3.奴隷とは何か 奴隷って…よくわからない。 違う種族なんだって、みんなは言うけれど。 グレミオはぼくが苛められると怒ってくれた。 ありがとうってお礼を言ったら泣いていた。 やっぱり、奴隷ってよくわからない。 あのときの涙が、なぜかずっと忘れられなくて…… グレミオがセフェリスの付き人となってから幾ばくかの時が経ち、やがて季節は冬を迎えた。 その日の夜は、とりわけ陽が落ちてからの冷え込みが酷く、 更に強い寒風が吹きすさぶ轟音が耳うるさく断続的に響いていた。 一度は床に就いたセフェリスだが、 役割を終えてベッドから離れようとするグレミオの服の裾を名残惜しげに引っ張った。 「ぼっちゃん、どうなされましたか?眠れませんか?」 冬の寒さは人の心につけ込んで、一抹の心細さをもたらす。セフェリスは不安感で瞳を揺らし、 グレミオを部屋に留めようとした。 「…風の音が酷くて、…ちょっと怖くて、一人だと眠れそうにないんだ。ねえ、もう少しここに居て?」 「では、テオさまのところに参りますか?」 グレミオはベッド際に屈みこんでセフェリスと目線を合わせ、そのように提案するが、 セフェリスはふるふると首を振った。甘えたいのは、父親にではない。 「グレミオじゃなきゃダメ」 「……?」 真意が分からず、不思議そうな顔をするグレミオ。 セフェリスは掛布団を払いのけてゆっくりと上体を起し、そっとグレミオの髪に触れる。 「だってグレミオ、死んじゃったぼくの母さんに似てる……」 流麗な金髪も、慎ましやかな雰囲気も。4つ違いの少年が抱える月光のように果敢ない色は、 セフェリスのなかに僅かに残っている狂おしい追憶と愛惜の念を思い起こさせた。 グレミオの長い金髪を愛しげに弄びながら、ふわりと微笑む。 「母さんね、ぼくが眠れないときは優しく抱きしめてくれた……こんな風に」 「ぼ、…っちゃ……!」 グレミオの呼吸が一瞬、止まった。セフェリスがグレミオの体躯を全身で包んだのだ。 突然の抱擁にグレミオの身体が強張る、 しかし畏怖したのはほんのひと刹那。セフェリスの肢体から伝わってくる温かさは、 グレミオがこれまで性奴として凌辱されたときに感じた惨めな熱とは明らかに異質なものだったからだ。 (……どうして?他者の熱が…怖くない…こんなにも、懐かしくて……) 『寒いの?グレミオ』 『うん。…ちょっとだけ……』 『じゃあ母さんと一緒に寝ましょうね……』 「グレミオ……なんで…泣いてるの……?」 知らずうちに嗚咽が漏れていたようだ。抱きついたままのセフェリスが意外そうに問いかけてくる。 今まで散々嬲られて傷ついて虐げられて凍りついた精神が、 穏やかな日差しを浴びてゆっくりと溶けていくような感覚だった。 「いえ、母を…思い出してしまったんです……寒い夜は幼い私をベッドに招き入れて、 傍に寄り添って寝かしつけてくれた……私を置いて死んでしまった優しい母……」 涙で濡れたグレミオの告白は、セフェリスに少なからず衝撃を与えた。 グレミオにもちゃんと母親がいて、その死を悼む心を持ち、差別されれば哀しみや憤りを覚える。 まさにこの時、セフェリスは、彼が奴隷である前に人間であることを理解した。 「……そっか…グレミオも、母さんがいないんだ……」 セフェリスはより一層きつくグレミオにしがみつく。抱き締めているうちに、 腕の中の体温がだんだんと代え難く愛おしいものに思えてきて、出来るのであれば一晩中こうしていたかった。 「ねえグレミオ、今夜はここで一緒に寝よう?」 「い、いけません。ぼっちゃん……そんなこと……」 奴隷と褥を伴にすることなど許されるはずがない。グレミオは身をよじらせるが、 セフェリスは頑なにグレミオを離そうとせずに温もりを分かち合おうとする。 やがてその熱は、酩酊するような陶酔感を二人にもたらし始め、罪の意識を奪っていった。 「こうしてると、あったかくて、離れたくなくなるの」 (……離れたくない。ぼっちゃんだけは、私を人として見てくれる……) この夜がずっと明けなければいい―――グレミオは束の間己が奴隷であることを忘れ、 セフェリスに寄り添い、息絶えそうなほどの幸福なまどろみに身を委ねてしまった。 しかし、僥倖の代償は間を置かずにやって来ることとなる。その前兆は翌日の朝食時。 テオが険しい面持ちでセフェリスにこう訊いたのが始まりだった。 「昨夜、グレミオは使用人部屋に戻らなかったそうだが」 「ごめんなさい…ぼくがグレミオに無理強いしたんだ。一緒に寝て欲しいって……」 セフェリスが俯きがちに答える。父から叱責を受けることは覚悟していた。 しかしそんな覚悟など、実際は何の慰めにもならないのだと、ほどなくしてセフェリスは思い知る。 「食事が済んだら私の部屋に来なさい。グレミオに懲罰を与える」 そして、父の部屋で『懲罰』という言葉の意味を目の当たりにした時、憐れセフェリスは腰を抜かした。 革製の硬い鞭が勢いよくしなり、空を裂く。上半身を露わとしてテオの前に跪くグレミオ、 その背めがけて強く打ち付けられる甲高い音が絶え間なく鼓膜を揺るがす。 セフェリスは眼前の惨状に目を当てられず、あまりの恐怖で声すら出せずに、小さな身体を震わせ続けていた。 「セフェリスよ、目を逸らすな。これはおまえへの教育でもある」 冷ややかな声音でテオが言い放つ。こんな冷酷な父、セフェリスは見たことが無かった。 直視せねば懲罰は永遠に終わらない…そう脅されたセフェリスは、涙で霞む瞳で恐々と二人を視る。 父は容赦なく鞭を振るい、グレミオは悲鳴ひとつ上げずに耐えている。 彼の本来生白いはずの背には数えきれぬほどのみみず腫れが走り、 幾筋かは痛々しく皮膚が裂けて鮮血の緋色を匂わせていた。 地獄のような責め苦がどれほど続いているのかセフェリスにはもう分からない。 永遠とも思える残虐な時間、感覚がおかしくなってきた頃、 テオは吐き捨てるように呟いてようやく鞭をテーブルの上に置いた。 「…流石はあのミルイヒが飼っていた奴隷だな。鞭くらいでは呻き声すら漏らさぬとは……」 これでやっと終わるのか、とセフェリスが僅かな安堵を覚えた途端、再び凍りつき声を詰まらせる。 鞭の代わりにテオが手にしたのは、鋭利な刃を湛えた一振りのナイフだった。 (嫌だ…やめて…父さん……これ以上、傷つけないで……!) テオはぐったりとしたグレミオの長い髪を鷲掴みにし、強引に顔を上げさせる。 「私は寛容だ、グレミオ」 そしてグレミオの片頬にナイフを滑らせ、力を込めて一気に引く。 「一度はこの程度で赦そう」 溢れ出す赤。更にもう一筋掻き斬って、紅の十字を深々と頬に背負わせる。 「だが二度目は無いと思え…!」 言い放ったテオはそのままグレミオの顎を掴み、刻まれた十字傷を泣きじゃくるセフェリスに向け、 これでもかと見せつけた。頬を血塗れに滴らせたグレミオは哀しいほどに無表情で、 痛くないはずがないのに痛みを全く感じさせないその顔は、セフェリスにとってのまさに痛みそのものだった。 「セフェリス……おまえもこの傷を、流された血を、目に焼き付けておけ。 奴隷というものが如何な存在であるかを。この国では彼らに微塵の情けもかけてはならない。 何故なら奴隷は人ではない、家畜であるのだからな」 父の言葉は俄かには受け容れ難いものだった。一度でもグレミオの心に触れてしまったセフェリスは、 もはや彼を豚や羊と同じ目で見ることなど出来ないだろう。 しかしここで首を横に振っては、グレミオは更に惨い懲罰を受けてしまうに違いない。それだけは嫌だった。 「心得ておくんだ。奴隷に心を許すなど、帝国への反逆と見なされても不思議ではない。 …これは総て、おまえの為なのだよ……」 「…は、い……父さん………」 氷のような父の愛情が痛い。世界の背理にひれ伏すしかない自分が悔しかった。 それでも力無きセフェリスは、ただその背理を受け容れることしか出来なくて。 しかし、回り始めた歯車は既に止める術を失っていた。抑圧されるほどに反発して刺激される欲望。 セフェリスの胸に宿った小さな火種は、樹木が年輪を刻みやがて太く高く生い茂るようにゆっくりと成長し、 今をくすぶり続けるといえども、いずれ総てを焼き尽くす巨悪の焔となるだろう…… or 目次に戻る? |