いつしか私は崖ばかりを見るようになった。村はずれ、私の家の窓から遠目に見える崖。 あの人がいなくなってから、私は毎日その崖を訪れた。あの人が落ちたという崖はここより高いのかしら、 低いのかしら。あの人は痛かったのかしら、苦しんだのかしら。 ―――結婚しよう……ずっと一緒にいるから あなたは嘘つきね。果たせない約束なんて最初からしなければよかったのよ。 そうすれば私はこんなにもあなたを恨むことなんてなかったのに。 結婚指輪はとうに崖から投げ捨てた。こんなに痩せてしまった指にはもう似合わなかったから。 いつの日か、私は私の身体すらもここから投げ捨てるのだろう。 それは今日かもしれないし、明日かもしれない。だって私にはもう、 あの人を返してと天に叫ぶ声すら枯れてしまったのだから。 「…嘘つき」 落下地点まであと3歩。 「嘘つき」 踏み出す、あと2歩。 「嘘つき」 ゆっくりと…1歩。 「嘘つき……」 突然背後から腕を掴まれた。その強い力に身体がすくむ。 「……!」 「…だめです……」 あの人のそれよりも少し低めの、哀しげなテノールが聞こえた。 ………ああ、これは…彼、だ。私のまなじりから静かに涙が零れ落ちた。 「どんなに辛くても……すべてを諦めたら…だめです……」 「…………っ!」 涙が珠となり空に舞う。私は振り向きざま彼の胸に縋り付いた。 「…っグレミオ…!」 彼はそっと私の背に両手を回してくれた。私は瞳を閉じて謝り続けた。いいの、もういいの、あなたがいるから。 あなたがそばにいてくれるから。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。 もう崖になんて来ない。もう崖は見ない。今はただ、あなただけがいればいい…… ぴ、ちゃ。 そのとき、小さな水音がした。……何の、おと?…おもむろに目を開くと、 私の鼻先に緋く尖ったものが突き付けられていた。それは彼の胸から不自然に生えていて ……一瞬『それ』が何なのか判りかねた。『それ』が、彼の血に染まった短剣の切っ先だと気づいたのは、 まるで冥府の底から聞こえるような声、が、私の耳に届いた時だった。 彼の背後から、低い怨嗟の声が…あの悪鬼の声がした。 ―――ゆるさ…ない…… 背後から彼を刺した悪鬼の声とともに、彼が血を吐く。私はもはや眼球すら動かせなかった。 ただ緩やかに、緩やかに彼が崩れ落ちてゆくさまを、まるで出来過ぎた人形劇でも見るように…… ―――おまえも…悪いんだから……おまえが、…………だ…から…… 俯いた悪鬼の声が震えている。その声は徐々に音程を高くして行き、やがてはっきりと、 うら若い少年の声であることが判った。 ―――だからぼくは……鬼になったんだ………! 悪鬼はゆっくりとその顔をあげた。その……顔は―――。 「ほら、綺麗な赤色でしょう?きっとおいしいですよ」 部屋に戻ってきたグレミオはにこにこしながら、苺の盛られた器をテーブルに置いた。 大きな粒揃いの苺はとても甘そうで、一般の家庭ではおそらくご馳走なのだろう、グレミオが酷く上機嫌なのも頷けた。 「ええ…苺もおいしそうですけど、グレミオさん、シチュー冷めちゃいますよ?」 セフェリスが言うと、やっとグレミオは4分の1ほど残った自分のシチューの存在を思い出したようで、慌ててスプーンを取った。 「ああ、すみません忘れてました……残したらもったいないですからね」 セフェリスは皿に盛られた苺のなかの、ひときわ赤いそれをひとつ手に取ると、 グレミオがシチューを口元に運ぶさまをじっと眺めつつ、手にした苺にかじりついた。 口中に広がるのは切なくなるような甘さ。思わず目を細めたのは酸味が沁みたのか。 滴る果汁ごと果肉を飲み込むと、セフェリスはふいに思い出したかのように話し始めた。 「あの人はね…シチュー作りがとても上手だったんです」 プロのシェフを唸らせるくらいにね、と付け加えると、グレミオは少し慌てたように自分の皿のシチューと セフェリスとを何度か見比べた。 「私なんかのシチューで良かったんですか?」 その様子をセフェリスは可笑しそうに見て、くすりと微笑んだ。 「おいしかったですよ。とても」 穏やかな微笑みをたたえたまま、セフェリスはやや唐突な、しかし必然的な話を切り出した。 「グレミオさん、今日ぼく夢を見たんです」 「…夢、ですか?」 セフェリスは頷いて、夢の光景を思い出そうと幾度か眼を閉じる仕草をした。 「随分前に亡くなった父が、ぼくのことを『哀れなブリュンヒルデ』と呼びました。 そう、今やっと思い出したんです……それは、古い神話に出てくる女性の話です」 それは夢の中で父が読んでいた分厚い書物の一節、ひとつの小さな悲劇だった。 「戦乙女ブリュンヒルデは、英雄ジークフリードと恋に落ちます。 しかしジークフリードは何らかの理由でブリュンヒルデを忘れ、他の女性と結婚しようとしました」 「………?」 どうしてセフェリスが今このとき、それを語るのか。グレミオはその様子に違和感を覚え始めたが、おそらく、既に遅すぎた。 「そう、ブリュンヒルデは、それに耐えられなかった……」 「……ェリス、君…?」 違和感は、次第に漠然とした居心地の悪さに変化した。セフェリスは確かに微笑んでいたが、 グレミオを見つめるその瞳があまりにも透き通り過ぎていて、 それはまるで菩薩が衆生を見下すかのような……グレミオが感じていた『居心地の悪さ』は、 より知覚し易い感情へと、ゆっくりと形を変えていった。 「ブリュンヒルデはその手でジークフリードを惨殺し、そして自らの胸にも刃を突き立てました」 「………、…」 いつしか手にしたスプーンが皿にあたりカチカチと鳴って、 グレミオは自らの手が痙攣していることを知った。ああ、持ち直さなくてはと、 ぼんやりそう思って手先に力を入れようとして、なのに、スプーンは高い音をたて手から滑り落ちていった。 静かな部屋の中、カランと鳴った金属音にグレミオは愕然とし、 床に落ちていくそのさまを惰性のように視線で追いながら、驚愕に瞳を見開いた。 ―――力が、入らない…… 「……酷い話だと思いますか?」 静かな問いかけにびくりとグレミオの身体が震える。セフェリスが椅子から立ち上がり、 グレミオの傍へ歩み寄ってくる気配がする。 しかしグレミオはまるで凍りついたようにスプーンの落ちた床から視線を上げることができなかった。 先ほどから胸にわだかまっていた『居心地の悪さ』は、明らかな『恐怖』へと変貌を遂げていたのだ。 「…ねえ?だってしょうがないじゃないですか。どんなに足掻いても戻らないのなら……殺すしかないじゃないですか……」 目線を伏せたままのグレミオの頬に手を添え、セフェリスは強引にグレミオの相貌を覗き込んだ。 吐息が触れあうほどに寄せた少年の顔は、 すぐに紗幕の向こうに滲んでしまってグレミオにはその表情を判別することが出来なかった。 視界がかすみ、急速に意識が遠くなる。恐怖心すら、遠のいていく。 「……薬、効いてきた?」 「…え……」 戸惑いと恐怖を浮かべて朦朧としているグレミオを見やり、 セフェリスが満足げに微笑む。少年は甘えるような声を出してグレミオに擦り寄った。 「ね、いっしょに行こうよ……もう独りは嫌だから……ふたりで、誰にも邪魔されないところに……行こう?」 「…な、に……を……?」 とろけるような甘い表情でありながら、グレミオの左手をぎりりと締め付ける。 その薬指に光るものへとセフェリスは手を伸ばした。 「こんなモノ……もういらないよね?…吐き気がする……」 「…や……め………」 いまいましい結婚指輪を強引に抜きさると、乱暴に床に叩きつけた。 意識が消えつつあるグレミオの耳元、強く囁いて、力が抜けていくその身体を両腕で受け止めた。 「グレミオは、ぼくのものだ……誰にもあげない……!」 やがてグレミオの身体がもう全く動かなくなると、セフェリスは彼を抱き上げてベッドまで運び、 横たえた。そして斧を床から拾い上げ、グレミオに狙いを定めて大きく振りかぶった。 「………」 さあ、今この瞬間、斧を振り下ろせば終わる。それは今、今この時。 渾身を込め叩き付けて彼の鮮血ぬぐわぬまま返す刃で己の喉元を切り裂けば、それだけで、総てが終わる。 楽になれる。そう、思った。 (…グレミオ) 異変が起きた。振り下ろそうとした刹那、グレミオの顔を見てしまったのがいけなかったのかもしれない。 意識の無いグレミオのその顔は、懐かしいグレミオの寝顔そのままで、いつしか、 斧を振りかざす腕がガタガタと震え出していた。 「………っ」 様子がおかしい。あとは振り下ろすだけだというのに、身体が硬くこわばり、固まったまま動けない。 どうか動けと、心の中で叱咤する。きしむほど斧を強く握ろうとも、ただ震えるばかりで、どうしても動かない。 (グレミオ) もう何も怖くないと思ったのに。この赤剥けの心にじわじわと染み渡ってゆく『それ』を認めるのは嫌だった。 グレミオの姿をこの瞳が映すたび、『ぼっちゃん』と呼ぶあの人の声が、 遠き日々が懐かしい想い出が脳裏いっぱいに溢れて、駆けめぐり、愛しいがゆえに生まれた殺意を削いでしまうのだ。 愛しいがゆえに生まれた、愛惜が、ただ胸に染み渡る。 (グレミオ…!) ねじ巻き人形のようにぎこちなく、ゆっくりと腕が下がり、やがて力尽きたように、 斧は床に転がった。屈みこんでその寝顔を見つめながら、おずおずと手を伸ばす。 「ごめん…最後だから……ごめんね…これで本当に、最後にするから……」 後でちゃんと殺してあげるから、どうかあと一度だけ。顔を寄せ、苦しげに囁きながら、 グレミオの薄い唇をそっと指でなぞった。 「お願い…もう一度だけ、夢を見てもいい……?」 ためらったのは一瞬。軽く軽く、ふれ合わせるように唇を重ねてみた。すると、 反射のようにセフェリスの閉じた瞳から涙がこぼれた。そして思い知った、 もしかしたらこの一瞬だけのために、今の今まで苦しみもがきながら生きながらえてきたのではないかと。 この、唇に、ふれる為だけに。 ふれる、いつも優しげな微笑みを浮かべていた唇に、 かさねる、何度も想いを込めてささやいてくれた唇に、 くちづける、数え切れぬほど甘くこの身体をなぞった唇に。 抱きしめた身体が、いとおしかった。 言葉が、出てこない。ただ涙だけが、とめどなく溢れてくる。 あなたのぬくもりがこんなに温かいなんて。 「…グレミオ……グレミオ…!」 愛しさで気が狂いそうで、もう一度唇にキスをしようとした、 その時。 「…クレナ……」 その時、 眠っているグレミオはわずかに身じろいで、あの女の名を口にした。 その時、 セフェリスのなかで、何かが音をたてて壊れた。 薄い硝子が割れたような透き通った音をたてて。 幼女のか細い悲鳴のような高い音をたてて。 「………れみお…ぉ…」 セフェリスのはちきれんばかりに見開いた眼には、もはやほんのわずかの理性も残っていなかった。 涙の所為で目はもうほとんど見えていない。意識の無いグレミオの発した一言だけがただ頭の中で響き続け、 セフェリスをここまで狂わせた。 「ぐれみお……ぼくもう我慢できないよ…もう耐えられない…よ……苦しくて…苦しくて…… おかしくなっちゃったみたい……ぼくもすぐ行くから、ね……?」 セフェリスは手探りで床に落ちた斧を握り締めると、幽鬼のようによろめきながら身体をゆっくりと起こした。 今度こそ、絶対的な殺意をもって、斧を振りかざす。 「ぐれみおだって…わるいんだから……おまえがうそつきだから……」 さあ、あなたが誓いを破った、この斧で殺してあげる。 「…だからぼくは……鬼になったんだ………!」 しかし振り下ろす直前、もの凄い勢いで部屋のドアが開き、甲高い女性の声が響いた。 「待って…!!」 クレナの叫びは悲鳴に近く、セフェリスは反射的に動きを止めた。 「ごめんなさい、邪魔をして……たった今…嫌な夢を見て、来てしまったわ」 クレナは走ってきたのだろう、乱れがちな息を整えながら、今にも泣き出しそうな顔をして、 けれど何か固い決意を秘めたような顔をして、セフェリスの元にゆっくりと歩み寄っていった。 「あなたが『ぼっちゃん』ね…?」 「じゃま、するの……?」 セフェリスの瞳は狂気に染まったままだ。下手に寄れば殺されかねない雰囲気だった。 だがクレナは恐れもせず、ひるみもせず歩を進めた。 「あなたの彼を見る目……本当はもっと前から気づいていたの……私が認めたくなかっただけで…」 「邪魔するなら……っ!」 動転するセフェリスが斧をクレナに向けようとした、その時、クレナはセフェリスの細い身体を固く抱きしめた。 思いのたけを込めて、力いっぱいに抱きしめた。抱きしめる腕がガタガタと小刻みに震えた。 それはクレナの震えか、それともセフェリスの。 「つらかった…のね……そんなになるまで、ひとりで耐えて……」 セフェリスの琥珀の瞳は驚愕に見開かれ、そして徐々に正気の色が明滅し始める。その光は、 次のクレナの言葉によって確かなものとなるのだった。 「彼はね、最初に目を覚ましたとき、あなたのことを覚えていたのよ……」 or 目次に戻る? |