セフェリスは小さな頃から、グレミオに抱き締めてもらうのが大好きだった。 ぐずって泣いてしまったときや、ひと肌が恋しくてたまらないとき、グレミオはよくセフェリスを優しく抱き締めてくれた。 そうするとぴたりと涙は止まって、心から安心することができた。グレミオの胸の中は居心地が良すぎて、 つい何度も抱擁をねだってしまうのだった。 あまりにもくっついているものだから、時折グレミオは 「テオさまが嫉妬なさいますよ?父親である自分にはなかなか甘えてきてくれないのだと、よく私に愚痴を零されるのです」 と困ったようにセフェリスをたしなめた。それでも不思議とセフェリスはグレミオから離れられなかった。 夜だけは事前に約束をしておかないとグレミオの部屋に行けない決まりだったから、さすがにセフェリスも我慢するしかなかったが、 そんな日もグレミオの身体の温かさを思い出すだけで安らかに眠りにつけた。 成長して背が伸びて、セフェリスはつい先日13歳になったばかり。滅多に泣かなくなったし精神的にも自立し始めた。 だから抱き締めてもらう機会も日に日に少なくなっていったが、 グレミオに包まれる心地良さだけはセフェリスの根底に染みついて消えることは無かった。 思い出はいつだって優しかった。変わったことといえばひとつだけ、最近グレミオの体温を思い出すと、 原因の判らない不安感に襲われて心臓がどきどきしてしまうことだけ。 『ぼっちゃんはグレミオがお守りします。だからお傍にいさせてください』 耳元でグレミオが囁きながら、自分を抱き締めてくれている。久しぶりの抱擁は腰が抜けてしまいそうなほど甘く、 セフェリスは幸せの絶頂にいた。いつだってグレミオは自分の傍にいてくれる。 いつだって自分を見てくれているのだと、そう信じ切っていた。だけど…… 『ぼっちゃんは必ずグレミオがお守りします。だから…どうか、私のすることを許してください』 その言葉と共にグレミオは離れていった。失われたぬくもり、セフェリスが戸惑いに目を見開く。 漆黒の闇の中、青年はこちらに背を向けて歩き出してしまった。なぜ?どうして…? あまりに急な別れにセフェリスは数瞬ほど呆然とし、そして独りきりの冷たさに芯まで凍えた。 身体が冷えて、心も魂も冷え切って、恐ろしいほどの喪失感に押し潰されて瞳からは涙が溢れ出して止まらなかった。 待ってグレミオ、お願い待って!セフェリスは後姿を追いかける、置いてかないで、独りにしないで、 いつしか泣き喚きながらなりふりかまわず追いかけていた。それなのにグレミオの背中との距離は一向に縮まらなくて…… そして気づいた。何かが、二人を隔てている。透明な見えない壁のようなもの。これは何? 更に新たな異変をセフェリスは察する。グレミオの髪、肩、手足、それらの輪郭がじわりと滲み、 背景の闇と同化するように少しずつ黒色に塗り潰されていく。 そう、グレミオは今、『消えている』のだ。それは砂の城が風に吹かれて崩れていくさまに似ていた。 セフェリスはさながら天啓を受けたように確信していた、このまま消えてしまえばもう二度と会えなくなるのだということを。 彼の存在そのものが、無くなってしまうのだということを。誰よりも大切で誰よりも大好きなグレミオがいなくなってしまう。 もう髪を撫でてもらえない、もう抱き締めてくれない、声も聴けない、笑顔も視れない。 彼とともに紡いでいくはずの未来が一切合切奪われる。これ以上の恐怖が、この世にあるだろうか…? セフェリスはガタガタと震えながら呼吸も出来ず、まばたきも許されず、 涙で霞んだ目で大切な人が消えていくのをなす術もなく見届けることしか出来なくて…… グレミオの最後の断片が完全に闇に溶けるその刹那、セフェリスは己の絶叫を聞くと同時に本来の世界へと回帰した。 ―――この扉を、開けて…っ!! 自らの大声でハッと目が覚めた。はずみでセフェリスは上体を起し、掛布団を握りしめて荒い呼吸を繰り返す。 「……ゆ、め…?」 明かりの無い真っ暗な空間だが、夢から醒められたことは確かなようだ。ちゃんと自分の部屋だと判るし五感もはっきりしてきた。 強張った全身からは大量の汗が噴き出していて、夜着がびしょびしょに濡れてしまっている。 頬にも涙が幾筋も流れていた。口の中がほのかに塩辛い、汗が入ってしまったのか、あるいは涙か。 「…ひどい…夢……」 何年振りだろうか、ここまで強烈な悪夢を見たのは。夢だと解っても安堵感を覚えることは無かった。 だって全然涙が止まらない、それほどまでに壮絶な悪夢だった。グレミオを失うという漠然とした恐怖は、 いまだ心に沈んでべっとりとこびりついて不気味に蠢いている。 身体が小刻みに震えてきた。汗が冷えたからだろうか。…否、夢の余韻の所為だ。間を置かずして恐怖は不安感に変わった。 不安で胸が張り裂けそうになって、やがて不安感は抑えがたい恋しさに変化した。グレミオの温かさが、今はただひたすらに恋しかった。 グレミオの顔が見たい、笑顔を見て安心したい、今すぐに。ベッドから降りようとして、しかしセフェリスはぴたりと動きを止めた。 深夜に無断でグレミオの部屋を訪れるのは、父の定めた規則に反するからだ。 幼い頃…確か、6、7歳くらいの時だったと思う。今日みたいに酷い悪夢を見てしまったセフェリスは、 独りきりの恐怖に耐えきれず真夜中にグレミオの部屋に向かってしまった。 ドアの前で泣き叫んで、驚いたグレミオによって助けられ、その晩は添い寝をさせてもらった。 あのときは後で事実を知ったテオに厳しい叱責を受けた、そのことはまだよく記憶に残っている。 マクドール家の嫡男たるもの、やすやすと決まりを破ってはいけない。自分はもう幼い子供ではない。 悪夢の恐怖くらい、打ち勝てなくてどうするというのだ。セフェリスはそう何度も自分に言い聞かせ、 横になって布団を被りなおした。しかし、いつまで経っても眠れる予兆は訪れなかった。 目を閉じるのが恐ろしい。現実世界からシャットアウトされたその瞬間に、悪夢の続きを見てしまいそうだったからだ。 セフェリスはもともとの体質なのか、普段悪夢を見ることはほとんど無い。 それゆえに、いざという時の耐性に乏しかった。どうしたらいいのかわからなかった。ただ、切にグレミオに会いたかった。 「……グレミオ、グレミオ…助けて……っ」 一緒に眠れなくてもいい、たった一瞬だけでもいい、一目だけ、一目だけ会いたい…!たとえ父に叱られようと、たとえ殴られようと、 この衝動を抑えることなんて出来るはずがない。いてもたってもいられなくて、再び身体を起こす。 「そう…だ、父さん……!」 セフェリスはふと気づいた。テオに直接、グレミオの部屋に行きたいと懇願してはどうだろうか? 却下されるかもしれないが、自分の気持ちをちゃんと伝えよう。そうすれば、一緒に寝させてもらえなくとも、 少しだけ顔を見るくらいは許してもらえるかもしれない……。 組み立てた方程式と導き出した結論は到底理性的なものとは言えなかったが、 グレミオへの思慕だけで満たされた身体を動かすには十分だった。部屋の鍵を解除し、ゆっくりとドアを開けようとする。 しかしほとんど開けないうちに手が止まった、暗いはずの廊下に、ちらりと光が見えたからだ。 (何?…今の光……) 僅かにためらったが、ドアノブを握りしめて慎重にドアを開ける。問題の光は、どうやら手持ちランプの明かりのようだ。 それは既にセフェリスの部屋の前を通り過ぎており、一階に続く階段へと向かっている。 明かりに照らされたランプの持ち主は、セフェリスが今から会いに行こうとしていたテオ・マクドールその人だった。 (…父、さん……?) 水でも飲みに行くのだろうかとセフェリスは思った。足音を立てぬよう、気配を殺して慎重にテオの後をついていく。 父に用件があるのだからすぐに声を掛ければいいものだが、セフェリスには出来なかった。 見つかってはいけない、そんな強迫観念を本能的に感じていたからだ。 よく原因のわからない不快感があった。濡れた服が冷えて寒いからだろうかと思ったが違う、もっと漠然としたものだ。 不安が増幅した何かが胸の中でざわざわしている。そしてその理由の一角を、ほどなくしてセフェリスは知った。 テオはセフェリスが予想だにしない行為に出た。てっきり厨房に向かうものだと思っていたが、 テオが立ち止ったのは厨房の向かい側、グレミオの部屋の前。軽くノックをし、合鍵らしきものでドアを開けて中に入って行ってしまった。 (……え………?) セフェリスは呆然となった。『夜に他の家族の部屋を訪れる場合は、必ずその旨を夕食時に伝えること』… 今夜テオはグレミオに何も言っていない。それどころか、今までそんな場面を見た記憶はついぞ一度もない。 コードを定めた張本人がコードを破る瞬間を見てしまった。それは、セフェリスが信じていた世界が根底から崩落した瞬間でもあった。 僅かに明かりが漏れてくるドアの前にふらふらと歩み寄りながら、知恵の輪をひとつずつ外していくように、 セフェリスの頭の中で崩壊した世界が再構築されつつあった。 こんな時間に部屋に二人きりでいる―――そんな状況で大の大人がすることなど限られている。 思春期に足を踏み入れた、歳若く多感なセフェリスが真っ先に予想した解答は、少年が一番信じたくなかった結論。 その答にだけは辿り着きたくなかった。しかしこれこそがマクドール・コードの生まれた理由なのだとしたら、 すべてのつじつまがぴたりと符合してしまう。 嘘だ、とセフェリスは心の中で叫んだ。信じたくなかった……ずっと父が自分に嘘をついていたことではなく、 ずっと騙されていたということでもなく、セフェリスが信じたくなかったのは、ただ。 (…うそ……だよね?…グレミオ……) ひやりとしたドアに触れ、セフェリスは足を震わせながら立ち尽くす。グレミオの部屋は広くはない、 二人の会話らしき声もぼそぼそと伝わってくる。ゆっくりと、ドアに耳を押し当てると、はっきりと内容を聞き取ることが出来た。 『あの……明かりを消してもいいですか?』 『駄目だ、このままで。今日はおまえの顔をちゃんと見たい……』 ここで会話はぷつりと途切れた。何を、いったい何をしているのだろう?セフェリスは気になって仕方なかった。 決して好奇心ではない。怖いもの見たさなどという生易しいものでもない。 セフェリスの体内でとぐろを巻く蛇がしきりに囁いてくる、アダムとイヴをそそのかした蛇の甘い誘惑のように。 手を伸ばす先にあるのは、原罪の果実であることくらい、セフェリスには分かっていただろうに。 (グレミオ……うそ、だ…よね……?) 今ぞみなを知らん―――セフェリスは、鍵穴の僅かな隙間から室内をうかがった。小さな小さな隙間から、よく、…見えた。 それはセフェリスがある程度は予想していた光景で、しかしその覚悟をも打ち砕くほどの光景で。 グレミオは、テオのキスを恍惚と受け容れていた。自分には絶対してくれない、深くて激しい情熱的な口づけ…… (………、………) それはほんのひと刹那だったのかもしれない。あるいは、数分にも渡っていたのかもしれない。 セフェリスがふっとまばたきをした時、二人は唇を僅かばかり離し、至近距離で見つめ合っていた。 そして次の瞬間のグレミオの言霊が、セフェリスの頭にいつまでもいつまでも残響を繰り返し、 少年の心を修復不可能になるまで引き裂き続けることになるのだった。 or 目次に戻る? |