「ばか!グレミオのおおばか!だいっきらいっ」 小さな体で大声を張り上げ、言いたいことを言うだけ言うと、 セフェリスはグレミオが止める間もなく屋敷の外へと飛び出していった。 夕暮れのグレッグミンスターの街をひとりの子供が駆けていく、 琥珀の瞳から次々とこぼれる涙でまたたく間に視界はかすみ、思考もかすみ、 グレミオのばか、ばか、ばか!と、そればかり心で唱えながら無我夢中で駆けていく。 少しでも立ち止まったらその場にへたり込んで大声で泣き喚いてしまいそうで、 頭の中を真っ白にして屋敷から遠く遠くへ駆けていく。 「やれやれ、ちょっと張り切って買いすぎたかねえ。もう日が暮れてしまうよ」 宿屋の女将であるマリーは大きな荷物を担ぎながら、徐々に人通りがまばらになりつつある道を心持ち急ぎ足で歩いていた。 日が傾いて少しずつ伸びていく己の影をせわしく追いかける。 すると、突然マリーの影に、その三分の一にも満たないほどの小さな影がぶつかってきた。 「あっ!?なんだい…危ないねえ、もう!」 背後からドスンと音を立て、衝撃がマリーを揺さぶった。 慌てて体勢を立て直した彼女が文句を垂れてキョロキョロ辺りを見渡すと、 6・7歳ほどの子供が向こうへ走り去っていく姿が見えた。 「あれは…セフェリスぼっちゃんじゃないか」 セフェリスのいつもとは違う様子を見て「どうかしたのかい」とマリーは声をあげた。 しかしセフェリスにはまったく聞こえていないようで、その後姿は次第に小さく暗くなりゆき、 やがてすっかりと街の陰に隠れてしまった。マリーは小首をかしげ、 当たらずしも遠からずなことを不思議そうに呟いた。 「また、グレミオとケンカでもしたのかねえ……?」 「……どうしよう…」 我を忘れてずっと走り続けていたせいで、途中の記憶が定かではなかった。 どこをどう通って来たのか全く分からない。いつの間にか狭い路地に入り込み、 ここが一体どこなのか検討もつかなかった。人けの全くない路地で、幼いセフェリスは途方にくれていた。 「迷っちゃった……」 辺りは既に薄暗く、まもなく夜が訪れるだろう。 いくらグレッグミンスターの治安が日増しに良くなってきているとはいえ、 こんな時間に子供一人で出歩くのは危険だ。温室育ちのセフェリスは猛烈な不安と心細さに襲われ、 助けを求めるように世話係の青年の名を呼んだ。 「グレミオ……」 セフェリスの頬を、つう、と涙がすべり落ちる。その名を呟いてしまった途端、 先ほどの出来事が嫌でも思い出され、悲しみに駆られ、視界がまたぼやけてくる。 「…グレミオの、ばか……ふぇっ……えっく…」 俯いて涙をこぼし続けながら路地裏をとぼとぼ歩く。すると、突然上から男の声が降ってきた。 「君……泣いてるの?」 「だ、だれっ!?」 セフェリスは驚いてパッと顔を上げ、慌てて涙を拭うと尻尾の毛を逆立てた仔猫のように身構えた。 いつの間にか傍に立っていた男は、怯えるセフェリスをあやすように柔らかく微笑んでみせた。 「安心して。何もしないよ」 「……何もしない?」 全く見知らぬ男だったが、セフェリスは存外すんなりと警戒心を解いた。 男の力強く優しい雰囲気はなぜか懐かしい匂いがして、セフェリスが大好きな人物のそれとよく似ていたから。 男は視線を巡らせて辺りに怪しい気配が無いか確認すると、もう一度セフェリスを見つめて心配そうな声を出した。 「それにしても、君…危ないよ、もうすぐ暗くなるのに一人で路地裏なんかに居たら」 「……だって、グレミオが……」 危険だというのはセフェリスにだって分かっているが、こんなことになったのも全部グレミオのせいなのだ…… 少なくとも、セフェリスはそう思い込んでいる。すっかり拗ねてしまった様子のセフェリスを見て、 男は目線の高さを合わせるように身体をしゃがませながら、穏やかに問いかけてきた。 「君はどうして泣いていたの?教えてくれる…?」 質問はひとつでいい。たぶんその答えが、この幼子が家を飛び出して路地裏に迷い込んでしまった原因なのだから。 セフェリスは苦しげに眉根を寄せ、拗ねたままの表情で喋り始めた。 「……グレミオがお口にキスしてくれないの」 それは大人からしてみればたわいのない理由なのかもしれないが、 今のセフェリスにとっては何よりも大きく心にのしかかる錘(おもり)だった。 たどたどしく言霊を紡いでいくうちに、セフェリスの赤く充血した瞳にまたじわりと涙が滲み始める。 衝動のようにこみ上げてくるものが、切なさが、小さな胸を突き破って溢れてしまいそうだ。 「お口へのキスは、一番大好きで一番大切な人とするんだって、ぼく、教わったから……だから、グレミオにお願いしたの、 ぼくのお口にキスしてって。でもグレミオは、どんなにお願いしても『それは出来ません』って言うから……っ」 まだ幼い子供は己の感情を抑える術を知らない。セフェリスは鼻先に力を込めて懸命に涙を堪えていたが、 いつしか雫はほろほろ絶え間なく頬を濡らし、しゃくりあげながら恋しくてたまらない人を心の中で呼び続けた。 「ぼくはグレミオのことが一番大好きで一番大切なのに……グレミオは…そうじゃないんだ……グレミオのばかぁ……」 じっとセフェリスの話を聞いていた男は、泣きじゃくっている幼子の小さな頭に手を乗せ、優しくなだめた。 「大丈夫……泣かなくて、いいよ」 涙でぐしゃぐしゃになったセフェリスの顔を間近に覗き込んで、目と目を合わせ、はっきりと告げた。 「…大丈夫。その人はね、本当に君のことが一番大好きで、一番大切なんだ。だからキスをしなかったんだよ」 「…なんで……?」 セフェリスには男の言葉が理解出来ない。男もそれは重々承知していたようで、 指先で頬の涙をぬぐってやりながら、見る者を安心させるふんわりとした微笑をたたえて、こう幼子に言い聞かせた。 「君がもう少し大きくなったら、きっとわかるよ」 まるで完全に子ども扱いしているような言葉だとセフェリスは感じた。男が言っていることは正論だが、 正論とは得てして口に苦いもの。セフェリスは少しむくれたように唇を尖らせて男をねめつけた。 「『大きくなったらわかる』って……グレミオと同じこと言うんだね」 「ふふっ、そうなんだ…」 男は目を細めてくすっと笑った。そしてもう一度セフェリスの瞳を覗き込む。涙はもう、止まっていた。 「……でもね、君がもし大きくなってもその人のことを一番大好きなままでいられたら、 その人はきっとキスをしてくれるよ。絶対に」 「…ホント?」 その言葉にセフェリスは目を見開いた。大きな瞳にはほのかな希望が宿りかけて、 きらきらと綺麗に光っている。男の服をしきりに引っ張りながら、知らずうちにすがりついていた。 「ねえ、ホントに?…キスしてくれるようになる?」 「ああ、保証するよ。君が、ずっと好きでいられるならね」 男の確信に満ちた笑顔につられ、セフェリスは幼い表情をぱあっと輝かせた。 まるで水を得た魚のように生き生きとした口調で、自らの想いを確かめるように告白する。 「うん。ぼくはグレミオが大好き。今までも、これからも、ずっとずっと、一番大好き!」 「あっ…やっと笑ってくれたね」 男は嬉しそうに笑顔を返す。そしてセフェリスに向け右手を差し出した。 「じゃあ、その人のところに帰ろうか。きっととても心配してるよ」 セフェリスは差し出された右手を取ると、男に訊く。 「帰り道、わかる?」 男は微かに笑い、冗談めいたように呟いた。 「まあ…なんとなくだけど、ね?」 その後セフェリスと男はしっかりと手をつなぎ、大通りへと出た。 大通りならば等間隔に並んだ街灯や家屋の放つ明かりで視界も保てるし、人の往来もそれなりにあって心細さは無い。 屋敷の方角を目指しながら、男は時折通りにある店の人間などに何事か質問していた、道でも尋ねていたのだろうか。 「あの、ちょっとお伺いしたいのですが。………の、……は、……ですか…?」 「…う〜ん、ちょっと私には分からないねえ……」 「そうですか……」 男が道行く人と交わす会話など、セフェリスの耳にはほとんど入って来なかった。 セフェリスはただ、早くグレミオに会いたくてうずうずしていた。 とはいえ、会ったら何をしようとか、何を言おうとか、そんなことは全く考えていなかった。 ただ会いたい、それだけ。たったそれだけのことが頭の中を支配していて、 そわそわと落ち着き無い風情で男とつなぎあった手をきつく握り、今にも飛び出していきたい衝動をどうにか堪えていた。 「……焦らないで。もうすぐ会えるからね」 そんなセフェリスの様子を見かねたのか、男はつないだ手を握り返しながらそっと囁いてきた。 男とセフェリスは互いにはぐれないようしっかりと手をつなぎ、大通り沿いに歩き続けている。 「だって、早く……会いたいんだもん」 切なそうな声を出すセフェリスのつむじを上から眺め、男は軽くため息をついた。 「これに懲りたら、こんな無茶なこと、もうしたら駄目だよ」 「……うん」 セフェリスは素直に頷いた。それを確認すると男は前を向きなおし、歩きながらゆっくりと口を開いた。 「その人が大好きなら、ちゃんと大切に、…大切にしてあげるんだよ。いつまでも傍にいてくれるって… そう信じ切っていたばかりに、あとで己が後悔に打ちのめされることがないように……」 「…え……?」 羽がはらりと舞い落ちるように静かな声だったが、予想だにしなかった台詞にセフェリスは驚いて、咄嗟に男を見上げた。 男の横顔は静かで、強く、だけど悲しいほど綺麗で、 いつしか見せてもらった父テオの愛剣、その白刃のきらめきによく似ていた。 (どういう……こと?) セフェリスの頭に疑問符が生まれた、ちょうどその時。向こうからセフェリスの耳に深く馴染んだ、 ひとりの青年の声が聞こえた。青年は懸命にセフェリスの名を呼び続けている。 ここからさほど遠くないところに、街灯の明かりに映える彼の金髪が見えた。間違いない、グレミオだ! 「グレミオ!ここだよ、グレミオーー!!」 セフェリスが大声を張り上げて手を振ると、グレミオはすぐに気づき、こちらに走ってきた。 ひたすらに走って、走ってくる、全力で、スピードを緩めることなく、突進してきて…… ふたつの影が重なるとき、勢いあまってセフェリスを押し倒してしまったのはまあご愛嬌。 「ぼ、ぼぼぼぼぼっちゃぁーーーん!!大丈夫ですかっ!?どこも痛くありませんか!?」 「いたた…もうちょっと加減してよ〜グレミオ……でもまあ、ぼくは一応大丈夫……」 「本当によかった…ぼっちゃんが、ご無事で!グレミオはもーーーう、心配で心配で心配で!!」 ふたりは再会を喜び、固く抱き締めあった。大好きな温もりとうるさくて微笑ましい声に 何もかも忘れて身を委ねてしまいそうになったが、セフェリスは辛うじて男のことを思い出した。 「グレミオ…あのね、ぼく迷子になっちゃったんだけど、この人がここまで送ってくれたんだよ……あれっ?」 グレミオから身体を離し、男の居た方を振り向いて……唖然となった。 「…いない……」 そこにはもう、誰も居なかった。人っ子ひとり存在しない空間をセフェリスは呆気にとられたように見つめている。 男の姿はまさに、風のように消えてしまっていた。 「誰かに助けて頂いたのですか…?お礼は言いましたか?」 「ううん……言えなかった……」 気の抜けたような声を出してセフェリスは首を横に振った。あの男の存在は初めから幻だったのではないかと、 そう感じてしまうほど彼の気配は希薄だったようにセフェリスには思えてならなかった。 グレミオは男の特徴が分かれば後日探しやすいかもしれないと考えて、 まだぼんやりしている様子のセフェリスに尋ねてみた。 「その方は、どんな格好でした?」 「…黒い髪で、赤い服着てて、頭に緑色のバンダナしてるお兄ちゃん……変なの…さっきまで手をつないでたのに…」 「そうですか……またお会いしたら、ちゃんとお礼を言うんですよ?」 グレミオに念を押されてセフェリスがしっかり頷くと、唐突にお腹がぐうと鳴った。 どうやらグレミオに会って安心したら空腹感が頭をもたげてきたようだ。 お腹を鳴らしてしまい少し恥ずかしそうにしているセフェリスに、グレミオは微笑みながら手を差し出した。 「さあ、ぼっちゃん。一緒に帰りましょう?」 「うん」 一番大切な人の手を取り、しっかりとつなぎあった。帰ったら急いで夕食を作りますね、とグレミオは嬉しそうに言う。 きっと彼もセフェリスを見つけられて心から安堵しているのだろう。 そもそもの発端、セフェリスが屋敷を飛び出してしまった原因など、頭から抜け落ちてしまっているのかもしれない。 「グレミオ……今日はわがまま言って、ごめんね」 帰路につきながら、ぽつりと二人の間に落とされた言葉。グレミオが驚いて隣を歩く幼子を見下ろすと、 セフェリスは青年をまっすぐに見つめていた。 「……ぼっちゃん…?」 目が合った途端に、セフェリスはふいっと目を逸らしてしまった。 グレミオの綺麗な瞳がこちらに向いた瞬間……少し、危ないかも、と思ったから。 セフェリスの心に去来したえもいわれぬ感情。その正体を、いまだ小さなこの子供が知るのはきっと当分先のことになるだろう。 唇へのキスが今のセフェリスには早いのだと言うのならば、時を待てばいいとセフェリスは思えるようになっていた。 (ぼくが大きくなったとき、もう一度お願いすることに決めた。……だから、) 今はただ、傍に居られるこの瞬間が、何にも勝っていとおしく感じる。 つないだグレミオの手を、セフェリスはきゅっと握り締めた。 (だから、ぼくの心を盗ったまま、遠くに行ってしまわないでね……) 「う、…ん……あれ、夢…?」 目を覚ましたセフェリスは、木目の天井を見上げながら、自らの置かれている状況が分からなくなっていた。 ……ぼくは誰?ここはどこ?さっきまで見ていた夢が長く尾を引いていて、まるで頭に霞でもかかっているようだ。 (夢で逢ったのは……昔の、ぼく……?) 現状を確認するようにぼんやりと思考を巡らせる。自分の名はセフェリス。 歳は、何も知らぬ人が聞いたら仰天するであろうお年頃。 そしてここは旅の途中に立ち寄った大きな街の宿屋の一室で……。 「……どうしたんですか?まるで狐につままれたような顔をして」 心ここに在らずといった様子のセフェリスを、隣で添い寝する男が見つめている。 セフェリスが身体をそちらに向けると、彼は微笑を浮かべたまま少年の黒髪に触れてきた。 指先の優しい感触に目を細めながら、セフェリスもようやく『今』をしっかりと認知して、グレミオへ微笑みを返す。 「…ん……何でもないよ。…それより」 滝のように流れている金髪のひとふさを軽く引っ張ると、グレミオは察してくれたようで、 ゆっくりと顔を寄せてきて、ちゅ、とセフェリスの唇に軽くキスを落とし、いつもの挨拶を交わした。 「おはようございます、ぼっちゃん」 「おはよう、グレミオ」 今日のセフェリスは妙に上機嫌で、笑みをこぼしながら二度目を要求してくる。 「ね、もう一回」 「はいはい」 せがまれるままにグレミオはまた唇をふれ合わせた。それだけでは満足しないと知っていたから、 一旦離れた後、ついばむようなキスを何度か繰り返す。だんだんと互いの吐息の中に色めいたものが混じり始め、 セフェリスはグレミオに擦り寄ると、そっと囁いた。 「…もっと深く……」 昨夜抱き合った後にそのまま眠ったから、ふたりは一糸纏わぬ姿。 この状態で全身を密着させてしまうと、あらぬ方向のスイッチが入りかねない。 「……これ以上すると、抑えが利かなくなりますよ……」 脅しのようにグレミオが低音を響かせる。しかしそれすらも誘っているように聞こえてしまって。 全然かまわない、それでもいいじゃない……そうセフェリスは感じた。 「もっと…もっと、して?……ぐれみお……」 砂糖菓子のように甘い声で名を呼んで、あどけない笑顔でおねだりをしてくる。 グレミオにとってそれはまるで極上の麻薬にも似ていて、 至福の陶酔感を一度味わったが最後、病みつきになってあらがう気力すら奪われてしまう。 「…もう、あなたという人は……」 …どうしてそんなに可愛らしいのでしょうね。苦笑めいた表情を滲ませグレミオは嘆息して、我侭な主にひれ伏した。 次第に濃厚になっていく口づけの合間に、何が可笑しいのかセフェリスはしきりにくすくすと笑っていた。 キスひとつで拗ねて泣いていた、あの頃のことを思い出しながら。 とてもとても、懐かしい夢を見た。 ただどこまでも無邪気にグレミオが大好きでたまらなかった遠き時代。 あれから何年も何十年も経ち、ふたりの関係は少しずつ変化をし続けた。 『主従』から、いつしか『恋人』になり、やがて『伴侶』となった。 仲違いをした時もあった。顔すら見たくなかった時もあれば、逢いたくても傍に居られない時もあった。 耐え難い恋情に焦がれる時もあったし、何度抱き合っても足りないほど貪り続けた時もあった。 変化は今もなお絶え間なく続いている。そしてこれからも廻っていく。 それはまるで月が欠けて満ちるように…… −あとがき− 過去の(あるいは未来の)自分と出会う、 ありがちといえばありがちな設定のお話です。 そして相も変わらず甘口グレ坊でもあります。 子坊の台詞は砂を通り越して血を吐きそうになりながら書きました。 まあいつものことです。いつものこと……(笑) |