7.辿り着いた最果て

力尽きて深い眠りに落ちているセフェリスの寝顔を飽くことなく見つめながら、グレミオは静かに寄り添う。 黒髪をそっと梳いても、滑らかな頬を優しく撫でても少年は身じろぎひとつしない。 待ち受ける現実はとても冷たいから、今しばらくは温かな夢の中をたゆたっていて欲しかった。
夜中だというのに、カンカンカン、と外から非常事態を告げる鐘が鳴り続けている。 おそらくは、テオを殺害した犯人を近衛隊が探しているのだろう。 帝国将軍の死など滅多に無い重大事件だ、随所に検閲を設け、捜索も大規模なものになるだろう。 グレミオには分かっていた、もはや逃げ切ることは出来ないと。
「…大丈夫ですよ、ぼっちゃん……何があっても、私がお守りしますから……」
子守唄を歌うようにセフェリスへと語りかけるグレミオ。何を引き換えにしても、この少年を護りたい。 菩薩のように淡く微笑みながら、グレミオはひとつの決意を固めた。
「ねえ、ぼっちゃん…この身を奴隷に落とされてから、苦しいばかりの人生でしたけど…… そんな中で、あなたと巡り合えたことが、私にとって一番の幸福だったんです……」
眠るセフェリスに向け、ありったけの愛しさを込めて告げる。薄く開かれた唇に、触れるだけの接吻を贈った。
「ありがとうございます…ぼっちゃん。……そして…ごめんなさい……」
やがてグレミオは名残惜しげにベッドを下り、着衣を整えた。 床に落ちているセフェリスのバンダナを手に取って入り口へと向かい、一度だけ振り返り、そのまま部屋を出る。
ひと気の無い宿の廊下を経て屋外へ達すると、街のあちこちにかがり火が焚かれ、近衛兵がものものしく動き回っていた。 グレミオが静かに歩み寄れば彼らのうちの数人がこちらに気づき、鋭い声をあげる。
「貴様、何者だ!」
駆け寄ってくる近衛兵達に向けてグレミオは軽く頭を下げると、正直に名乗った。
「マクドール家の奴隷、グレミオと申します」
すると彼らは意外そうに顔を見合わせる。 どうやらグレミオがセフェリスと共に逃げたことはまだ周知されていないようだ。
「奴隷か。マクドール家の……」
「ならばセフェリス・マクドールの行方に心当たりは無いか?テオ将軍の殺害に関与している疑いがある」
「いいえ。犯人は私です」
淀みなく、静謐な声音でグレミオは告げた。先ほど部屋から持ち出したセフェリスのバンダナを近衛兵に見せつけて。
「……なんだと?」
心の中で誓いを立て、自らを贄とする。セフェリスをも犠牲者に仕立て上げることで、 少年に降りかかるべき火の粉をグレミオは総て我が身で受け止めた。
「私はこの手で、主であるテオさまを殺め、御子息を拉致し、強姦しました……」
…大丈夫。ぼっちゃん、あなただけは必ず私がお守りします―――



その後グレミオは近衛隊によって独房へ連行され、手足に拘束具を付けられて吊るされた。 始まったのは尋問とは名ばかりの唯の暴行。奴隷に人権は無く、必要であれば拷問も許される。 責められながらグレミオは殺害動機をこう述べた、以前よりセフェリスに欲情しており、 姦淫に及ぶうえで邪魔となったテオを殺したのだと。
しかしセフェリスを何処に拉致したのかについては頑なに供述を拒んだ。 サディスティックな衛兵達がどんなに嬲ろうといたぶろうとグレミオは黙秘を貫いた。 全身が腫れ上がるほど打ち据えられても、爪という爪をペンチで剥がされても。 遂には真っ赤に焼けた鉄棒で片目を潰されても決して口を割ることはなく、 彼らもこれ以上の尋問は無駄だと判断せざるを得なかった。
「……奴隷のくせに強情な奴だ。これほどの拷問を受けながら、結局監禁場所を吐かなかったそうだが?」
先ほどまでグレミオを痛めつけていた兵とは異なる声が耳に届き、グレミオが薄目を開ける。 身なりが良く背の高い男が火の灯るたいまつを手に立っていた。推察するに上官クラスの人物かと思われる。
「おまえが持っていたバンダナ。確かにセフェリス・マクドールが身に着けていたものに間違いないそうだ。 こうして犯人が判明した以上、帝都の民の為にも速やかに刑は執行されるべきとの決定が下された。 明朝、おまえは広場にて火刑に処される。テオ将軍は火傷で息絶えたとのことだからな」
グレミオの反応は微塵も無かった。責め苦に疲れ果てていたからではなく、ただ何も感じなかっただけのこと。
「少々古典的だが、奴隷を罰するには『目には目を』というわけだ。 …それから、おまえの罪状の一つに『強姦罪』があったようだな? これ関しては今からこの場で処刑を行わせてもらう。二度とそんな悪事など企むことが出来ぬように……」
傍に控えた兵が嗜虐的な表情で大振りのナイフを手に取る。上官が持ってきたたいまつは、 おそらく失血死を防ぐよう傷口を焼くために用意されたのだろう。それでもグレミオは眉ひとつ動かさなかった。
信念というのは恐ろしいものだ、とグレミオはまるで他人事のように思う。 信じたものの為ならば何も怖くなかった。たとえ一生セフェリスを愛せない身体になったとしても、 もう彼と触れ合うことは決して無いのだから……



『何があっても、あなただけは生き延びて。それが母さんの、最後の願い……』
頑丈な丸太に縛り付けられた躯。足元に積み上げられる多量の薪。 集まってきた民衆に向け罪状を読み上げる兵士の声。着々と火刑の準備が進むなか、 グレミオは母の別れ際の言葉をふいに思い出した。どんなに辛い目に遭っても、あの言葉を支えとして生き続けてきた。 自らの命を絶つことは母の願いを裏切ることになるのだと、そう信じて。
(ごめんなさい、母さん……私は、私の命以上に、大切なものを見つけてしまったんです……)
拷問等で受けた傷がしきりに痛むがグレミオの表情は至極穏やかだった。この程度の痛みなんて、 きっとすぐにどうでもよくなってしまうだろうから。もうすぐ苦しみの無い世界に行ける。 きっと母も待っていてくれるはず。ただ、唯一心残りなのが、宿に置き去りにしてしまった最愛の少年だった。
セフェリスはもう目覚めただろうか。いなくなった自分を必死に探し回るだろうか。 起きていないことを祈る、セフェリスだけには見られたくなかったから。 そして届くことは無いと分かっていながらも、想い人に向けて語りかけずにはいられなかった。
「ぼっちゃん、哀しまないでくださいね。私はどんな姿になっても、あなたの傍にいますから…… ずっと見守っていますから……」
そこまで口にして、グレミオは軽い違和感を覚える。不思議な懐かしさを感じた。 この言葉の響き、昔どこかで耳にしたような。そして答えは直ぐに出た。
…母だ。母は自分に言い聞かせてくれた。死は本当の別れではないのよ、見えなくても近くにいるから、 淋しくなんてないのよ、と……でも、残される身にとっては、そんな言葉…実際は何の慰めにもならなかったのではなかったか…?
形の失った愛を感じることは霧を掴むほどに困難なこと。死んでしまったら最後、 どんなに耳を澄ましても声なんて聞こえないし、姿も見えない。抱き締めてもらうなど夢のまた夢。 思い出だけにすがり虚像のみを抱く日々、両親がいなくなった後、 セフェリスと触れ合うまで独りは淋しくてたまらなかった。
「……あぁ……母さん…ぼっちゃん……私、は………」
愛別離苦による孤独感には果てが無く、何年も何年も繰り返し打ちひしがれながら、 なぜあんな無責任なことを死ぬ前に口走ったのだと、幾度母を呪ったことか…!
「…私…は……本当に…本当に愚かですね……今の今まで気づかなかったなんて…… 母さんと同じ過ちを、私は犯してしまう……」
かつての己のように独りぼっちで残されるセフェリスのことを思うだけで、烈しい後悔がグレミオを苛む。 やはりセフェリスと共に捕まり、共に処刑される方が良かった? でもセフェリスだけは死なせたくない、じゃあセフェリスを孤独という牢獄に閉じ込める方がましだと、 自分は本当にそう思ったのか?結局自分はどうすればよかった?…解らない。もう何も、解らない……
処刑人がグレミオの足元に積まれた薪に火を灯すと、その薪に点いた火は瞬く間に燃え広がって炎を育む。 グレミオは遂に落涙した、恐怖から生まれた涙だ。徐々に迫り来る灼熱、 グレミオの心は圧倒的な恐怖に支配されて、今にも心臓を突き破りそうなほどにそれは増幅していった。
「どうしよう、死にたく…ない……こんなところで死にたくない……ずっとぼっちゃんの隣にいたい…… ずっとぼっちゃんを抱き締めていてあげたい…のに……」
処刑人たちが火をあおいで一気に火勢を強める。止まらない涙など止まらない火炎の前ではあまりにも無力だった。 ただ叶わない祈りをひたすら繰り返すことしか出来ない。神にすがって天を仰げば、 今にも泣きだしそうな曇天がグレミオを静かに見下ろしていた。
「死にたくない…死にたくない……ぼっちゃんに…逢いたい……逢いたいよぉ……!」
ひとつの火柱があがるように全身を紅蓮が包む。霧散する思考力、最後の理性でグレミオは愛しい人を呼ぶ。 けれど口を衝いて出たのは言葉にすらならない獣のような絶叫に過ぎなかった。
火刑の苦しみは言語に絶する。痛みで気絶し、痛みで目覚め、また失神、その繰り返し。 まともな思念を編み出すことも出来ない。徐々に死という暗い淵へと向かうなか、 グレミオの断片は小さな子供がすすり泣く声をずっと聞いていた。
懐かしい声だ。けれど思考を奪われたグレミオには、もはや『懐かしい』と思うことすら叶わなかった。 その子供が誰なのかも判らないままに、やがて彼は最後の意識を閉じる。 こうして彼の戦いは、ひとつの終結を迎えたのだった。


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