってもらうことにした」
テオは強い黒曜石の視線でグレミオを縫いとめながら、静かに宣告した。
「セフェリスが抱いているおまえへの想いと、おまえのなかにある私への想い。 及びそれに関する幾ばくかの記憶……それを今から、抹消する」
「えっ?」
一瞬、テオが何を言っているのかグレミオには分からなかった。
「……まさか…そんなこと、出来るはずが」
だから、趣味の悪い冗談だと思って、つい茶化すようにグレミオは笑ってしまう。しかしテオの声色は寸分も変わることは無かった。
「脳の神経回路の一部を麻痺させる術だとレックナートは言っていた。 特定の回路にのみ脳波を走らぬようにさせ、感情と記憶を封じ込めるらしい」
グレミオの乾いた笑顔は凍りついた。冗談でも、絵空事でもないのだと悟って。
「…うそ……」
ぎこちない笑顔は、次第にいびつな恐怖におののく表情へと。涙は出なかった。動揺が大きすぎて実感を持てなかったからだ。
「嘘だと、言ってください。テオさま……」
己の胸元を、大事なものを目いっぱい詰め込んだ己の宝石箱を、グレミオはしきりにまさぐった。 そこから湧き上がってくる無尽蔵の恐怖に顔を引きつらせながら。
「そんな……あなたへのこの気持ちが消えてしまう?この狂いそうなほどの恋情が消えてしまう? かけがえのない思い出ごと?…私に…耐え、られるはずが…ありません……」
それはテオの想像通りの反応だったが、それでもいざ目の当たりにするとかなりの苦痛を伴った。 しかしテオは揺るがない。揺るぐわけにはいかない、生半可な覚悟ならば最初からしない方がマシだ。
「残酷な行為だということは、わかっている。だがこのままでは、セフェリスもおまえも…… セフェリスの指の包帯は見たな?おまえがつい数日前、自分自身に何をしようとしたのかも覚えているな? …これ以上、おまえたちが壊れていくのをなすすべもなく見ていられるほど、私は強くないのだ」
「嫌です…それだけは……それだけは、やめてください……!」
それでも拒絶を示すグレミオに向け、テオは容赦無く畳み掛ける。
「ならばおまえは捨てられるのか?私とセフェリス、どちらかを選び、どちらかを捨てることが、おまえには出来るのか? 捨てられた方の人間が味わう地獄のような苦しみを、おまえは一生背負えるのか?」
「…っ、…でも…!」
すがりつくようにグレミオはテオの腕を掴む。力を込め過ぎた手はガタガタと激しく痙攣していた。
「……あなたへの愛は、私の温もりそのものなのです……私の優しさ、私の慈愛……全部失くしたら… 私に、いったい何が…残るというのですか……?」
「失われることは無い」
「え……?」
グレミオはテオの一言にきょとんとなり、何も分かっていない純粋な眼で主を見つめる。 そんなグレミオの片手をテオは取り、己の胸にしっかりと当てさせた。
「おまえの想いは、ここで。私のなかで、生き続ける。私が私である限り…永遠に。 ……大丈夫。失ったと思っても、きっと何かが残り、新たな温もりを生んでくれる……」
その言葉の意味に気づきかけたグレミオは瞠目し、まばたきを忘れ、脱力した手がテオから離れ、だらりとぶら下がる。 次第に頭の中で理解が進んでいくと、小刻みな震えが止まらなくなり、膝が折れてしまいそうなのを堪えながら、 消え入りがちな声で問いかけた。
「…なぜ…ですか。なぜ私とぼっちゃん両方の想いを消すと言いながら、ご自分の感情だけを消そうとなさらないのですか……」
その問いに、テオは至極穏やかな微笑を返す。ほんの少しだけその眼差しに痛みが混じったように思えたのは、単なる見間違えだろうか。
「私の……我儘だよ、グレミオ…」
「…………!」
グレミオの見開かれた瞳から、涙が溢れた。あんまりだと思った。 大切なものが消されてしまう己が哀れなのではなく、万感の想いを込めてその言葉を発さなければいけなかったテオが哀れで、 そして愛しい主の眼前に無限に広がっている真っ暗闇の空間が、あまりにも怖くて恐ろしくて。
ぽろぽろと零れ続ける涙をぬぐうことなく、グレミオはテオを灼け付くほどに睨みつけ、愛憎で満ちた言葉の嵐を、 何度も何度もぶつけ続けた。半ば絶叫に近いその訴えに、テオは静かな声で答え続けた。
「あなたは酷いお方です」
「そうだな、私は酷い人間だ」
「酷くて、ずるくて、まるでエゴの塊のようで」
「おまえに笑顔でいて欲しいだけなのに、泣かせてばかりいる」
「卑怯で、狡猾で、自分勝手で、愛しくて、こんなにも…愛しくて……っ!」
もう何も言わなくていい……グレミオの呪いを込めた睦言を遮るがごとく、テオは渾身の力で、錯乱するグレミオを抱き締めた。 骨肉のきしむ音が聞こえるほどの激しい抱擁に肺を圧迫され、グレミオは声を奪われる。 言葉の代わりにテオの広い背に両手を回し、思い切り抱き返した。
呼吸が滞って苦しくなっても離れたくなくて……視界が白く霞み、気が遠くなり、意識が薄らいでくる頃ようやくグレミオは解放された。 懸命に酸素を求めて喘ぎながら、それでも主の瞳から視線を外さないグレミオの両肩にテオはしっかりと手を置いて、形無き手向けを贈った。
「私というくびきを離れ、幸せになりなさい。私はいつまでも、おまえを見守っているから……」
翠色の瞳を見つめながら、テオは願いを唱えた。それは終焉を意味する祈りでもあった。
「だから笑ってくれ。私だけに見せてくれるあの笑顔を、もう一度だけ見せてくれ。 おまえの心が私から離れても、私が立っていられるように。 何も恨まず、何も憎まず、妬みも嫉みも知ることなく、私が生きていけるように……」
「テオ…さま………」
もうグレミオが何を言おうと、テオの決意は変わらないだろう。だとするなら、せめて自分がテオの為に出来ることをしてあげたい。 テオの祈りを受けて、グレミオもまた願いを唱えた。涙で滴る万感の微笑みは、ごく自然と浮びあがっていた。
「…テオさまから頂いた大切な思い出。大切な大切な私の想いのすべて……あなたに刻ませてください。 この地上が果て、死の世界すらも崩れ、やがてあまねく生きとし生けるものがついえるそのときまで、失われることの無いように……」
今この時だけは、互いに笑顔でいたかった。テオの浅黒い頬に、グレミオはゆっくりと手を伸ばす。
「……これが、私の…最後の………」
そしてふたつの影は重なった。
紅い夕陽が地平線に沈む瞬間に響き渡る断末魔の咆哮のように、激し激しく……



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