5.終わりへと向かう歩み 「ぼくが……結婚!?」 次第に北風の冷たさが身に沁みるようになってきた初冬の某日。夕食後テオによって呼び出されたセフェリスは唐突な話題に耳を疑い、思わず声を荒げてしまった。 セフェリスの拒絶的な反応は予測がついていた為、テオは何食わぬ顔で話を続ける。 「相手はミシェル・シルバーバーグ。おまえもよく知っている相手だ、悪くはないだろう」 「そんな…だってぼくはまだ14歳……」 弱弱しく訴えかける息子に、テオは眉間に皺を寄せ、極めて厳しい言葉を向けた。 「年齢は問題ではない。本当に問題なのは、おまえの心だ。…言われずとも、解っているな?」 「…………」 セフェリスは否応なしに悟った、父は自分達が抱く不義の念に感づいている。 『正しい』道を踏み外したセフェリスを『更生』させようと策をめぐらせた結果が、これなのだ。 「早急に良き日を選び、式を取り行う。これは既に決定された事項だ、覆すことは出来ない」 「……。わかり…ました……父さん……」 如何な理由であろうと、父に逆らうことは許されない。セフェリスは幼い頃からそう教育されてきた。苦い想いで胸を満たし、奥歯を噛み、 拳を握りしめながら辛うじて頷いた。悔しさで涙が滲みそうになるのを懸命に堪える。 彼に焦がれる恋情を総て諦めるだけの強さが欲しいと、切に欲しいと、そう思っていた……この時は、まだ。 「ぼっちゃん、遅くなり申し訳ございません。ご入浴に行かれますか?」 セフェリスが自室に戻ってしばらくすると、いつもよりやや遅いタイミングでグレミオが部屋を訪れてきた。 浴場の支度が整うとセフェリスに知らせに来るのが通例だ。 「…今日は入りたくない」 着替えもせずベッドにうずくまったままのセフェリスは、グレミオに背を向けた状態で思い詰めた一言を零す。 「そうですか…」とほのかに心配の情を込めて応えるグレミオ、青年の声色は昨日と別段変わることもなく、 けれどセフェリスをとりまく状況は悲惨なほど変わってしまった。 「ぼく、ミシェルと婚姻することになったよ」 セフェリスの言葉に対し「それはおめでとうございます」と微かな驚きの情を込めて応えるグレミオ、 青年の声色は昨日と別段変わることもなく…否、普段のセフェリスならば、 聴覚からの情報のみであっても彼の機微な不自然さに気づいたのかもしれない、 単純にセフェリスにはそれを察するだけの余裕が無かっただけのこと。 「ぼっちゃんも一人前になられましたね」 聞きたくもない祝福の言葉、それはセフェリスが予想した通りの反応。しかし次にグレミオが発した想定外の言葉に、 セフェリスは思わず振り向いてしまった。 「これで、私も安心してマクドール家を去ることができます」 「………!?」 絶句したセフェリスは、グレミオのほんの僅かに引きつった微笑を視る。 父は抜かりなく二重の策でもって二人を引き離しにかかったのだ。 セフェリスの行く末を案じる身としては当然のシナリオではあったが。 「先ほどテオさまより正式に解雇処分を言い渡されました。唯一気がかりだったぼっちゃんが身を固められることで、 心置きなくぼっちゃんと離れられます……」 「……グレミオ」 しかし父の策は完全に裏目に出た。 結果として極限まで追い詰められたセフェリスに、この上なく堅固な意志を芽生えさせることになった。 セフェリスはベッドから降り、ゆっくりとグレミオに歩み寄りながら、静かに声をかける。 「本当にそう思ってる?」 「………ええ」 ぎこちなく頷いたグレミオの両肩を、セフェリスはきつく鷲掴みにする。 痛みを感じさせるほどに渾身の力ですがりつき、哀願と思わせるほどに切迫として問い詰めた。 「だったらどうして、そんな泣きそうな顔をしてるの?…ねえお願い、 本当のことを言って?グレミオの本心を教えて?」 「…ぼっちゃん……」 怖いくらいに距離が近い。互いの瞳に互いの顔が映りこんでいるのがはっきりと識別できるほどに近い。 そしてセフェリスの目には、微塵の迷いすら伺えなかった。はっきりと、少年は言い放った。 「ぼくは言えるよ、ぼくは結婚なんてまっぴらだ。ぼくはミシェルを愛していない。 ぼくの熱情は、全部グレミオだけのものだ。離れるなんて、絶対に嫌だ」 「やめて…やめてください」 そんなセフェリスを眼前にして、グレミオの相貌に恐怖が走る。自身の奥底から湧き上がりつつある、 激烈な感情が恐ろしかった。 「おまえ以外の何を失ってもかまわないから」 「それ以上、言ったら」 彼らの背筋を駆け昇る異常な高揚感。それは燃えさかる相手への恋心ゆえか、 あるいは禁忌を破る甘美な罪悪感ゆえか…… 「ぼくと一緒に、この檻から逃げ出そう」 「もう自分を偽れなくなってしまう…!」 そして二人の影が重なり合った瞬間、派手な音をたてて部屋のドアが開け放たれる。 セフェリスが咄嗟に部屋の入り口を見ると、そこには剣を携えたテオが立っていた。 地底から吹き上がるマグマを思わせる凄まじい形相でテオは二人を睨みつけていた。 「父…さん……っ」 「…会話は聴かせてもらった。こんなことになるのだろうとは思ったさ……」 テオは苦々しく呪いの言霊を口にしながら、手にした剣をグレミオへと向ける。 セフェリスの身に戦慄が走った、父は確実にグレミオを殺す気だ。 息が詰まりそうな殺気が渦巻く中、グレミオは覚悟を決めたように静かに目線を伏せた。 「出来るのであれば穏便に済ませたかったが……グレミオ、 やはりおまえは頬に傷を刻んだあの時に引導を渡しておくべきだった。もはや言い逃れは赦されんぞ……」 「やめて父さん!全部ぼくが悪いんだ、グレミオだけは殺さないで!」 セフェリスが悲鳴に近い声で喚き、グレミオとテオの間に割って入り懸命に青年を庇う。 しかしテオは許しを乞う声に耳を貸さず、何の躊躇いも無くセフェリスを横に思い切り突き飛ばした。 「問答無用。邪魔をするな」 「う、うっ……!」 床に強く腰を打ち付けたセフェリスは、衝撃にきしむ骨の痛みも判らず、 ただ恐怖のみを感じ、父が剣を振りかぶるその姿を凝視し、動かない我が身を寸分でも動かそうと必死だ。 けれど父の気迫に圧され、足が言うことをきかない。 「これ以上、我が息子に罪を重ねさせるわけにはいかない」 「…ゃ……いや……!」 絶望的な恐怖がセフェリスを支配していく。それは体内で不気味に渦巻いて、 何倍にも何乗にも増幅し、膨張し、やがて臨界点に達する。身体が熱い。いや、右手の甲が熱い―――! 「取り返しのつかなくなる前に、私のこの手で……!」 「いや…いやああああぁぁ!!」 剣がグレミオを屠ろうとしたまさにその時。耳をつんざくような少年の悲鳴が響くと同時に、 異様な爆音が轟き、白い閃光で視界が奪われた。何が起こったのか判らない。 呆然とするセフェリスとグレミオ、やがて輝きが収まると、目を疑わんばかりの光景を二人は目の当たりにした。 「……テオさま…!」 悲痛な声でグレミオが叫ぶ。テオは先ほどの爆発で全身に酷い火傷を負っていた。 くすぶる煙を立ち上らせながら、力尽き倒れ込む。 「が、はっ……」 「…父……さん…?」 ゆっくりと崩れ落ちる父を、セフェリスは呆然と見つめた。そして気づいてしまった、 手を下したのは他でもない自分なのだと。咄嗟に右手の甲を見る、 そこにあるのは護身用に宿していた火の紋章があった。想いが昂ぶったことで無意識のうちに発動させてしまったのだ。 「そんな…父さん、ぼく…こんな……!」 「テオさま……い、今すぐ医者を呼んでまいります!」 血相を変えて飛び出そうとするグレミオを、テオは鋭い声で制した。 テオにはこの状況を誰にも知られるわけにはいかない理由があった。 「よせ…!グレミオ…セフェリス……早く、一刻も早く…遠くへ逃げるんだ……」 テオは死期を察していた。おそらくもう自分は助からない。…親殺しの罪は極刑に値する、 たとえ貴族であろうとも。テオが最期に出来ることは、最も忌み嫌っていたはずの奴隷に息子を託すことだった。 「グレミオ……セフェリスを、安全なところへ……どうか…頼む……」 息子を助けたい一心で、テオは世の正義に、そして自らの信条に背いた。 その多大なる覚悟を受け止めたグレミオは、力強く頷いた。 「…はい…この命に代えても、必ずぼっちゃんをお守りします……!」 そしてテオは火傷で引きつった腕を懸命に伸ばし、息子の気配を探る。その手をセフェリスはすかさず取った。 「セフェリス…セフェリス……どこだ?…もう、目が見えん……」 「ここだよ、父さん…!」 父を傷つけてしまったショックで激しく震えているセフェリスの両手。 それを宥めようとするかのように、テオはひときわ穏やかな声で語りかけた。 「今まで…辛い思いをさせてきたな……すまなかった……」 「………!」 セフェリスが絶句する。グレミオを殺そうとしたはずの父が、謝罪とともに息子が奴隷を愛することを認めたのだ。 「おまえが望んだ道ならば、私は…それを受け容れよう……運命を恐れず…思うが儘に、往きなさい……セフェリス……」 「…父さ……っ」 テオはセフェリスの罪の意識も、罪そのものさえも、総てを赦した。 父の言葉にセフェリスの瞳から大粒の涙が溢れる。何も言えずただ声を詰まらせるセフェリスを、テオは急かした。 「さあ…もう時間が無い……早く、行け…!」 瞳を閉じて涙を零し切ったセフェリスは、再びまぶたを開けると断腸の想いで父から手を離す。 強い語調で、別れを告げた。 「さようなら……父さん!」 そしてセフェリスとグレミオは部屋を出て行った。遠のく足音とともに緊張の糸が切れたのか、 次第にテオの意識が薄らいでいく。同時に、懐かしい声が聞こえた気がした。 向こうの世界から、誰かが呼んでいるのだろうか。 「まったく…奴隷など買うのではなかったな……オデットよ、やはりセフェリスは…おまえの子だ……」 遠のいてゆく痛み、近づいてくる死神の足音を聞きながら、 テオが皮肉めいた笑みを浮べながら彼岸の彼女へと語りかける。 セフェリスの母でありテオの妻であったオデットの死に関しては、 帝国内でもごく一部の人間しか知らぬ極めて深刻な秘密があった。 彼女は貴族に嫁いだ身でありながら奴隷の男との禁断の愛に身をやつした。 ある夜姦通の現場を目の当たりにしたテオは、妻に裏切られたという事実を直ぐには信じられず、こう問いかけた。 「……おまえはオディールか」 彼女は良く似た別人ではないかと、悪魔がけしかけた黒鳥ではないかとテオはまず疑ったのだ。 しかし妻の瞳には一切の迷いが見られず、このように断言した。 「いいえ、私はオデット。誓いによってあなたの支配から逃れ、空を自由に羽ばたく白鳥、一人の女!」 「……。たとえ私こそが悪魔であろうと、簡単に盃を割らせると思うな……!」 怒り狂ったテオは妻の眼前で奴隷の男を斬り捨てた。しかし妻の心は二度とテオのものにはならず、 彼女は短剣で自らの胸を貫き、男の屍に寄り添うようにして息絶えた。 これこそがテオが抱く奴隷に対する強い嫌悪感の源。 自らの私怨が結果として息子の人生をも狂わせてしまった……とんだ喜劇だとしか言いようが無かった。 「…願わくは、セフェリスが…おまえと同じ結末を迎えぬよう……オデット、共に…祈って……くれ………」 or 目次に戻る? |