静まり返った客間にノックの音が軽く響き、ランプの光と共にグレミオは部屋に入ってきた。 暗闇の中、ベッドで上体だけを起こしていたセフェリスはその光をまぶしげに見ると、 斧を守るように抱きしめてほの暗い視線をグレミオに送った。闇の中に浮かぶ思いつめた顔、 斧という凶器を手にしたセフェリスを、グレミオは恐れもせず、あえて問いもせず、 手にしていたランプと食事を乗せたトレイをテーブルに置き、部屋の蝋燭に火をともしながら、 いまだ涙の跡が残るセフェリスに、いつになく優しげな声音で語りかけた。 「明かりくらい、つけてくださいね……もう眠ってしまっているかと思いました」 「……………」 グレミオの表情も満足に確かめないうちに、セフェリスはフイと顔を背けた。 それでもグレミオの声が変わらず穏やかなことがセフェリスの胸をほのかに痛ませた。 「シチュー、持ってきましたよ。食べたかったんでしょう?」 トレイに乗っていた二人分のシチューを部屋のテーブルに置いて、グレミオは椅子に座るよう促した。 「…クレナさんは……?」 「食欲が無いそうなので、先に休ませました」 「そう、ですか………」 セフェリスは力なく呟くと、ゆっくりと身体を起こそうとした。なぜか全身が酷くだるくて、 大きな斧を抱いたままだから、体重移動がスムーズにいかない。 「立てますか…?」 自分を気遣う、優しい声。優しい声。今さらそんな声出さないで。グレミオの顔が怖くて見れない。 おびえるように顔を伏せたまま、グレミオの手を借りてどうにか席に着いた。 空腹感など塵とも覚えておらず、目の前のシチューの芳香にも食欲は刺激されなかった。 だが食べなくてはならないことをセフェリスは知っていた。スプーンを手に取ろうとして、 自分がいまだ斧を抱いたままでいることに気づいた。一瞬どうしようか迷って、 行儀に反すると思いながらも左手で斧を胸に抱きこんだまま右手でスプーンを持った。 「…いただきます……」 「口に合えばいいんですけど…」 …昔と同じ味であるはずがない。口に含んだ少しぬるめのシチューは、悪くない出来ではあったけれど、 かつてのグレミオが作ってくれた特性シチューの方が格段に美味しいはずなのは当然だった。でも、 「………おいしい…です…」 消え入りそうな声で囁いた。かろうじて耳に届いた感想にグレミオはほっと表情を和らげたが、 それを見るだけの余裕はセフェリスには無かった。 「…………」 セフェリスはそれきり黙りこみ、視線を伏せたままシチューを口に運び続けた。 そしてグレミオはふと気づく。セフェリスの、斧を手にした左手に次第に力がこもってゆくのが。 「…その斧……」 どうかしたのですか?…そう問おうとして、セフェリスはそれをさえぎるように首を振り、シ チューを食べる手を休めぬまま口を開いた。 「ぼくが愛している人も、銅の斧を持っていたんです」 「え……?」 唐突の言葉に、グレミオの食事の手が止まった。いや、誰よりも、セフェリス自身が自らの言葉に驚いていた。 「…女の人が、斧を……?」 不思議そうに少しずれたことを言うグレミオがなんだかおかしくて、セフェリスは軽く失笑した。 「男性です。女みたいに綺麗な人でしたけど。…ふふ、汚らわしいと思いますよね?」 「…そんなこと」 セフェリスは皿のシチューにぼんやりと視線をさまよわせ、 ほんの僅かにでもセフェリスを想って作られたであろうシチューを、グレミオのシチューを、 もはや満足に味わいもせずに次々とかき込みながら話した。 「その…斧でね、ずっとぼくを守ってくれました。誰よりも何よりもぼくだけを愛してくれました。 ぼくも彼のことが愛しくてたまらなくて…自分の命より大切でした。でもね……もう、いないんです」 「………セフェリス君…」 シチューからは昔の味などしなかった。痺れた舌には、苦いグレミオの味がした。そう、グレミオの。総て食らわねば。 「どこかにいるんじゃないかって、ずっと思ってて…でも……どんなに探し回っても… やっぱりいなくて……ちっとも前が…見えなくて……」 最後のひとすくいまで食べ尽くして、それでも口はまだ勝手に動き続けて、咀嚼の代わりに唇は小刻みに震えて。 痙攣はやがて斧にも伝わって、斧の柄がカタカタと椅子に触れて。 「あの人がいない世界でもがき苦しむことに…疲れきって……だんだん、自分が怖くなってくるんです ……もう、いっそ…………この命ごと」 しかしそれ以上の言葉を、グレミオは言わせなかった。 「でもセフェリス君は、まだ生きてるじゃないですか!」 「…………」 語気強く言い放たれ、セフェリスはまるで叱られた子供のようにじっと目を閉じた。 うなだれて黙り込むセフェリスに、今度はいたわるようにグレミオは語りかけた。 「…クレナも昔、前の夫を亡くしたとき、あなたのようになったそうなんです……」 「…………」 ―――あなたが昔の私と似てたから。 セフェリスの脳裏にふいとよみがえる、出会ったときの彼女の言葉。 「未亡人…だったんですね……」 「山の崖から川に落ちて、遺体すら見つからなかったと聞きました……でも、今ではあんなに幸せそうに笑っている……」 クレナは新しい幸せを見つけたのだ。新しい伴侶となる人を……けれどセフェリスは、 彼女のように新たな幸せを手に入れる自分なんて考えも出来なかった。 セフェリスはグレミオただ一人を愛すると誓った。…違う、最初からグレミオ以外を愛せないよう作りあげられてしまっている。 (…おまえのせいだよ) グレミオ、おまえのせいだ……幼いころからずっと……ぼくの何もかも…あまりにも、 あまりにもおまえに侵され過ぎてしまったから…… 「ぼくには無理だ」 『…ぼっちゃん……』 心のどこかで優しい声がする。いつもの幻聴だった。 「ぼくにはできない」 『希望を捨てちゃいけません……』 これまで数え切れないほどセフェリスを励まし続けた幻聴、幾度すがりついて、幾度だまされて。 『どうか、信じることを……』 「もう信じることも…できない……」 閉じたまぶたの裏にはいつだってグレミオがいる。けれどその面影は日に日に霞んでいく。 なのに幻聴は同じ言葉ばかりを繰り返すのだ。 『セフェリス君……希望を捨てちゃいけません』 「………?…」 まぶたの裏のグレミオがおかしなことを言った。「セフェリス君」だなんて。 『ほんの少しでも希望があれば、生きていけます』 これは、幻聴…?なの? (違う!) えっ……違う? (ちゃんと見て!) どうして?目を閉じているから、いけないのか…? 「…グレミ…オ?」 おそるおそる、目を開けたら 「どうか、信じることを、つらぬいてください……!」 そこに、 想い出と同じコトバと 想い出と同じ眼差しと 想い出と同じ優しさと 想い出と同じあの人が 「――――!?」 い、た。 それはまぎれもなく、目の前にいる青年が発した言葉だった。 「…そ…ん、な………」 もうどこにもいない、なんて…どうしてそんなこと思ったのか。 ここに。……ここにいるのに。このひとはグレミオなのに。記憶が無くったって、ぼくの愛したグレミオと同じ…… 「セ、セフェリス君…どうしたんです…!?」 熱い 目の奥がすごく熱い その熱は瞳からあふれ、頬を流れ、顎をつたい、首筋をおりて衣服の襟をぬらす、 絶え間なく、絶えることなく。名前を呼びたくて開けた口は固くこわばり、 息は声にならずただ肺に溜まるばかりで、その音は下手な笛のように滑稽に鳴った。 泣いてしまうの、嬉しくて 「…セフェリス君……」 涙が止まらないセフェリスにグレミオはハンカチを差し出した。 しかしセフェリスはそれを受け取ろうとせず、斧をぎゅうっと抱いて泣きじゃくっては首を左右に何度も振った。 グレミオは向かい合わせの席から立つと、セフェリスのすぐ傍まで来て、 手にしたハンカチでセフェリスの涙を丁寧にぬぐっていった。 「泣きたいときは……泣いていいんですよ…?」 「………っ、……み、…お………!!」 ねえ、グレミオ ぼくもう駄目かもしれない すごく、すごく溜めていたんだ すべてのかんじょうを おまえのいない時間と おまえといた想い出と 記憶の無いおまえとふれて生まれた すべてのかんじょうが ためて、たわんで、ゆがみきって いま、堰(せき)がやぶれる音を聞いたの…… …………すき。 グレミオがすき。だいすき。あいしてる。あいしてる。あいしてる。さわって。キスして。きて。だきしめて。 いっぱいだきしめて。ねえおねがい。もういちど……… 「……セフェリス君……」 だがグレミオは、ここで決定的な過ちを犯す。その気になればグレミオはセフェリスの真意を察することができたのかもしれない。 セフェリスが話す『いなくなった恋人』が、自分なのかもしれないと…… 「……よかったら、その斧、差し上げますよ?」 しかしグレミオがその結論にたどり着くことができなかったのは、 彼自身がそれを固く信じようとしなかったからなのかもしれない。 「私にはもう、必要の無いものですから……」 「……ッ…!?」 セフェリスが目を見開く。グレミオの言葉が信じられなかった。 この斧は、彼がセフェリスの次に大切にしていたもの。誓いの言葉とともにグレミオの想いが刻まれた宝もの…… 「少しでもセフェリス君の慰めになれば……もし過去を思い出すのがつらいというのなら、売ってしまってもいいですから」 「…だ……だっ…て…これ、…過去の……唯一…の……」 そしてこの斧は、今のグレミオとセフェリスをつなぐ、唯一ともいえるか細い糸なのだ。 それをグレミオは知らない。ああなんていう愚かさ。彼は知ろうともしてくれない。 「どの道、手放そうと思っていたんです。私には守るべきものができました。もう二度と過去を振り返らずに、 新しい人生を生きると、クレナと約束しました……」 「――――」 セフェリスはもはや表情を歪ませることすらもできず、ただ放心したかのように、 少しだけ戸惑ったような顔をして、涙はいともたやすく止まり、 薄く開いた唇は何の言葉も探せずに、まばたいて最後のひとしずくを零した瞳は目の前の男の真実を視た。 「……たとえこの先記憶が戻ったとしても、父親として、夫として、この家で生きることを選ぶでしょう」 「――――」 いったん溢れ出した感情はもう止まるすべを持たないのに、 行き場を失ったセフェリスの想いは、まるで雪崩のように、薄皮一枚で覆い隠した皮下の内側をことごとくなぎ倒し…… やがて「それ」はほのかな微笑となって、その片鱗を覗かせることになった。 「……落ち着きましたか?セフェリス君」 ゆるやかに浮かんだ少年の穏やかな微笑みを見て、グレミオは安堵したようだった。 「私のことは気にしなくていいんですよ。セフェリス君はまだまだ若いんですから、元気出してくださいね」 「ええ」 さっきまで取り乱していたのが嘘のようにしっかりした声が出て、 グレミオの表情がほころんだ。気が緩んだのか、忘れていたことを思い出す。 「あっ、そうそう、今日お昼に近所の方から苺を少しいただいたんです。甘いものを食べると気分が落ち着きますから、 今持ってきますね!」 グレミオの皿にはまだシチューが少し残っていたが、食べかけのままでデザートを取りに慌ただしく部屋を出て行った。 その途端、グレミオがランプを持っていってしまったせいか部屋の中が急に薄暗くなった。 「…………」 しばらくセフェリスは子供のように空になった自分の皿をスプーンでいじりまわしていたが、 やがて立ち上がるとベッドの横につくねておいた旅荷物をまさぐりだし、 ほどなくしてひとつの小さな薬包を取り出した。これはグレミオと共に旅をしていた頃、彼がセフェリスに持たせたものだった。 “もしもの時のため、護身用に持っていてください。何に混ぜてもかまいません。無味無臭ですし、即効性も十分です” この薬を受け取ったときのグレミオの言葉をぼんやりと思い出しながら、 セフェリスは機械的な動きで包みを破り、中の粉末をグレミオのシチュー皿に全て落とし、 スプーンで軽くかき混ぜた。ためらいは一切無かった。罪悪感すら無かった。 雪崩の後のただ白い雪原にこだまする幼い声も、セフェリスにはもはや聞こえていなかった。 ねえ…でも、それでぼくほんとうにまたしあわせになれるの……? or 目次に戻る? |