有罪だ…! 有罪だ、有罪だ! なんという、ワルキューレが父の意に背くなど! (な、に……言ってるの?) 罪には罰を。神性の剥奪を! あのヒンダルフィヤル山に幽閉を! (…なんだろう……ぼくのまわりで…ざわざわしてる……?) 「……よく聞きなさい。おまえの永劫の眠りが覚めるのは、『総てを恐れぬ男』の接吻を受けたその時…」 (この声は……父さん?…父さんなの?) 「そしておまえはその男と生涯を共にしなければならない」 (…生涯を…共に?) 「ヒンダルフィヤル山は、絶えず燃えさかる焔に包まれた山。 あの山の焔をかいくぐりおまえを目覚めさせるということは、おまえの為になら総てを恐れぬということだ」 (よくわからない…けど、ねえ、それってあの人のことだよね?ぼくの為にならどんなことでもしてくれて、 何もかもを恐れずに、誰よりも強くなれる人……そうだよ…ね?) 「その男となら、おまえも幸せになれよう……」 (うん……ねえ、ぼく幸せになれるんだよね?…父さん………) ぱらり… ぱらり…… 本のページをめくる音がする。セフェリスが妙な夢から目を覚ますと、 いつの間に日が落ちたのか客間はやや薄暗く、木製のテーブルに蝋燭の明かりが灯されて、 椅子に座り黙々と読書をする人物を陰影濃く浮かび上がらせていた。 そしてその人物は、本来いるべきではない人であった。 (………父さん……?) そこにいるのは、今は亡きセフェリスの父、テオ・マクドールその人だった。 テオは神妙な顔で分厚い本のページをめくり続けている。 セフェリスはまだはっきりとしない意識で父の姿を横たわったままぼんやりと眺めていた。 (…デア・リング・デス・ニーベルンゲン…?) 本の表紙に書かれた表題がちらちらとセフェリスの視界に入る。 どこかで見たことのあるような気がしたが、ひどく頭がぼんやりして、 記憶の中を探るほどの思考力がセフェリスには無かった。 やがてテオはひとしきり読み終えたのか、ぱたりと本を閉じて、静かに嘆息した。 「………むごいことだ」 重苦しい声で呟くとテオは肩を落とす。眉間に皺を寄せ、やりきれなさを滲ませた声をあげた。 「……既に脚本の完成された楽劇では、悲劇における破局的結末は避けられぬものかもしれん。 だが我らが生きるのは神々が見守る歌劇場などではない」 (……どういう…こと?) テオは、自らの息子が不思議そうな表情でこちらを見ていることに気づくと、ふっと表情を和らげて立ち上がった。 「起こしてしまったようだな」 枕元に歩み寄り、どこか不安げにしているセフェリスの両目を、節ばった大きな手でそっとふさぐ。 「もうすぐ金色の髪のジークフリードがやって来る。さあ、今しばらく眠りなさい、哀れなブリュンヒルデ……」 (ブリュンヒルデって?……なに…?) 「ぅん……それが…ぼくの、…?……」 うわごとのような自分の声で、セフェリスは意識が急浮上するのを感じた。 そして夢の終わりを知る。奇妙なまどろみではなく、 己の声帯から発せられる声を鼓膜でキャッチすることで、正常な五感がよみがえる。 はっきりと現実が感じ取れる。起きよう、そうだもう起きよう。目覚めのとき、まぶたを開いて闇の世界から色の世界へ…… 「あ、起きました?」 「うわぁ!!」 「わ!わ!?」 セフェリスがまぶたを開けると目の前に、それこそ視界いっぱいにグレミオの姿があって、 あわれセフェリスは思わず大声をあげて飛び上がった。無理もない、こんなに間近でグレミオの顔を見るのは、 もう長い間、夢かあるいは幻覚でしかありえなかったのだ。 一方でグレミオは慌てて屈んだ上体を起こしつつ、セフェリスのオーバー過ぎる悲鳴に目をしばたたかせている。 「いきなり大声出さないでくださいよ〜。びっくりしたじゃないですか」 自分の顔色はおかしくなっていないだろうか。耳に直接心臓がくっついてしまったかのように五月蝿い心音に戸惑いながら、 セフェリスは咄嗟に言い訳をした。 「…す…すみません…顔を覗き込まれるの、…苦、手で……」 「……あ…」 特別に親しくもない人の寝顔を覗き込むのは無礼なのだとようやくグレミオは気づき、申し訳なさそうに表情を沈ませた。 「そうですよね……悪いことしちゃいました……気分を悪くしないでくださいね」 気分を、悪く? (…ううん、違う、違うよ。本当はグレミオが顔を寄せてくれるの、好き) 悪くなんてない、全然、悪くなんてない。すごく、懐かしかった。グレミオはいつもこう、 顔を近づけて、ちょっとためらうように間をおいてから、優しくキスをしてくれるから。 「セフェリス君の寝ている顔、思ったよりずっと幼かったのが、ちょっと意外で……」 びく、と、グレミオの声に思わず反応して、セフェリスは上体を起こし青年の顔を見た。 「いくつくらいなのかな、って思ってるうちに、ついまじまじと見てしまって。……悪気はなかったんですが」 ―――ねえ?ぼっちゃんって、雰囲気は大人びてきましたけど、 寝顔だけはずっと14歳のままなんですよ。あどけなくて、可愛くて。ふふっ、 こうやって覗き込んでいるとね、愛しくて、愛しくて、愛しくて、我慢できなくなって唇をね、 こうやって………ん、ふれ合わせて。起こさないように、そっと、そおっとね。 そのときの気持ち、とても言葉に出来ないんです。この感覚は、きっと一生忘れられない…… 「『まじまじと見てしまって』……それだけ…ですか?」 「え、え??」 まったく予期せぬことを言われてグレミオが戸惑っている。…悪いことを訊いてしまった。 そう思うだけの余力はあるようだった。セフェリスは、本来のグレミオが見たらきっと「痛々しい」と表現するであろう、 微笑みを浮かべた。 (愛しいとかキスしたいとか、夢にも思わないんだね、きっと……) 「…なんでも、ないです……」 「それならいいんですが……どうです?少しは貧血、楽になりました?ちゃんと足高くして寝ましたか?」 「ええ、もう大丈夫です。すみません、何度も様子を見に来てもらって……」 あのときセフェリスは軽い貧血を起こしてうずくまってしまったのだった。その後グレミオに介抱してもらい、 わざわざ客間に昼食を運んでベッドの上で食べさせてもらった。 貧血には充分な食事と充分な休養です、とグレミオは言って、半ば無理やりセフェリスを寝かしつけて、 その後も時間を見つけてはセフェリスの様子を伺いに客間を覗きに来てくれたのだ。 (いつの間に寝ちゃったのかな……変な夢も見たし) 1時間ごと位の間隔で心配そうに様子を見に来るグレミオはセフェリスの体調をきっと心から心配してくれていて、 といっても、もし以前の彼だったら見ていてちょっと可哀想に思うくらい おろおろとしながらつきっきりでそばにいてくれたのだろうけど、 それでも、今のグレミオの中にセフェリスの記憶がなくても、 やっぱり彼に心配してもらえるのがどこかくすぐったく思えるのも事実だった。 「ぼく、どのくらい眠っていたのか判らないですけど…随分薄暗くなってきましたね」 「ええ、最後にここを覗いたときはまだ全然明るかったですからね。2時間くらい経ったんでしょうか…… 鶏がらのスープを煮込む加減がちょっと良くわからなくて、手が離せなかったんですけど」 「鶏がら?あ、そういえば夕食は……」 「そう!ご要望通りシチューですよ。ルウを使わないのは初めてですけど、 鶏がらと鶏肉をわざわざ手に入れて作ったんですから、 絶対にたくさん食べてもらいますからねっ!これから仕上げなんです。 そろそろクレナも帰ってきますし、準備が出来たら呼びますから、それまでもうちょっと休んでてくださいね」 「あ……」 セフェリスが言葉を挟む隙もなくグレミオはぱたぱたと部屋を出て行ってしまった。 慣れないシチュー作りの合間を縫って来てくれたのだ、仕方ない…… そう思って、セフェリスは生ぬるいベッドに体を沈めて布団をかぶりなおした。 「…………」 何度か寝返りをうちながら、さっきまでの夢の感覚を思い出そうとする。 目が覚めてすぐに寝直せば夢の続きが見れるはずだけど。 「…目が冴えちゃった……」 しばらくじっと目を閉じていたが、なんとなくうずうずと身体が動きたがっているような気がして、 身体のバネを使ってよいしょっと起き上がるとセフェリスはベッドから降りた。 起きてそして何をするか、という考えはセフェリスには全くなかった。ただ何となく、足はキッチンの方向を向いていた。 「寝すぎると変な夢見るっていうしなあ……」 何とはなしにつぶやいた言葉だったが、口にするといやに気になった。変な夢。確かに変な夢だったように思う。 特に耳に残るのは、父親の最後の言葉だった。父は自分をなんと呼んだ? 「『ブリュンヒルデ』って……確か、何かの神話で……」 どこかで見た名前であることは確かだった。しかし記憶の引き出しを探っているうちに、 キッチンで夕食の支度をするグレミオが視界に入り、セフェリスの思考は中断した。 「…………」 グレミオは料理本とにらめっこしながら調理にいそしんでいる。その表情は真剣そのもので、 セフェリスがキッチンに入ってきたことにも気づかないほどだった。 そういえばさっきルウを使わないシチューを作るのは初めてだと言っていたことを思い出す。 初めての挑戦に必死なのだろう。無理なお願いをしてしまったのだ、少し、申し訳なく思った。 セフェリスはキッチンの入り口からゆっくりと数歩進んで、 かつてのグレミオだったらセフェリスの気配をちょうど察してくれるだけの間隔をあけて立ち止まった。 鍋の中が見える。クリームシチューのようだ、ちょうど仕上げの段階らしい。 (……気づいて、くれないね。やっぱり) グレミオはことセフェリスに関してだけは鋭い面があった。セフェリスが近づけば察してくれたし、 何をしてもそのときどきに一番合った対応をしてくれた。 だから急にくすぐったって昼間みたいにあんな大きい声を出すことなんてなかったのに。 (それなら今度は、耳をひっぱってみようか?) 無駄だよ、と声がする。そんなことしたって無駄だよ、と。怖くて手を伸ばせない。まさぐっても、 まさぐっても、ただ虚空を掻くばかりで、愛しい人はこの小さな手を取ってはくれないのだから…… (でも……あきらめたら…だめ………) 「もう…昔から言ってるでしょう?火や刃物を使ってる時は大人しくしててくださいって」 「だってグレミオにかまって欲しいんだもん」 「いつもかまってるじゃないですかぁ」 「……もっとかまって欲しいんだもん…」 「ふふ、手のかかるところはシチューにそっくりですね」 「そんなにシチューのことが、大事?」 「ええ。正確に言うと、そのシチューをおいしそうに食べてるぼっちゃんを見ることが、ですけど」 「…………///」 「だから、シチューに嫉妬したりしないでくださいね?」 「……わかったよ…じゃあ、せめて、こうしてていい…?」 それなら、あのときみたいに抱きついたら?おまえの腰に腕を回して、背中に顔をうずめて、 ぎゅうっと身体をくっつけて、おまえの芳香を思いっきり吸い込んで、 とびきり甘い声で『ダイスキ』って言って……甘えたい。 (溺れたいよ……グレミオ……) グレミオでまみれてしまいたい。グレミオの胸に抱き締められてその香りで全身をくるまれたらもう、 その瞬間に死んでもいい。お願い、早く思い出して。あんまり長く、耐えられそうにない…… 行き場のないまま渦巻くばかりの想いは、放っておいたらこの心臓を突き破って引き裂いて溢れて暴走してしまうから。 「どうしたの?そんなところにぼーっと立って……」 突然背後から声がして驚いてセフェリスが振り返ると、いつの間にかクレナが戻ってきていた。 「あ、いえ…何でも……」 そのやりとりにようやくグレミオも二人に気づいたようだ。シチューをゆるくかき混ぜながら振り向いた。 「あっ、クレナにセフェリス君……いたんですか」 「ただいま、グレミオ。ちょっと遅くなっちゃったけど、夕食に間に合ったみたいでよかったわ」 クレナがかまどにかけた鍋にちらと視線をやると、それに気づいたグレミオは嬉々として表情を明るくさせた。 「そう、今日シチュー作ってみたんですよ!セフェリス君のリクエストで。 この本の通りに作ったので、結構本格的な感じになったと思うんです。ちょっと味見してみてください」 「ふうん…ホワイトシチューなのね。おいしそ……」 クレナは受け取った味見用の小皿に顔を寄せて、しかしその瞬間顔色を変える。 小皿を床に取り落としたことにも構えないまま唐突にキッチンから走り去ったのだ。 「クレナ!?」 驚いたグレミオが慌てて後を追う。そのときセフェリスは、 なんとなく気持ちが悪いような奇妙な感覚にとらわれた。 体の中で虫がうごめき這い回るような、むずがゆいというよりは怖気が走る類の感覚だった。 「……?」 よく訳の分からないままにセフェリスもキッチンを出た。 二人が走っていった方に足を向けると、ほどなくして洗面台の前に二人の姿を見つけることができた。 嘔吐が治まったクレナをグレミオが心配そうに支えている。 「大丈夫ですか?クレナ……」 「…グ…グレミオ……」 嘔吐した所為で息をきらせて、クレナは何かに畏怖するように小刻みに震えながら、たどたどしく話し始めた。 「あ、のね……ここしばらく、月のもの、来てなくて……もしかしたらっ…て…思ってて……でも…でも、やっぱり……!」 「え……?」 クレナは戸惑った様子のグレミオの手を取ると、その手を自らの下腹部―――ちょうど子宮の辺りにあてた。 そのとき発せられたクレナの告白の言葉はまるで鈴の音のように高く透徹と尖り、 鋭利にも高周波のごとく内側から脳を破壊せしむようでまさしくその瞬間時は止まったのであろう、 グレミオにとっては良い意味で、セフェリスにとっては残酷な意味で。 一瞬だけセフェリスの脳裏を駆け抜けて行ったのは、想い出の中で彼が口にした一言だった。 ―――私は欲しくないです。 セフェリスは、目の前のグレミオの顔がだんだんと喜びにほころんでいく様を自分はどう感じているのか良く分からなかった。 ただ彼の笑みをかたどった唇から祝福の言葉が発せられるのをどうにかして止めたくて、 ただそれだけで、セフェリスは声を上げた。 「…よかったね。赤ちゃんが出来て」 浮かべたのは氷のように酷薄な笑顔。あまりにも抑揚のない声が響いた。 「よかったね。幸せになれて」 「…え……?」 幸せなはずの夫婦はセフェリスのその声音と表情に色を失った。 セフェリスはグレミオただ一人をまっすぐに見つめながら、 平坦な声が徐々に震えてくるのをまるで他人事のように耳にしていた。 「そうやって幸せになればなるほどそれを失ったときの絶望は増していくばかりだなんて考えたことも無いんだよね……?」 「…セ…フェリス……君…?」 視線の先のグレミオが霞んだ。かすかに塩の味がして、自分が涙を流していることを知った。 けれどそれ以上のことを、絶対に知りたくなかったことを、今セフェリスは知った。 もう、このひとは、『ぼくのグレミオ』じゃない…… 「『あなた』となんて出会わなければよかった……!」 「…セフェリス君!!」 走り去るセフェリスの後をグレミオは追おうとしたが、 クレナの苦しげな呻き声でその足が止まった。つわりがまた襲ってきたのだ。 「ク、クレナ!?しっかりしてください…!」 このときのグレミオの選択は、責められたものなのだろうか。 セフェリスの涙を止めることよりもクレナの苦痛をやわらげることを選んだ。 そのことは結果的にセフェリスに追い討ちをかけることになった。 しかし、果たして、責められたものなのだろうか…… セフェリスは廊下の壁にかけられたグレミオの斧をつかんで客間に駆け込み、 ベッドにくずおれてただひたすら斧を抱いてはこみ上げる泣き声を喉の奥でかみ殺した。 「……っ、…くぅ……ひ…ッ……う、うぅ……」 かたく、かたく斧にすがりつき抱きしめて、大声を上げて泣きたくなる衝動をこらえ、 それでも涙は止まらずに次々と溢れて、独り、独りきり、来もしない男に焦がれて。 (…馬鹿みたい…ぼく……勝手に八つ当たりなんかしたりして) 嫉妬がこんなに罪深いものだったなんて思わなかった。 (……ぼくも欲しかったんだ……グレミオとの赤ちゃん……) ―――私は欲しくないです。 時折、自分が女だったらと思うことがあった。いつだったか冗談めかして…ほとんど本気で『赤ちゃんが欲しい』と、 子宮の無い身体を悔やみながら言ったことがある。するとグレミオは即答した。 それはセフェリスが老いることのない紋章に呪われた身であるからなのだろうかと、一瞬思ったけれど。 ―――だって、赤ちゃんなんてできたら…私、すごく嫉妬しそうですから。 その言葉に思わずあっけに取られてしまった。惚けてるうちに、ちょんと軽く唇をついばまれて目をぱちくりさせると、 間近にグレミオの意地悪な微笑みが見えた。 ―――ぼっちゃんはグレミオだけ見ててくれなきゃ嫌です…… セフェリスへのわがままと思いやりで溢れた言葉。その言葉があまりに嬉しくて。 思い知った。自分が本当に欲しいのはグレミオだけだと。 「…じゃあ……ぼくもグレミオしかいらない……グレミオだけいればいい…から………」 ああ、何故届かないのですか。手を伸ばしても伸ばしても。求めるものはたったひとつだけ。 あの人が欲しい。あの人だけが欲しい。あの人しか欲しくないのに。手を伸ばしても伸ばしても、 何故届かないのですか。あの人さえ手に入れば、もう死んでもかまわないから! あの人さえ手に入れば もう、死んでも―――死なせても……… or 目次に戻る? 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