そしてもう片方のたわんだ板に目を向けよう。跳ね返った瞬間を目の当たりにしたタムは、 その様子を『よく振った炭酸瓶の中身が一気に噴き出したような』と後に語った。 しかしながら、彼女の語彙は少々心もとなかったのかもしれない。
セフェリスは激しく泣き叫んだりしたわけではない、そんな生ぬるいものではなかったのだ。 一週間にわたり続いた食欲不振。瓶のコルクを徐々に押し上げていく僅かな変化を自分は察することが出来なかったのだと、 彼女はその後も長く後悔することになった。
「ふああぁぁ……もう、朝かねぇ」
使用人の朝は早い。空が白んで部屋がうっすらと明るくなる頃、タムはいつも通りの時間に目を覚ました。 大きくあくびをし、脳に酸素を供給する。マクドール家の生活にもようやく身体が慣れてきたようだ。
老体に朝の寒さはこたえるが、その程度でへこたれるような女性ではない。今日の天候、食事のメニュー、掃除の予定…… そんなことを考えながら身支度をしていると、奇妙な音がタムの耳を掠めた。
カリ、カリ……と、何かを引っ掻くような音がしているのだ。いったん身支度を止めてみると、 やはりその音はひっきりなしに続いているのが判る。ネズミが居るのだろうかとタムは思ったが、ネズミの活動時間は夜。 それに小動物は人の気配に敏感だから、直ぐに逃げてしまうだろうに。
どうやらその音はドアの向こうから聞こえてくるようだ。タムは怪訝に思って鍵を外し、慎重に扉を開けた。 その途端部屋の中に倒れ込んできた人影に、彼女は仰天することになる。
「ぼ…ぼっちゃん!!」
ドアの外に居たのはセフェリスだった。扉にもたれかかっていたのか、支えるべきものを失った少年の身体はタムの懐に入る形となる。 その身体のまるで氷のような冷やかさにタムは血の気を失った。
「こんなに冷えて……いつからここにいたのですか…!?」
「いた…い。…いたいよ……いたい……」
セフェリスの身体はぐったりと力を失っており、意識も朦朧としていた。止め処なく涙を零し続けながら、 いたい、いたいと弱弱しい言葉を繰り返す。どこか具合が悪いのだとタムは気付き、 少年の身体のそこかしこに触れて異常部位を探す。そしてセフェリスの手を取ったとき、ぬるりとした感触がした。 両手に視線をやったタムは激しい衝撃と動揺に思わず息を呑む。
セフェリスの指は血に塗れていた。両手の爪は見るも無残な有様で、何枚かは完全に剥がれ落ちてしまっている。 セフェリスはここで一晩中ずっと、開かぬ扉を開けようと爪をたて続けていたのだ。 扉の向こうに、逢いたくてたまらない彼が自分を待っていてくれると信じて。
「…いたい……ぐれ…みお……いたいよぉ……」
指先には末梢神経が集中している為、爪がもげれば一人前の大人ですら涙を流すほどの激痛に襲われる。 しかしタムには分かった、セフェリスは指の痛みをほとんど感じていない。痛いのは指先ではない、痛いのは指先ではない。
…したたかに膝小僧をすりむいても、痕こそ残れどいずれは治る。だから心の傷もいつか消えるのだと、 セフェリスを信じようと、先日、二人の女性は互いの想いを確かめ合った。しかし彼女らは失念していた、 もしもその傷が最初から致命傷であったなら、癒えるのを待たずして死んでしまうのだということを。
「テオさま……失礼、いたします」
その日の夕刻、タムは呼び出されテオの書斎へと足を向けた。タムが入室した時、テオは気難しい表情でデスクチェアに腰を掛け、 手紙らしきものに目を通していた。テオのデスク上は普段なら整然と片付けられているはずなのに、 今は数々の本が無造作に散乱していてタムを少し驚かせる。 彼女が定位置で立ち止まったとき、テオは手紙から顔を上げ、タムに声を掛けた。
「……セフェリスの指、医者は何と言っていたか?」
訊かれるであろう事柄はある程度予測していたから、タムは落ち着いて答える。
「はい、とにかく患部を清潔に保つようにと。無事にかさぶたが形成されればさほど心配はいらず、 皮膚で覆われたら包帯は取って良いそうです。完全に元通りになるには数か月かかるそうですけども… それから、化膿止めと痛み止めを一週間分頂きました」
「そうか」
かつてのグレミオの部屋、今はタムにあてがわれている部屋にやってきたセフェリス。 彼の無残な指先にタムは応急処置を施し、自分のベッドで休ませた。セフェリスは軽い錯乱状態だったが、 グレミオの使っていたベッドで横になると、懐かしい優しさに包まれたように穏やかな表情を浮かべ、ほどなくして安らかな眠りについた。
朝食時、空席となったセフェリスの定位置を見てマクドール家の人々は皆何かを察したようだ。 隠すことなど出来ないとタムは悟り、ためらいながらも朝食時に事の顛末をテオたちにすべて話した。 食堂に満ちた大きなため息はおそらくパーンのものだろう。クレオの表情は明らかに陰り、テオは数秒瞑目しただけで何も言わなかった。
その後テオは書斎に籠もった。クレオとパーンはそれぞれ一度ずつセフェリスの様子を見に来たが、 少年の穏やかな寝顔を心配そうに見つめただけで、タムにねぎらいの言葉をかけると直ぐに出て行った。 タムも今日はあまり仕事をする気になれず、部屋で縫い物をしながらセフェリスの様子を見守っていた。
セフェリスが目を醒ましたのは昼過ぎで、喜ばしいことにそのときにはもうだいぶ平常心を取り戻していた。 タムの不安げな顔を見るとセフェリスは「心配かけてごめん」と率直に謝り、 それから「ちょっとお腹空いちゃった…」と照れくさそうに笑う。その顔を見てタムは思わず涙ぐんでしまった。
そのまま医者に診せたりセフェリスの為に軽食を用意したりしているうちにいつしか陽は傾き、 夕食のメニューを考え始めた頃にテオからの呼び出しがかかり、今に至る。
「それで……セフェリスの様子はどうだ?」
主の卓上に散乱している本の種類は、武人であるテオにはあまり馴染みの無い系統の本ばかりだった。 珍しい、とぼんやり思っていたタムは、テオの問いかけに少々慌てながら答える。
「え…ええと、一応まだ大事をとって横になっていますけど……私の冗談を笑ってくれる位の元気はありますね」
「わかった。後で私も会いに行こう。もっとも、セフェリスは…」
セフェリスは、私の顔など見たくもないかもしれないが。そう言ってテオは軽く自嘲してみせた。
「そ、んな……そんなこと……」
タムは思わず言葉を詰まらせるが、その気を逸らせるように、テオが直ぐに新たな話題を切り出す。
「それからタム、少し頼まれて欲しいことがある」
「…え?あ、はい。何かご用事でも?」
やや間の抜けた応えをするタムに、数通の手紙を差し出す。
「この手紙を届けてくれ、できれば速達で。それから、早急に画家を一人手配したい」
「…画家、ですか?」
タムは手紙を受け取りながら、不思議そうな表情をした。
「ああ、画家だ。2年ほど前に暇を出した、元マクドール家専属の画家がいる。 …そして……おまえには申し訳ないが、もしかすると、近いうちに……」
続く言葉を聞いたタムは瞠目することになる。テオが何を考えているか、何を企んでいるのか。 このときはまだ分からずに、彼女はただ困惑を覚えるばかりだった。



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