昨晩ろくに眠れなかったセフェリスは、朝にグレミオを部屋から追い出して以降ずっとベッドに横たわり、 不自然なまどろみのなかに漂っていた。眠いのに熟睡が出来ない。 ノンレム睡眠と半覚醒を何度も繰り返し、脳裏に纏わり付く悪夢の影に怯えていた。
暗い水中でゆっくりと沈み続ける鉛を思わせるような時間は、まるで何日も続いているように感じられた。 こんなに長時間横になっているなんて父さんが怒るかな、と一瞬だけ頭によぎったが、 まるで現実から遮断されたような夢うつつの空間はそれ以上の思考を編み出しはしなかった。 だからドアのノックの音なんて聞こえなかったし、誰かが部屋に入ってきても、ベッド脇の直ぐ傍に人の気配を感じても、 セフェリスは夢だと思っていた。
「…ぼっちゃん、ぼっちゃん。ご気分はいかがですか?」
「……ぅ、ん…っ?」
耳元で囁く穏やかな女声。軽く身体を揺さぶられて、セフェリスの意識は徐々に浮上を始めた。 やがて相手の声が耳慣れた女性のものであることを悟ると、自分を起こしに来たのがグレミオではなかったことに安堵を覚えたのか、 自然とため息が漏れた。
「昼食をお持ちしました。起きられそうですか?」
「あ…クレオ……」
セフェリスは瞼を開き、隣でトレイを手にして佇むクレオの姿をしっかりと捉えた。 横たわったままなのでトレイの上に何があるのか分からないが、とても美味しそうな匂いがした。
「クレオが…料理したの?」
セフェリスの問いにクレオはつい失笑した。彼女がまともな料理を作れないのはマクドール家周知の事実。 しかし今のセフェリスはその事実すら失念していた。
「いいえ、グレミオですよ。きっと食欲が無いだろうからと、ぼっちゃんだけメニューを変えて、喉に通りやすいものを作ったそうです。 …グレミオは少し、所用で出かけなければいけなくて。私が代わりにお持ちしました」
その言葉にセフェリスの表情が少しだけ陰るのを、クレオは寂静な瞳で見つめる。 本当は、グレミオはテオと共にあるところを訪ねているが、セフェリスの為にそれは言わないでおいた。
「…後で食べるから、そこに置いておいて」
「はい。冷めないうちに召しあがってくださいね」
クレオはふわっとした微笑みをセフェリスへと送り、トレイを枕元のテーブルに置くと部屋から出て行った。 すぐに退室したのは彼女なりの配慮だろうか。後に残るのは、トレイから漂う芳香のみ。 しばらくセフェリスはぼんやりと天井を眺めていたが、 唐突にお腹からの警告音が大きく部屋に響いて、思わず苦笑してしまった。
昨日の晩から何も口にしていない成長期の身体はしきりに「血糖値を上げろ」と訴えている。 食欲は無いのに空腹感はある、不思議な感覚だ。もしかしたら、 『グレミオの料理の匂いを嗅いだら必ずお腹が空くように』という身に染みついてしまった条件反射なのかもしれない。
重苦しい身体をどうにか動かして上半身を起こした。するとサイドテーブルに置かれた料理が目に入ってくる。 トレイに載せられていたのは、お椀にたっぷりと入った豆腐粥。それから副菜の茶碗蒸し、デザートにフルーツゼリーまでついていた。
セフェリスは極力何も考えずにスプーンで粥を掬い、ゆっくりと口に運んだ。 熱過ぎずぬる過ぎず、ほどよい温度に冷めた粥の甘さがじんわりと口腔内に沁み渡っていく。 その途端に、ぱたり、と透明な雫が一滴、掛布団に落ちた。
(……おい…しい………)
セフェリスは思う、グレミオが愛しているのは父さんのはずなのに、どうしてこんなにも優しい味がするのだろうかと。 まるでグレミオに抱き締められているかのようだ。ひと口含むたびにグレミオの腕の温かさをリアルに感じてしまって、 ぱたぱた、ぱた、と、頬を伝う時雨は降ったり止んだりを繰り返ながら布団を濡らし続けていった。
グレミオがセフェリスの為だけに作ってくれた料理。食べればちゃんと伝わってくる、 どれだけ自分のことを気にかけて、心からいたわってくれているか。それが嬉しいのは本当、 でもセフェリスが真に欲しいのは親愛の抱擁ではなく熱情の口づけなのだ。 それをグレミオに伝えたところで彼はきっと困ってしまうだろう。ただ、自らの若い欲望がセフェリスにはひたすら浅ましく感じられた。
途方も無く時間はかかったが、セフェリスは大切な食事を残さず完食した。 するとお腹が十分に満たされた所為か、また睡魔が襲ってくる。 食べている間ずっと断続的に泣いていたセフェリスは、頭の奥に重苦しい疼痛を感じていた。きっと疲れたのだろう。
泣き疲れたし、グレミオや父のことを考えるのにも疲れたし、何かを想ったり感じたりすることにも疲れた。 トレイと食器類をサイドテーブルに戻し、セフェリスはそのまま横になる。そして再び、鈍色のまどろみの中へと落ちていった。
気の遠くなるほどの時を彷徨っているうちに、いつしかセフェリスは夢と現実の境界線が判別できなくなっていた。 まぶたも開いているようで閉じていて、あるいはその逆かもしれない。 周りの景色は次第に赤みを帯びていくが、それが夕刻の訪れを示す、窓越しの斜陽の光だとはセフェリスは気づきもしなかった。
「…父さん……?」
傍らに立つ大きな人影がちらりと見えて、セフェリスがうわごとのように呟く。 いつの間にか部屋に居たのは、確かにセフェリスの父、テオだった。 テオは息子の意識が朦朧としているのを察し、やや大きめの声量で語りかけた。
「セフェリス、しっかりと目を醒ませ。深く息を吸い、吐いて、現実の空気を知覚するんだ」
テオの厳しい声に、セフェリスは僅かほど目を見開く。言われるままに深呼吸をすると、これは夢ではないと自然に理解することが出来た。
(あぁ…父さんの沈痛な気配がはっきりと判る。痛いくらいに……)
セフェリスの瞳に意思が宿ったのを確かめると、テオは神妙な表情を保ったまま口を開く。
「少し、おまえに話がある。……グレミオのことだ…」
辛いのなら横になったままでいいとテオは言ったが、セフェリスはぎこちない動作ながらも上体を起こし、 ベッドの背もたれに体重を預けた。すると上半身が冷たい外気に触れ、頭が冴えてくるのを感じる。 テオは部屋にある木製の椅子をベッド際に移動させ、おもむろに腰を下ろして語り始めた。
「…ここ十年でクレオも随分丸くなったと思ったが、やはり激情家の面もまだ残っていたようだ。 処分を受けることも承知で私に怒鳴ってくるとは……本当に、良い部下を持った」
「えっ…クレオが、怒鳴った?父さんに…?」
セフェリスにとってクレオは心優しき姉のようなもの。その彼女が上官である父に怒鳴ったなんて、セフェリスには想像もつかなかった。 そんな様子の息子を見て、テオは思わず苦笑を浮かべる。
「ああ。こっぴどく説教をされたよ。息子の心すらも守れないで、何が百戦百勝将軍か、と……」
テオは目を瞑って深く吐息ついた。そして改めてセフェリスを見る。その瞳には情深い温かさが宿っていた。
「グレミオを……愛しているのだな。あいつの気持ちを知っていてもなお、消せない想いか?」
「…………」
何も言えないでいるセフェリスをしばしテオは黙って見つめていたが、やがてやるせなさそうに首を左右に振った。
「……済まない…愚問だった。感情というものがそう容易く御せるものであるのならば、 おまえもこれほどまでに苦しみはすまい。そして私もまた……」
「父さん…?」
セフェリスはどこか不安げな表情で父の顔を見る。その視線を受け止めて、テオは静かな声で宣告した。
「今日限りでグレミオを、マクドール家使用人の任から解く」
その一言が耳に届くと、セフェリスは力なく俯いた。
「新たな職が見つかるまでは、しばらく教会に預けようと思う…」
それは、セフェリスにとっては特に青天の霹靂というわけではなかった。あえて考えないようにしていただけ、 決して予測できなかった事態ではなかった。やむを得ない判断だと頭では判る。ただ、心が納得してくれない。
「でも…ぼくは……グレミオの傍に、いたい…」
俯いたまま、弱弱しく精一杯の我儘を絞り出した。だがテオはそんな息子を静かな声でたしなめる。
「心を引き裂かれる苦痛を味わうだけと分かっていても…そう言えるのか? おまえは理解したはずだ、目の前で真実を見せつけられる残酷さを」
……それはまさに、生きる地獄……
「これはおまえのためでもあり、グレミオを想ってのことでもある。グレミオは性根が繊細…… 私とおまえ、どちらかを選ばなければいけないのなら、必然的にどちらかを捨てなければならない。 あいつはその重みには耐えられないだろう……それならばどちらも選ばない方が賢明だ」
セフェリスは、父の言葉を一語一句聞き漏らすまいと耳をそばだて続けた。 苦しいのはセフェリスだけではないと、テオはそう伝えたいのだろう。
「今朝、おまえを起こしに行ったグレミオにおまえが何を言ったのかは知らないが、かなりのショックを受けたようだ。 そのうえクレオに事の顛末を聞かされて、息絶えてしまいそうなほどうちのめされた。もう…グレミオは、この家に居ない方がいい」
父の真摯な説得の言葉は一応理解できる。それでもセフェリスは黙りこくったまま、頷くことが出来なかった。
「本人の承諾も既に得た。といっても……主君としての職権濫用で強引に、だがな。 それに教会ならば司祭を通さねば面会すらも許されない。私との万一の逢瀬の可能性も断つことが出来る」
つまり、テオはもうグレミオと個人的に逢わないと言っているのだ。…どうして割り切れるのだろう? どうしてそんなに穏やかな顔をしていられるのだろう?セフェリスはようやく口を開き、父に問いかけた。
「ねえ……父さんは、それでいいの?父さんはグレミオを愛しているんでしょう? それなのに、離れてもいいの?会えなくなってもいいの…?」
息子の質問に、テオはためらい無く答えた。その広大な海のように穏やかな声音、 優しいさざ波を思わせる表情にセフェリスは息を詰まらせる。
「セフェリスよ、私の想いはひとつだけだ。おまえとグレミオから、笑顔を奪いたくない。 たとえ遠く離れてしまっても、あいつがどこかで笑っていてくれるのなら、私はそれでかまわない」
父の悟りを得たような言葉は、少年のちっぽけな心に途方も無い罪悪感を生じさせた。 自分がとても器が小さい人間に思えて仕方なくて、自己嫌悪に痛む胸をかきむしる。
「…ごめんなさい、ごめんなさい父さん……ぼくばかり、我儘を言って……」
「それはおまえが若い証拠だ。反省することは悪くは無いが、焦らずとも良い」
それに、おまえが本音を言ってくれたことで私も救われた……。テオは己の胸中でのみ、言葉尻にそう付け加えた。 グレミオへの未練を垣間見せてはならない。少なくとも、今はその時ではない。
「明朝、グレミオを教会に連れて行く。会いたいのならそれが最後のチャンスとなるだろう。…おまえもついて来るか?」
セフェリスは数秒考え込む。最後のチャンス……会わなければ一生後悔するかもしれないが、目先の恐怖の方が勝っていた。
「下手に会ったら、ぼく…何をしてしまうか分からない。それが怖いから……会わなくていい」
その選択を後々悔やみはしないかとテオは思ったが、下手に会わせたところで、 セフェリスが取り乱せば取り乱すほどグレミオは深く傷つくだろう。だからテオは追求しなかった。
「そうか。なら夕食もクレオに運ばせることにする。新しい使用人も早急に手配せねばな」
「でも、父さん。ひとつだけグレミオに伝えて?」
切なげな顔で父に願う。本当に言いたい言葉を伝えることが許されないのなら、せめてひとつだけ、グレミオに謝りたかった。
「……大嫌いって言ったりしてごめんなさい、って……」
「わかった。必ず伝えよう」
何も心配いらないと、テオはしっかりと頷いてみせる。しかし胸の激痛をこらえ続けるセフェリスは精神的に限界に来ていた。 懸命に抑えつけていたはずの涙が一筋、つうと頬を流れていく。
「…そう、…嫌いなんかじゃ…ない……ぼくは、…ぼくは……っ!」
感情の堰とは一旦決壊してしまうともはや意味を成さないもの。いつの間に、 こんなにも涙もろくなってしまったのだろう?声が詰まってしまい、嗚咽が止まなくなって、 しゃくりあげながら泣き続けるセフェリス。父はそんな息子に静かに寄り添い、優しさを込めて語りかけた。
「本当に泣きたいときは泣くといい。気が済むまで泣いて、そしてしばらく休みなさい。 大丈夫…その胸の痛みはいつの日か、かけがえの無いおまえの礎となるはずだ……」
そしてテオは、心なしか潤んだように見える瞳を慈愛の色に染めて、セフェリスをあやすように髪を梳いてやる。 “ぼっちゃんはそうされるのが大好きなんですよ、テオさま……”いつかのそんなグレミオの言葉を思い出しながら。
「グレミオは、おまえを愛しているよ。…それだけは言っておきたかった。 私といるときでも、あいつの話題はおまえのことばかりだった。本当に嬉しそうな顔をして、おまえの話ばかりを……。 ただ、その愛の形がおまえの心の隙間に上手く沿わなかっただけなのかもしれないな……」



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