Proof of Life


思えばあの時の私には、死ぬ覚悟なんてこれっぽっちもありませんでした。 唯ぼっちゃんを助けたくて、本当にそれしか考えておりませんでした。 ですから、ぼっちゃんや皆さんの狂乱じみた叫びを聞いても、 じりじりと這い寄ってくる人喰い胞子とやらに取り巻かれても、 自分が死ぬだなんて性質の悪い冗談だと…その程度にしか感じておりませんでした。
これでぼっちゃんとは二度と逢えなくなるのだ思うと、私の胸は他人事のように軋みました。 扉越しのぼっちゃんの声があまりにも哀切なものでしたので、 私は肉体の痛みも忘れ、喉が許す限り、どうにかぼっちゃんをお慰めしようと奮闘しました。 必死に強がって、懸命に励まして、そして少しだけ嘘もついて。
心からの気持ちも伝えました。私がぼっちゃんをどれほど誇らしく思っているのかを。 けれどその時でさえ、まだ私は『別離=己の死』だとは正しく認識出来ていなかったようです。 溜めていた洗濯物を心配したり、未整理のままのシチューのレシピを懸念したりする程度には、私は呑気に構えていたようです。
やがて視力を失い、声が出なくなってから、やっと私は死神の鎌に屠られる寸前であることに気づきました。 途端、例えようのない畏れが全身を覆い尽くし、私はもはや呼吸ひとつままなりませんでした。 死ぬのは怖い、死ぬのは苦しい。それはまさしく本能と言えました。 この世への未練や大切な人への執着の念ですら、生物の生存本能の前ではあまりにも無力でした。
いくら自己犠牲という小奇麗なメッキを施そうとも、死は死でしかありません。 意識が途絶え、二度と目覚めず、世界への干渉を金輪際禁じられ、思考さえも奪われる。 その残酷な事実をありのまま受け容れるには、私はどうにも若過ぎました。
誰しも死ぬ時は独りなのだと思い知り、私は空恐ろしいほどの孤独感と心細さに苛まれながら絶望の淵に沈んでゆきました。 私という存在はここで消える。子も残さず、これといった偉業も成さず。私の人生とは、一体何だったのでしょうか……
そんな私の哀しい問いかけに応えたのは、“光“でした。
そこから先の記憶は、時の経過から完全に切り離されたような、幻想的で不思議な色彩に満ちていました。 もしかするとあれが世間一般に言うところの、走馬灯のように記憶が駆け巡る、という現象だったのかもしれません。
『ぐれみおのて、かあさんみたい…』
今でも脳裏に焼き付いております。長きに渡る放浪を重ね、冷え切った心と体を抱えた私が触れた、 嘘みたいに穏やかな温もり。私の痩せて折れそうな指をきゅっと握り、幼いぼっちゃんはあどけなく笑ってくださいました。 天使が存在するならばきっとこのような御姿であるのだろうと、私は年甲斐も無く思ったものです。
『グレミオがいるから、さみしくないよ。でもね、ほんとはね…』
今でも印象深く憶えております。テオさまの遠征期間が延長する旨を伝えられたぼっちゃんは、 人前でこそ気丈に振る舞っておられましたが、夜更けに私の部屋にいらっしゃると、 私に抱きついて静かにお泣きになられました。泣き疲れ、 半ば私にしがみつくようにして眠っておられるぼっちゃんの体温を直に感じながら、 私は溢れる庇護欲と涙を制御する術を失うこととなりました。
『…いかないで…グレミオ、…いかないで…どこにも……』
今でもはっきりと思い出せます。リコンの村の宿屋でこっそりと見つめたぼっちゃんの寝顔はまだまだ幼く、 こんな少年が独り軍主としての重圧に耐えておられるのだと思うと私はいたたまれず、 指先でそっと黒髪に触れたのですが、その時、お休みになられている筈のぼっちゃんの唇が、 あろうことか私の名をなぞり…私の心臓は憐れなほど早鐘を打ちました。 子離れしなければという焦燥と、いつまでも寄り添っていたいという愛惜が相反し、 身を裂かれるような苦しみさえも私にとっては甘美な麻薬に他なりませんでした。
私はいつだってぼっちゃんを傍らで支えてまいりましたが、本当に支えられていたのは私の方だったのです。 ぼっちゃんが私の隣で笑い、泣いて、心を預けてくださったから、私は今日の今日まで生きて来られました。 私にとってぼっちゃんと共に過ごした月日は、『血縁を伴わない絆は仮初に過ぎない』という 無情の概念を根本から瓦解させるもので、謂わば無敵の破壊神であり創造神でした。
私は唯の付き人です。どう足掻いてもぼっちゃんの血縁者…母になどなれよう筈もありません。 けれど、逆説的ではありますが、母になれなかったからこそ私は母以上の想いを注ぐことが可能だったのです。 その想いを言い表す語彙は、私には到底見つけることは出来ません。 私は私の存在を、私の命そのものを、名を持たぬ虹色の想いに溶け込ませて絶えず注ぎ続けておりましたので…
そしてふと気づけば、私の途切れかけの意識は恐怖も絶望も遥か突き抜けた、ひとつ上の領域へと達しておりました。
光に導かれるまま門をくぐる私に残された最後の五感は、たぶん聴覚でした。 私の名を泣きながら呼び続けておられるぼっちゃんの声が聞こえました。ともすると幻聴だったのかもしれませんが、 おそらくは真実であろうと半ば確信しておりました。
十年も寄り添って過ごしたのです、私の中にはぼっちゃんが棲んでおられましたし、 きっとぼっちゃんの中にも私が…。そう思い至った時、頭の中がパシンと弾けるような、卵の殻が割れるような、 未知の解放感を味わいました。
彼岸とも此岸ともつかぬ、刹那とも永劫ともとれる奇妙な時空の中を漂いながら、私はやっと悟ったのです。 私の人生は決して無駄ではなかったと。


ぼっちゃんは、生きておられる。


私の人生とはぼっちゃんの礎。私が身命を賭して育んできたぼっちゃんの存在こそ、 私が生きた証、命の証明であるのだと。ぼっちゃんが自らの生を歩み続けられる限り、私の人生は終わらないのだと。
これから先、ぼっちゃんがたくさん笑い、たくさん泣いて、御多幸の日々を送ってくだされば、 それが私の幸福そのものなのだと、私は識りました。たとえぼっちゃんの傍らに私の姿が見えずとも、 私は何時だってぼっちゃんと伴に存在するのですから。
この気持ちは、永遠に変わることはありません。ぼっちゃん、どうか生き続けてくださいね。 どうかどうか、幸せになってくださいね。そうすれば私は、これまで重ねてきた山のような慈しみの言葉も、 伝えられなかった一つきりの秘密の言葉も、なにもかもを抱き締めたまま『生きて』往ける。
もうこの両腕でぼっちゃんを包んでやることが敵わないことだけが唯一心残りでなりませんでしたけれど、 ぼっちゃんさえ強く生きてくだされば、その先に幸福を掴めるのであれば、私は何度でも命を捨てられます。
私などの犠牲でぼっちゃんの未来を救えたのならば、ぼっちゃんが幸せになる可能性を護れたのならば、 死は確かに恐怖でありましたが、後悔などある訳がないのです。 こんな私を、ぼっちゃんは赦してくださるでしょうか…申し訳なく、思っております……

「――ってぼっちゃんに謝ったら、思い切り叩かれてしまいました…」
「…そりゃ、そうだろうな」
目の前の大男が微妙な顔つきで頷くと、相談を持ちかけた青年はまるで叱られた仔犬のように、しゅんとした様子でうなだれた。
「やっぱり…勝手に命を粗末にしてしまったこと、怒ってらっしゃるんですよね…」
「いや、そうじゃねえだろ…」
「え?」
どうやら青年には肝心な部分が見えていない。そう見極めた大男は、奔放に伸びた黒髪を所在無さげに掻く。 この青年に対する大男の感情は少々複雑だ。そこから生じた微量の照れ臭さを巧妙にオブラートに包み、 大男は彼なりに練り込んだアドバイスを送ってやる。しかし…
「おまえが死んだら、あいつは一生幸せになれないだろうが」
「??…どういうことですか?」
「だあああ、おまえなあ…っ」
それでも気づかない、あまりにも鈍感な青年のきらきらと無垢過ぎる瞳は、大男にとってはこの上なく目に毒で。 色々な意味で堪えきれず、短気な男はちゃぶ台をひっくり返す勢いで豪快にさじを投げた。
「そんぐらい、自分で考えろ!ああもう、付き合ってられっかよ」
「そんなぁ…ビクトールさん、ちゃんと教えてくださいよぉ〜」
せっかく相談したのに…と縋りついてくる青年を、大男は若干の後ろめたさを感じつつも振り払う。 しかしその罪悪感に隠し切れない悋気が滲んでいることを自覚すると、男にしては珍しく少々狼狽した様子を見せ、 ボロが出ないうちにそそくさと退散した。後に残されたのは、未消化の疑問を抱えて途方に暮れる青年が一人。
(…でも、ぼっちゃん……私は、何があっても…貴方を……)
懐古すべき思い出が胸底で煌めき、新しい金風が吹き抜けて未来へといざなう。 色褪せることを知らない感情を口ずさみながら、溢れるほどの心情を両手一杯に擁し、青年は自らが望んだ道程を歩み続ける。
一度は不幸にも亡者と成り果てながら、今は唯一無二の少年の為だけに生きる幸福な盲者。 その青年の名はグレミオ。彼と彼の愛する人、互いに一方通行な想いが交わるのはいつの日か。



−あとがき−
2012年9月30日、グレミオの日の記念です。
記念日に更新をするのはこれで3回目となりますが、
その度に「今回が最後だろう」と思っておりまして、今年もそうです。
お祝いといってもお話の内容は全然お祝いになっていないようなものばかりですね。
この時期に偶々完成したお話を、お祝いという口実でアップしているのです。
これが私なりの精一杯のお祝い。

今回のお話は、色々中途半端に終わってしまったのが少し心残りです。
グレミオへの愛だけはあるのだけど、愛だけではどうにもならない時もあるようです。

人の感情は、数えきれないほど存在する色彩のように、多種多様で曖昧なもの。
だからグレミオも、数多の色の『愛情』を、
坊ちゃんに対して抱いていたのではないかと。
パレットの上でぐちゃぐちゃに掻き混ぜられて、
自分でも正確には認識出来ていなかったとしたら、それはそれで萌えます。
タイトルは某ボカロ曲から。少なからずの影響は受けている筈です。


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