今夜は底冷えが酷い。クレオは手足の冷えに耐えかねて、夜更けに浅い眠りから目を醒ました。 熱いホットチョコレートでも飲めば眠れるかと思いたち、 夜着の上にもう一枚羽織りものを重ねると、ランプを片手に厨房へと足を向ける。
「やれやれ……冷え症ってのはつらいねえ、寒くて眠れやしない……ん?」
ひとりごちながら歩いていると、厨房へと続く廊下の隅に僅かな気配を感じた。誰かいるのか、と怪訝に思って近づけば、 ランプの明かりに照らされる、小さくうずくまった一人の少年の姿。
「ぼ…っちゃん…?」
セフェリスの様子がおかしいことに、クレオは即座に気づいた。慌てて駆け寄って顔を覗き込んだ。 セフェリスの相貌は青みすら感じさせる位に蒼白で、焦点の合わない瞳からとめどなく涙を溢れさせながら何事かを呟き続けている。
「…シテル……テ…アイ…シテル……アイシテル……」
「ぼっちゃん、ぼっちゃん!どうなさったのですか…!?」
クレオは窮しつつも押し殺した声で語りかけ、肩を掴んで軽く揺さぶり背中を叩く。 セフェリスの身体は、汗が体温を奪ってしまったようで哀れなほど冷たくなっていた。 うつろな表情でクレオを見やり、辛うじて反応らしきものを示すのだが。
「……グレミオ…?」
「いいえ、クレオです。どこか具合が悪いのですか?」
小刻みに震えながら、セフェリスは頼りない微笑を浮べる。 それは死期を悟った末期患者が苦しみのさなかで最期にたたえるような、悲愴な微笑みだった。
「だい、じょ…ぶ。ぼくは…まだ……」
セフェリスの右手が何かで濡れている。よく見るとそれは、指と手のひらに纏わりつく、とろりとした白い液体。 クレオは僅かに瞠目するが、そんなものは今追求すべきことではない。とにかくセフェリスを落ち着かせ、休ませるのが先決だ。
「…ぼっちゃん、こんなところにいてはお風邪を召します。早くお部屋に戻りましょう」
セフェリスは這いつくばってグレミオの部屋の前からここまで移動してきたようで、立つことが出来ない。 クレオは少年の身体を軽々と背に担ぎ、階段を上ってセフェリスの自室へと運んだ。
部屋に着くとクレオはまず暗い室内に明かりを点し、暖房機で部屋を暖めた。それから汗と体液で汚れた服を脱がしてタオルで拭い、 新しい夜着に替えさせる。やがて上昇する室温とともに身体は少しずつ暖まり、 幾分か楽になったようだが、セフェリスはずっとすすり泣いていて一向に泣き止む気配を見せない。 心に受けた重度の凍傷はその程度で癒えはしないのだ。
ひと通りの処置を終えたクレオは寝台に座るセフェリスの隣に腰をかけ、 うつむいて涙を零し続けるセフェリスの髪をいたわるように何度も撫でる。 いつもならクレオにそんなことをされると「あんまり子供扱いしないでよ」と笑うのだが、 今のセフェリスはそうやって怒ることも出来ない。出来るはずがない、 今のセフェリスはおそらくショックのあまり幼児返りの症状を起こしている。つまり、『子供』に限りなく近いのだから。
「ぼっちゃん…お辛いのでしたら、胸につかえていることを私に話してくださいませんか? 誰かに話すだけで、新しいことに気づけたり、自分の気持ちを整理出来たりして、きっと心をなだめられます。だから、どうか……」
出来る限りの慈しみを込め語りかけるが、セフェリスはなかなか口を開こうとしない。 その心情を察したクレオは、セフェリスのグレミオへの気持ちはうすうすと感づいているのだと… 自分になら話しても大丈夫なのだと伝えたくて、身を切られるほどの思いを抱きながらも告げた。
「……知ってしまわれたのですね。…テオさまと、グレミオのことを……」
クレオはとうの昔に彼らが深い関係にあることに気づいていた。おそらくパーンもそうだろう。 テオの定めたマクドール・コードは、今やセフェリスの為だけに存在しているようなものだった。 そしてこうなってしまった以上、もはやコードの意味は完全に失われたと言っていい。
「とても、ショックでしたよね……ぼっちゃんは…グレミオのことが本当に大好きでしたから……」
するとセフェリスはこくこくと頷いて、ようやく重い口を開き、たどたどしく言葉を紡ぎ始めた。
「うん……ぼく…は……ぼくはね、グレミオが…好き。ほんの少しも離れていたくないくらい大好き。 ずっとずっと、昔からずっと、そうだったよ」
「ええ、存じています」
一旦扉が開いてしまうと言葉は次々と溢れてきた。幼児返りしたままの口調で、時折つかえながらも、まっすぐな想いを吐露していく。
「でも……たった今、やっと気づいたの。ぼくは、グレミオを愛してる。 父さんとグレミオがああしてるのを直に見て、ようやく思い知ったの…… ぼくは…グレミオに愛されたい。グレミオに抱かれたくてたまらないの」
クレオは大して動じなかった。思春期なのですから、それは当たり前の感情。当然の衝動ですよ…… そう口にしようとして、即座に思い留まった。そんな言葉、何の慰めにもなりはしない。いたずらにセフェリスの心を閉ざすだけだ。
「グレミオになら何されてもいい。ぼくの小指を切り落としてプレゼントしたってかまわないよ……?」
犯されても、殺されてもかまわない。それでグレミオが自分のことを少しでも見てくれるのなら、自分は罪人にだってなれる。
「でも、グレミオの心は……ぼくのものじゃ…ない……見えた。全部聞こえた… グレミオは父さんとキスをして、『テオさま、あなたを愛しています』って……ひっ、う…っく…それ、でっ……」
「大丈夫。安心して続けてください。無理はしないで…」
息を何度も詰まらせるセフェリスの背を、クレオは繰り返しさすりながら優しく促してやった。 呼吸ひとつすら苦しくてたまらないのに、それでも言葉は途切れることなく溢れてくる。
「それ、で…それでね、グレミオは父さんに何回もキスをして、裸になって、父さんの身体中を舐めて…… だめ、ぼくにも……して欲しいって、思っちゃって、…どきどきして、ぼく、あそこに手が伸びて…止められ…なくてっ…」
「大丈夫です。大丈夫ですから…ぼっちゃん、落ち着いて深呼吸を」
クレオの労りの声すらもだんだんと聞こえなくなりつつある。セフェリスは己が次第に錯乱していくのを頭の隅で自覚していたが、 どうしようもできなかった。吐かなければ狂ってしまう。全部吐ききるまでもう止まらない。
「わかってる、グレミオは、父さんのものだった……でも、…でもっ…ぼくにもいっぱいさわって欲しいの、 もっと抱き締めていて欲しいの。声が欲しいの、髪を撫でて欲しいの、グレミオの腕、グレミオ…の声、グレミオの、 ここ…ろ……欲しいの、全部……!」
グレミオへの想いが重すぎて、その自重によってセフェリスの精神は押し潰されかけていた。 圧死寸前の激痛に耐えかね、苦しみもがきながら救いを乞う。だがいくら救いを願おうとも神は人の祈りになど耳を貸しはしないし、 セフェリスが傍にいて欲しいと切に愛しむ彼は今もなお父の腕に抱かれている。
「…たすけて……肺がじくじくする……心臓がはじけそうで……喉の奥が…すごく痛い……たすけて……たす…け……」
「……ぼっちゃん…っ」
とうとうクレオはいたたまれなくなり、セフェリスの身体を己の腕の中に抱き込んだ。 そうすれば胸元から喘鳴と共に弱弱しい声音が直に伝わってくる。
「たすけて……グレ…ミオ……グレミオ…グレミオ」
クレオは鼻先に力を込めて涙を堪え、揺れそうな声でセフェリスに語りかけた。 もはや自分の声など届いていないと分かっている、それでも言わずにはいられなかった。
「ぼっちゃん。思いっきり、声をあげて泣いてください。きっとそれが一番です。 涙が全部枯れるまで…どうか、泣いてください。クレオがずっと抱き締めていてあげますから……」
「…グレミオ……グレミオ…グレミオ、グレミオ、グレミオ…ぅ…あ…あああぁっ…!!」
むせび泣くセフェリスを、クレオはいっそう力を込めて掻き抱いた。泣き声がテオたちに聞こえてしまうかもしれないが、 それでもかまわないと思った。クレオの胸中には憎しみにも似たもどかしさが満ちていた。 誰に対してでもなく、ただ、この現状が憎らしくて、苦々しくて。 小さな心を無残にも八つ裂きにされたセフェリスが、あまりにも哀れで。
これは避けては通れない道だった。セフェリスが大人になる為に必要なことだった。 そう思わなければ……必死にそう言い聞かせ続けなければ、やりきれない。



翌日の朝食時、食堂にセフェリスは姿を見せなかった。配膳を行うグレミオは、見ている方が辛くなるほどに落ち着きを失っている。 セフェリスを起すのは彼の役目だが、今よりちょうど数十分前、少年の部屋に入ったグレミオを待っていたのは『拒絶』の一言に尽きた。
セフェリスは布団を頭まで被り、食事は要らないと頑なに顔を見せようとしなかった。 グレミオはセフェリスを切に心配し、何度も語りかけた。ご気分がすぐれないのですか?何か嫌なことがあったのですか?と 繰り返し尋ねるが、セフェリスはだんまりを通すだけ。 それでもグレミオはセフェリスが心を開いてくれるのを信じて辛抱強く待ち続けた。
過去にこのような事例が一度も無かったというわけではない。 もっと幼かった頃はこうやって拗ねることでグレミオの気を惹こうとすることが稀にあった。 今回もそうなのだろうかとグレミオは考える、しかしセフェリスはもう13歳になったのだから、 単にしばらく放っておいて欲しいだけなのかもしれない……そう思いながらも、 セフェリスを一人にするのはためらわれた。長年セフェリスに付き添ってきたグレミオの、一種の勘のようなものだ。
しかし時は止まりなどしない。朝食の時刻が迫っていた、テオをはじめとするマクドール家の皆を待たせることは許されないはず。 それなのにグレミオはベッドの傍に立ちすくんで、セフェリスが起きてくれるのをひたすらに待っている。
いつまでも離れないグレミオの気配にセフェリスの焦燥は頂点に達した。 まるで中途半端な愛情を与えられているようで、おこぼれのような慈しみに包まれているようで、 空しいだけの歓喜の念と耐えがたい惨めさに苛まれて気が狂いそうだった。
もう朝食の準備を始めないと、スケジュールが遅れてしまうだろう?ぼくのせいで、父さんに怒られてしまうだろう…? セフェリスの瞳に、枯れたはずの涙がまた滲んでくる。これ以上この状況が続いたら、たぶんセフェリスは泣き出してしまう。 ひとしずくでも零してしまったら、嗚咽をあげて泣いてしまう。それだけは矜持が許さなかった。
―――大嫌い!もう、ぼくなんか放っておいて…!
限界を迎えたセフェリスはそう叫びながら一気に布団を払いのけ、渾身の眼力でグレミオを睨みつけながら、 癇癪を起した幼児のように彼が手にしていた洗面器を叩き落とした。ガチャン、と音をたてて洗面器はひっくり返り、 温かい湯が床を滑っていく。そのときグレミオははっきりと見てしまった、セフェリスの眼窩に刻まれた青黒いくまと、 真っ赤になってしまった瞳、痛々しく腫れ上がったまぶたを。
「…………あ、っ」
グレミオは、スープをよそおうとして手に取った木製の小器をテーブルの上に取り落してしまった。 彼らしくないケアレスミスだ。もう一度左手で器を取るが、ほんの僅かだけ、手が小刻みに痙攣している。 テオはちらとグレミオを見やり、すぐに視線を外す。他の二人も見て見ぬふりをした。
終始、重苦しい空気での朝食だった。グレミオは酷くふさぎ込んだ様子で、パーンはずっと険しい顔のまま、 クレオとテオは無表情を保っていた。そして食事が終わり、グレミオがひととおり食器を回収した頃、 クレオは静かな面持ちのなかに強い感情を秘めてテオを真っ直ぐに見据え、具申の意思を伝えた。
「……テオさま。そして…グレミオも。少し折り入ってお話ししたいことがあります……」
その言葉を受け、グレミオはうつむいて瞑目した。一方テオの様子にはさほど変化が見られなかったが、 クレオのように長く部下を務める人間には察することが出来た。テオのまとう空気は確かに変わった。 それはさんさんと輝く太陽に薄雲がかかり、ほんの少し光が陰る、その様子に例えられよう……



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