triangle:三角関係(の男女)。

セフェリスの育ったマクドール家には、いくつかの決まり事があった。
誰かの部屋に入る際は、ノックをすること。
夜に他の家族の部屋を訪れる場合は、必ずその旨を夕食時に伝えること。
就寝時には、部屋の鍵をしっかりとかけること。
セフェリスの実父でありマクドール家の長であるテオは、その理由を『プライバシーの保護』と説いた。 このコード(code:規定…と言うには少々大げさだが、ここではコードと表すことにする)が、 一体いつ決められたのか、セフェリスはもう覚えていない。 しかし小さな頃からそう教育されてきたため、一度たりとも疑うことなくこれらの決まりをほぼ忠実に守っていた。
厳密に言えば、これが明確に定められたのはセフェリスが4歳のとき。 ちょうど、グレミオが使用人としてマクドール家にやってきた頃と一致する。
マクドール・コードが生まれた理由、それはまさにプライバシー保護のため。 そして厳密には、『テオとグレミオの』プライバシーを守るため。二人の恋と、二人の名誉を守るためのものだった。 その真実をセフェリスが悟るには、彼が思春期まで成長するのを待たねばならなかった。



それはセフェリスが11歳のみぎりのとある日、テオが遠征より帰還した夜。 テオ、セフェリス、クレオ、パーン、グレミオと、久しぶりに5人揃っての夕餉だ。 貴重な円居は楽しく過ぎゆき、初夏の木漏れ日のように暖かな、笑顔に満ちた団欒だった。
グレミオは食後酒のボトルのコルクを外し、テオの脇に立ち、グラスへと注ぐ。 その際にテオはグレミオに小さな物をさっと手渡した。その仕草はあまりにも自然すぎて、 おそらくよほど注意深く見なければ誰も気づかないだろう。グレミオに渡されたものは、テオの部屋の合鍵。 それは今晩逢瀬を交わそうという意味の、二人の間の合図だった。
グレミオは表情こそポーカーフェイスを保っていたが、心を奮わせながら周囲に気取られないよう鍵をポケットにしまった。 そして何事も無かったように、各自の席を回る。セフェリスのグラスにオレンジジュースを注いだとき、 少年はグレミオの袖を軽く引きながら無邪気な声でお願いをした。
「ねえグレミオ、今日も一緒に寝てもいいかな」
するとグレミオは困ったような微笑を浮べる。あいにく今晩は先約が入ってしまった、心苦しいが断るしかない。
「申し訳ありません、ぼっちゃん……お裁縫が溜まってしまっているんです。早く片付けてしまわないと。 ぼっちゃんやテオさまにほつれたお洋服など着せられませんから……今晩は我慢してください、ね?」
「……ん、わかった…」
セフェリスはどうにか頷いてみせる、が、淋しさを隠しきれていないのは一目瞭然。 グレミオの胸は、罪悪感の所為かズキンと痛む。セフェリスのいまだ未発達な身体を両の腕で包み込みたくなる衝動をグレミオはどうにか堪え、 免罪符を乞うようにひとつの提案をした。
「じゃあ、ぼっちゃんが眠れるまではお部屋でご一緒しましょう。それでいいですか?」
「…ホント?」
「ただし、夜更かしはダメですよ。それだけお約束出来ますか?」
「うん!ありがとうグレミオっ!」
ぱあっと表情が明るくなったセフェリスの髪をグレミオは微笑みながら優しく撫でて、早く寝るようにね、と念を押す。 上機嫌になったセフェリスは何の疑念も抱かずに頷いた。その様子を、テオはどのような思いで見ていたのか……



夜も更けてきた。10時を過ぎた頃、セフェリスを寝かしつけたグレミオはその足でテオの部屋へと向かう。 手渡された鍵でドアを開け、静かに入室した。ベッドサイドとデスクにある二つのランプが煌々と、 革張りのデスクチェアに座って読み物をするテオの姿を照らしている。
「……テオさま、遅くなってしまい申し訳ございません」
テオは直ぐにグレミオに気づき、本を片してデスク上のランプを消した。広々としたベッドの脇、 備え付けのランプの傍に腰を下ろすと、グレミオもテオの隣に寄り添ってくる。
「いや、私はかまわん。それよりも毎回セフェリスへの言い訳を考えるのも大変そうだな」
今日のようにテオとセフェリスのアポが被ってしまうことは時折ある。セフェリスがとにかく頻繁にグレミオの部屋に行きたがるからだ。 手塩にかけて育てたセフェリスに好かれているのは純粋に嬉しいが、断り文句を選ぶのに困るのは事実。グレミオはつい苦笑を浮かべた。
「うーん…でも仕方ありませんね。ぼっちゃんは人恋しいのです。嘘をつくのは、罪悪感との戦いですけど……」
いつまでも隠し通せるつもりではいない。グレミオは、いつかはセフェリスにテオとの関係を話さなければならないと考えている。 ただ今はまだ尚早だと感じるだけだ。セフェリスがもっと成長し、事実を受け入れられるだけの準備を整えてから、ちゃんと伝えようと思う。
「だがあいつはじきに12になる。いつまでもおまえにべったりでは……特におまえといるときはすっかり心が幼くなってしまっているようだ」
あと2、3年もすれば、セフェリスも一人前と世間に見なされることになる。 由緒あるマクドール家の嫡男として相応しい帝国軍人とならねばならない。テオの心配も当然だろう。 しかしグレミオには、セフェリスを突き放すことが出来ない。それが何故なのか、グレミオ自身よく解っていないのだが。
「たぶん…テオさまが滅多にお戻りになられないからですよ。きっと淋しいのでしょう」
真意の見えないグレミオの言葉に、テオは床を射抜くように見つめながら神妙な顔でしばし沈黙し、そして失笑した。
「………そうか。確かに私の責任でもあるな。父親に甘えられない分を、おまえで埋め合わせているのかもしれん」
…しかし、と、テオは逆接語を使い…再び黙り込んだ。テオの重厚な表情からは何も読み取れない。 グレミオは不安げに顔を覗き込み、声を掛けた。
「テオさま…?」
視線に気づいたテオはふとグレミオの顔を見やり、どこか安堵したように微笑んで、そのまま話題を断った。
「いや。……おまえにも随分と淋しい思いをさせている。許してくれ」
「…その言葉は、どうかぼっちゃんに言ってあげてください。私なら大丈夫ですから……」
グレミオも柔らかく微笑み返す。しかし翠の瞳に僅かに帯びた色、その機微たる変化をテオは見逃さなかった。
「相変わらずおまえは嘘が下手だ」
テオはグレミオの頭と肩を掴み、強引にベッドの上に押し倒した。グレミオの下ろした長い金髪が、 白いシーツの上に幾筋もの滝のように流れゆく。
「生憎と私はセフェリスのように純粋ではない。欺くのならもっと上手くやれ……そんな目をされたら、 おまえを壊れるまで掻き乱してしまいたくなる」
テオの低い声を聴きながら、グレミオは獅子に喉笛を食い千切られる直前のインパラのような恐怖を覚えた。 生命の危機を感じるほどの恐怖が脊椎を駆け抜けて、全身が高揚する。心臓が激しく拍動し、呼吸は乱れ…… うっとりとした微笑みが自然とその相貌に浮かんだ。
「どうか……お望みのまま壊してくださ…、っん……ぅ」
最後まで言うことは叶わず、言葉はテオの唇に押さえつけられ飲み干された。 口づけに心奪われているグレミオの腰をしきりにさすりながら、テオの脳裏にふっと一抹の不安がよぎる。
(セフェリスは、本当によくグレミオに懐いている……単なる母に甘える子供の感情に過ぎないのならば良い…が…)
しかしそれも一瞬で、テオもまた思考を放棄し、熱情に総てを委ねた。
長い夜は、始まったばかり―――



「点の創成2」に進む?
 or 
目次に戻る?