グレミオはハイ・ヨー料理長を頂点とする優秀なコックたちの中に紛れて夕食の調理を手伝った。
果たして役に立てたかどうかグレミオには判らないが、久々に一流の料理人を目の当たりにして学ぶことも多く、
グレミオにとって有意義な時間だった。
大変だったのは夕食後に厨房を借りて行った、ナナミの料理の指導だった。
グレミオは最初、ナナミの何でもかんでも薬草を入れたがる癖と、
調味料を間違える癖を直せば充分だと考えていたのだが、どうやらそれは甘すぎたようだ。
グレミオがお手本で作ってみせた『一般的においしいとされる』料理を味見すると彼女は眉をひそめ、
とんでもない調味料を大量に加えた挙句「こっちの方がおいしいよ?」と笑ったのだ。
そう、彼女は致命的な味オンチだったのである……当然、グレミオが頭を抱えたのは言うまでもない。
「ナナミさんは、珍しいセンスを持っているんですね。ご自分で食べられる分にはそれでもいいんですけど、
一般的な味付けも覚えられた方がクラリス君も喜びますよ」…と、
グレミオは慎重に言葉を選んでやんわりとたしなめ、懸命に『普通においしい味』というものを教え続けた。
もちろん一筋縄ではいかなかったが……
特訓は、半ば意地になったナナミがなかなか納得しないため延々と続けられた。
最後は結局、「今日のところはここまで」とグレミオがやや強引にひと段落つけた。
後片付けを済ませ、厨房を出てナナミと別れた頃にはすっかり夜も更けてしまっていた。
「……ふぅ、これでやっと落ち着けますね」
ひと気も無くなりすっかり静かになった廊下を歩きながら、グレミオは自らにねぎらいの言葉をかけた。
……セフェリスは、もう休んでしまっただろうか。マクドール家の屋敷にいるときならば、
既に明かりを落として眠っている時間帯だ。まさかこんなに長時間拘束されるとは思っていなかったため、
今日セフェリスに城を案内してもらったお礼を言うこともできないのかと思うと、少し淋しい気もした。
「あれ?……そこに、誰かいるのですか?」
セフェリスの部屋の前に、人影がある。一瞬不審者かと思いグレミオは身構えたが、
知っている人物だと気づいて警戒を解いた。
「うふふ……待っていたわ……」
「…ジーンさん?どうしてこんなところに……」
きょとんとしているグレミオに、ジーンは神秘的な微笑みを向けた。
「少し用があるのよ……あなたに…ね」
本当に、見てられないわ……。そう言いながら彼女は悩ましげに嘆息して、笑みを絶やさぬまま口を開く。
「……あなた、あの坊やが女性を見るたびにあんな表情をしていたら、すぐ気づかれちゃうわよ……」
「…!?」
なぜジーンがそんなことを知っているのだろう、と一瞬グレミオの頭に疑問がよぎったが、
それ以上にジーンに指摘された事実が胸に鋭く突き刺さった。動揺を隠したくて、咄嗟に平静を装おうと努める。
「いっ…いいえ!私はただ、ぼっちゃんもお年頃なんだなって思ったら、急に淋しくなってしまっただけで……」
気のせいか、ジーンの顔がさっきより近い。…いや、気のせいではない。コツ、コツ、と靴音が廊下に響く。
彼女はグレミオにゆったりと歩み寄りながら、憐憫をたたえた瞳で囁いてきた。
静かでありながら畳み掛けるような囁きは、まるでセイレーンの歌声のようだ。
「それだけで……わざわざこんな遠くまでついて来たの……?」
ジーンは腕を伸ばし、グレミオの頬の傷をそっと撫ぜた。
「それだけで……こんなにも切ない瞳をしているの……?」
おもむろに片手をグレミオの背中に回し、彼の髪を束ねていた紐を解く。はらり、と流麗な金髪が色めいた風情で背に流れた。
「ねえ…男だからと……それだけで…今の今まで耐え忍んできたというの……?」
「…ジーン、さん…?」
……さきほどから何だか、芳しい香りがする……脳を痺れさせるような、甘い、香り……
奇妙な芳香に、頭がくらくらする……
「あの……用がある、って…?」
不安を帯びた問いかけにジーンは微笑みで答え、右の手のひらをグレミオの額にあてた。
「あなたに、プレゼントがあるのよ……」
プレゼント…?その言葉にグレミオが疑問を抱く暇すら与えず、ジーンの右手がまばゆい光を放つ。
光は一瞬で消え、まぶしさで思わず瞼を閉じたグレミオは一体何が起きたのか分からず、目を幾度かしばたたかせた。
「な、何ですか?さっきの光は……えっ…?声、が……」
すぐにグレミオは異変に気づいた。自分の声がおかしい。咄嗟に喉に触れると、
いつもなら手のひらに当たるはずの喉仏の感触が無い。首も何だか細くなってしまっているような気がする。
自らの身に起きた異変に青ざめるグレミオ、彼をなだめるようにジーンはそっと語りかけた。
「慌てないで……これは、肉体に恒久的な形態変化を引き起こす、とても珍しい紋章よ……
どうやら上手く変化できたみたいね……」
「変化、って…まさか……」
自らの身体を服の上からぺたぺたとまさぐり、グレミオはその『変化』の意味に感づき始める。
そしてそれは、次のジーンの言葉によって確信に変わった。
「あなたの王子様は、部屋で眠っているわ……今ならきっと、あの坊やもあなたを愛してくれるでしょう……
こんなに綺麗な、女の人になったんだもの……」
「…私が、女…に……?」
まだ少し混乱している様子のグレミオに、ジーンはセフェリスの部屋の扉を指し示す。
それに導かれるようにふらりと歩を進め、グレミオはドアの前に立った。
「お行きなさい……あなたの心を支配しているあの人を、今度はあなたが支配するのよ……その身も心も、総て…ね……」
「……。ジーンさん…私、は……」
グレミオがすがるようにジーンの方へ顔を向ける。しかしそこにはもう、誰もいなかった。
おそらくテレポートを使ったのだろう、後に残ったのは周囲に漂う不思議な残り香のみ。
「…………」
まるで糸で引かれているような感覚だった。機械的な動作でドアノブを回し、部屋へと足を踏み入れた。
思っていたよりずっと広い室内は闇で閉ざされている。
グレミオは視界を確保するため入り口に備え付けられたランプに明かりを点した。
部屋の奥に二つ並べられた寝台の位置を確認し、そちらに歩み寄る。
近づくとセフェリスの寝息が微かに聞こえてきた。グレミオはベッド脇のランプにも明かりをつける。
その灯に照らされて、セフェリスの端正な寝顔が浮かび上がった。
「ぼ…っちゃん……っ」
その顔を見た途端、ぞくん、とグレミオの全身が疼いた。寒いわけでもないのに、身体中が粟立つような感覚が襲う。
(なんだか…体の奥が……熱い……?)
鋭敏になった身体に着衣が擦れるたび、ヒリヒリとした痛みが走る。服を纏っているのが、辛い……。
グレミオはセフェリスを熱っぽく見つめながら、身に着けている衣服を一枚ずつ剥いでいった。
不思議とためらいは感じなかった。さきほど嗅いだ奇妙な香りがグレミオの思考を麻痺させ、
一時的に正常な判断力を奪っているのだ。
(私は今、何をしているんでしょう……)
霞みがかった脳でまるで他人事のように自問しながら、緩慢と服を取り去っていく。
そしてとうとう最後の下着一枚までも床に脱ぎ落とす。
肌があますところなく外気に触れてしまうとますます疼きは酷くなってグレミオを苛んできた。
(私は…今、何を…して……)
この身にこもる熱をどうか、解放させてほしい……あなたの…手で……。
ただそれだけを願って、グレミオはセフェリスに掛かっているシーツを脇に退かせ、
馬乗りになるようにゆっくりと覆いかぶさった。ギシ、とベッドのきしむ音が存外大きく部屋に響く。
(私、は……今………)
右手をセフェリスの顔に伸ばし、その唇をそっとなぞる。若々しい唇の弾むような感触が指先から伝わって、
このまま喰らい尽したい衝動に駆られ、引きずられるようにグレミオは顔を寄せていく。
…そのときだった、セフェリスの閉じられた瞼がほのかに開き、うわごとのように名を呼びかけてきたのは。
「ん……ぐれ、みお…?」
寝ぼけまなこでグレミオの顔を見たセフェリスは、甘えた声を出してあどけなく微笑んだ……
その安らいだ微笑を見た瞬間、ずっと霧の中を彷徨っていたような脳に正常な思考力が蘇った。
覚醒した、とでも言おうか。グレミオは目を見開き、明瞭となった頭にただひとつの問いが響き渡った。
私 は 今、 何 を し て い る …… !?
ヒュッと肺が痙攣し、声の無い悲鳴と化す。全身がこわばり固まって動けなくなる。
まるで冷水を浴びせられたかのようだった。グレミオはようやく、
無防備なセフェリスに対して今自分が何をしようとしたのか思い知ったのだ。
(こんなの…ただの夜這いじゃないか……まるで売女だ…!)
「…嫌ッ!目を開けないでください!!」
気づけば鋭く叫んでいた。もう叫ぶことしかできなかった。
セフェリスはまだ状況が把握できていないようで、
幾度か瞬きを繰り返しながら問いかけてくる。
「グレミオ…なのか?その声は、どうかしたの……?」
「お願いです、こっちを見ないでください……!」
グレミオはベッドの端に座り込み、どうにかしてその身体を隠そうとする。
しかし隠せるべくもなく、ランプの所為で裸体の姿がはっきりと見える。
明かりなんてつけるんじゃなかった。いや、そもそもこの身体で部屋に入るんじゃなかった……
「グレミオ、その身体……」
上体を起こしたセフェリスは次第に意識が明瞭になってくるのを感じた。
目の前に胸部を両腕で隠して取り乱すグレミオがいる。
頬の傷も見える。確かにグレミオのようだが、その身体は、どう見ても……念のため自分の頬をつねってみたが、やはり痛い。
どうやら夢ではないようだ。
「ごめんなさい!許してください!許してください!私、わたし…!ごめんなさい……っ!」
セフェリスの視線を嫌というほど感じ、グレミオは堪えきれなくなって涙を零しながら謝り続けた。
その胸は後悔と罪悪感と羞恥に満たされて、自分のなかにある浅ましい感情にひたすら吐き気すら覚えた。
恋と欲情の判別すらつかないままセフェリスを惑わそうとした、こんな性欲をかきたてる淫らな姿に身を堕としてまで。
「グレミオ……」
セフェリスに見つめられてグレミオは怯えきっているが、
しかし少年の視線にはひとかけらの嫌悪も侮蔑も含まれてはいなかった。
セフェリスはただ、その美しい姿に見とれていたのだ。
グレミオは気づいていないだろうが、本当に、目線を逸らせなくなるほど今まで見たどの女性よりも美しかった。
ランプの明かりに照らされた、艶めくような滑らかな素肌はとても柔らかそうで、
形の良い豊かな胸はみずみずしく弾力があり嫌でも目を惹かれてしまう。
適度にくびれたウエストから腰にかけてのラインは恐ろしく芸術的で、
まるで一流の彫刻家が心血を注ぎ込んで生み出した作品のようだ。
「ねえ…何でそうなっちゃったのか、ぼくには分からないけど……どうして隠すの?こんなに綺麗なのに……」
セフェリスにとってグレミオの裸体は、情欲を誘うというよりは単純に感動を覚える類のものだった。
不思議そうにセフェリスは尋ねたが、グレミオはまだ錯乱している。
涙をぽろぽろと絶え間なく零しながら、首を振って泣きわめいた。
「綺麗なんかじゃない!ぼっちゃん、私はあなたを襲いに来たんですよ!?
私は、私は今まで…ぼっちゃんを見るたびにあなたに抱かれたいと思い続けてきた…!その挙句に、こんな…ことを……っ」
「…………」
グレミオの苦しげな声を聞いて、セフェリスは大まかな事情を察することができた。
起き上がってグレミオの傍に寄ると、怯えさせないように優しく頭を撫でてやりながら、少し呆れたように言った。
「……グレミオってさあ、案外にぶいんだね」
セフェリスは金色の髪を弄んだまま、くす、と軽く笑ってみせる。その笑顔にグレミオは呆けて、ようやく酷い錯乱が止んだ。
「ぼくたちいつも一緒にいるから、かえって分からないのかなぁ?」
グレミオはセフェリスのことなら大抵のことに気づいてくれるのに、肝心なことだけ気づけなかったようだ。
涙がつたう痛々しい頬にちゅっとキスをして、そのまま間近にある翡翠色の瞳を覗き込んだ。
「ぼくだってグレミオを愛してるのに……ね」
そしてグレミオの瞳が驚愕に見開かれる。
「……え……っ?」
「本当だよ。ずっと前から、好きだったんだから」
セフェリスの告白は、グレミオの中でもつれきっていた想いのまさに糸口そのものだった。
その一言で今まで絡まっていた総てがほどけていく。
グレミオは思い出した、セフェリスがグレミオに向けて時折見せていた物憂げな表情を。
旅の合間、しきりに甘えるようにすり寄ってきたセフェリスのぬくもりを。
(…ああ、…そう……だったんですね……)
どうして、気づけなかったのだろう。あのときも、あのときも……自分の想いを押し殺すのに必死になっていたばかりに、
セフェリスの心をわかってやれなかった……
「ずっとおまえのことを抱き締めたいって、思ってたよ。おまえが男だろうとね」
でも…、セフェリスは逆接で区切り、やや自嘲めいた口ぶりで話した。
「でも、ぼくの中で芽生えた感情はあまりにも激しすぎたから…ぼくは怖かったんだ、
おまえを滅茶苦茶に壊してしまいそうで、怖かった。だから臆病になって、
おまえの気持ちをうすうすとわかっていながら無視し続けてきた。
おまえの嫉妬心を煽りたくて、クラリスに頼んでわざと頻繁に屋敷を空けたりした。
そうすれば、いつかおまえがこうして来てくれるんじゃないかって、心のどこかで期待して……」
セフェリスはそうやって一気に言葉を吐き出すと、グレミオを真っ直ぐ見つめながら問いかけた、
ほんの少しの怯えを封じ込めた目をして。
「こんなぼくでも……グレミオは好きでいてくれる?」
その透明な瞳に見据えられて、グレミオの双眸からまた涙が溢れ出す。今度は、違う理由で。
「……そ…れは…、私の台詞です…ぼっちゃん……」
―――こんな私でも、愛してくれますか……?
それに答えるようにセフェリスは安堵した様子で微笑むと、グレミオの身体をしっかりと抱き締めた。
女性のものとなったその肢体はやはりとても柔らかく、あまりの心地よさにセフェリスは酔いしれてしまう。
一方でグレミオは、
さきほど感じた身体の奥底から湧き上がるような奇妙な疼きが再び頭をもたげてくるのをゆるゆると自覚し始めていた。
セフェリスの体温と、いつもより色を帯びた低い囁きに包まれて……
「…愛してる。今から……証明するよ。グレミオ……」
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