グレミオに抱かれて見る夢はいつも蜂蜜のように甘い。 たとえ怖い夢であっても、グレミオが傍にいると思うだけで、 目が覚めた瞬間に忘れてしまえる。幸せな夢から幸せな現実へゆっくりと意識が移行していく過程はとても心地よくて、 いつまでも漂っていたくなる。寝ぼけたまま甘えてグレミオにすり寄ると、彼はくすくすと笑って髪を撫でてくれる。
「起きちゃいました?もう少し寝顔を眺めていたかったんですけどね」
「う…ーん…?」
「まだ寝てていいですよ。昨日無理をさせてしまいましたから」
「…ん……ぐれみお…」
「朝食何にしましょうか…といってももうお昼なんですけど」
「ね…グレミオ……」
「どうしました?ぼっちゃん」
「…………好き…」
「……愛してます」
「グレミオ…好き……グレミオ」
囁きながら唇を寄せてキスをねだる。触れ合わせた瞬間、その感触の予想外な無機質さに驚いて目を見開くと、 セフェリスが抱いていたのは、彼の斧だったことに気づいた。
(……ああ、そっか。あのまま斧を抱きしめて寝たんだった…)
自分の体温が移った斧の刀身を撫でながら、落胆のため息をつく。この一年というもの、 たびたびセフェリスを惑わせた夢。醒めた途端に待っているのは冷たくて淋しい現実で、 けれどため息だけで済んだのは、この胸のうちに芽生えた微かな希望のおかげだった。
「………大丈夫。信じてるよ……きっとグレミオの記憶は戻る。そうしたらきっとおまえは、 おまえ自身の意志で、帰ってきてくれる。…大丈夫……大丈夫だから……」
その時までせめて、グレミオの笑顔が壊れることがないように。たとえこの小さな胸がとめどなく血を流そうと、 静かに彼を見守っていたい。一緒に眠れなくても、キスできなくても、グレミオの存在を感じていたい。
(グレミオは…もう起きてる…かな……)
部屋がかなり明るいから朝ではないことがわかる。身体を起こし、窓から空を見て少し驚いた。 陽がほぼ中天に達している。こんなに寝坊をしたのはひどく久しぶりだった。 ここ一年はいつも眠りが浅くて、あまりよく眠れなかったのに。
「……おまえのおかげだ」
腕の中の斧にもう一度キスを贈った。すると唇がかさかさに乾いてしまっているのに気づく。 少し喉も渇いていた。部屋を見回すと、ベッドの傍の小さなテーブルの上に、水差しとメモが置いてあった。
『ぐっすり眠っているようなので起こさないでおきます。今はしっかり身体を休めてください。水を置いておきます。 午前中は私が、午後は夫が家にいるはずなので、おなかがすいたら気軽に声をかけてください クレナ』
朝、クレナが様子を見に来たのだ。あるいはグレミオも一緒だったのかもしれない。 ふと気になった。斧はちゃんと布団に隠れていただろうか。もし抱いて寝ていたのを知られてしまったとしても、 うまく言い訳できそうになかった。メモには変わった様子はないので、何ともいえないのだが。
(……怪しまれないように、斧、戻しておかなくちゃ……)
柄に布を巻き直し、廊下に出て、元通りの場所に戻す。……ちょうどセフェリスの目線の高さの壁に掛けられた斧。
(ほんとは毎日抱いて寝たいけど、そうも言ってられないよね……)
じんわりと愛惜がこみあげてくる。今しばらく離れがたくて、壁に手をついて身体を寄せた。 もう一度だけ、あと一度だけキスをしたい。ゆっくりと顔を近づけていく。 相手は物に過ぎないというのに、恐ろしいほど心臓が高鳴るのが不思議だった。
(っ!…誰だ…!?)
控えめな足音がしてセフェリスは咄嗟に壁から身体を離した。 こちらへ向かってくる。ほどなくして廊下の角を曲がってきたのは、赤毛の女性の方だった。 胸によぎった落胆と安堵は完璧に隠し切る。
「あら、セフェリス君。ちょうど様子を見に行こうと思っていたのよ」
そう言ってにっこりと微笑むクレナ。その感じはいつもと変わらず、ふとセフェリスは気がかりなことを思い出した。 自分が斧を持ち出したことはばれていないのだろうか。
「あの……クレナさん、この斧って………」
「えっ?斧がどうかしたの?」
さりげなく斧のことを口にするが、クレナはほんのわずかに目を丸くして訊き返してくる。 …やはり気づかれていなかったのだろうか。セフェリスは適当に言い繕うことにした。
「……ちょっと珍しいなって。こんな大きな斧、樵でもない家に置いてあるなんて」
「……そうよね」
クレナはやや神妙に斧をじっと見つめると、その細面にほんの少し悲しげな色を浮べた。
「この………斧はね、ちょっと特別。彼の過去の唯一の手がかり」
「……唯一…の?」
「そう、彼は、………そうね、これは……ゃ…話しておいたほうがいいわね」
まるでうわ言のように、よく聞き取れない声で呟くと、クレナはくるりと明後日のほうを向いた。そしてはっきりとこう言った。
「彼はね、記憶喪失者なのよ」
「…………」
彼女があちらを向いているのが有り難かった。セフェリスの表情がほんの僅かに歪んだ。 よりによって、貴女がそれを言うのか。何も知らない顔をして…… セフェリスの胸に去来したのは憎悪や嫉妬ではなかった。ただ酷く、皮肉だと思った。
「…廊下で立ち話はあんまりよね!セフェリス君、おなかすいてる?傷は痛まない?」
突然クレナは高い声を出してこちらにふり返る。まくしたてるように気遣われて少しあっけに取られながら、一応うなずいた。
「いいえ……少しだけ、喉が渇いて…」
「じゃあお茶にするわ。台所に行きましょう。最近はまってるの、濃い目のアッサム。蜂蜜をたくさん入れてね」
クレナは微笑んでダイニングへセフェリスを招くと、セフェリスは迷わず付いていった。 確かに皮肉だと思ったが、それでも聞きたかった。グレミオがなぜ今のようになってしまったのか。
キッチンに入るとクレナはまずセフェリスをテーブルにつかせ、お湯を沸かす間に、 茶葉や食器を出したり、蜂蜜やミルクの用意をする。しばらくカチャカチャと磁器の響きだけが静かに音を立てていたが、 やがてポッドやカップが温まったころ、ようやく思い出したように口を開いた。
「……ちょうど1年くらい前になるわ。偶然通りがかった川岸に、倒れていたの。 かろうじて息はあったけど酷い怪我でね、近くにお医者さまがいなかったから、 水の紋章を持っている私が看病を引き受けることになったのよ」
「…川?……このあたりに川なんて…」
「ああ、ここからずっと南西にある町まで、薬草作りの組合の何人かで薬を売りに行っていて。 その帰り道に。村の男の人も一緒だったから、意識の無い彼を運ぶのを手伝ってくれたの」
この村は街道すら通っていない、孤島のようなものだ。そのせいで、見つけるのにこんなに苦労したのだ。 クレナの親切心がセフェリスたちを引き離した。果てしもなく長かったこの一年が遠く感じる。
「……何日も意識不明だったけれど、どうにか一命をとりとめたわ……ただ、……。彼は自分の名前しか覚えていなかったの」
出された紅茶は、蜂蜜が入っているにしては苦く感じた。ただそれが表情に出なくて何よりだと思う。 味覚はとうにおかしくなっている、慣れたものだ。
「…『グレミオ』が本当に彼の名前なのかも実は判らないのよ。 ただ、『グレミオ』って強く誰かが叫んだのを…たぶん彼のことをそう呼んだこと、それだけを、 かろうじて覚えていたというだけで。家族の顔や住んでた町の景色の断片すら覚えていなかった」
確かにセフェリスはあのとき、崖から落ちるグレミオに向かってそう叫んだ。 その声が彼の印象に深く残っていたということだろうか? いずれにせよ、その『誰か』は今、ここにいる。それを話すつもりはセフェリスには無いけれど。
「彼の過去を物語ることができる唯一のものが、さっきのあの斧……正確には斧の柄に刻んであった文字だったの。 『いかなる時も、どんなことがあっても、私はぼっちゃんをお守りする』……あれは…誓いの言葉ね…… 彼が刻んだものだとしたら、彼は誰か身分の高い方に仕える人だったのかしら。 または彼自身が高貴な生まれで誰かに贈られたという可能性も…いいえ、たぶんそれはないわね、 彼が身に着けていたものはすべて質素なものだったから」
ふとセフェリスは自らの出で立ちを思う。グレミオと旅をしていた頃は彼が何かとさりげなく気を遣ってくれていたが、 ここ一年はそんなこと顧みもしなかった所為で服はところどころ裂けたまま、 満足に湯も使ってないから薄汚れている。とてもじゃないが『高貴な生まれ』には見えないだろうと思うと、少しおかしかった。
「とてもよく鍛えられた斧で、きっと大切にされていたのね。 その所為か、彼は目覚めてからあの斧ばかり眺めていた……まるで、すがるように」
「…………」
セフェリスの目の色が僅かに変わった。クレナは手元のティーカップに視線を落とすと、ふふ、と儚く笑った。
「そう……想像できないかもしれないけれど…彼ね、少なくとも、今とはまるで別人だったのよ…… ショックでひどくふさぎこんでいたわ………」
紅茶のゆらめきに視線を留めたまま、クレナは少しの間だけ、口を閉ざした。
「………。ううん…もう過ぎたことよ。今はあんなに元気だもの。こんな暗いこと話したって…」
「話してください」
無意識に口をついた強い語勢。ああ、こんなにはっきりと言葉を口にしたのは、いつ以来だろうか。
「……セフェリス君」
「…話してください」
セフェリスのその様子を、クレナはどう思ったのだろうか。 憂い顔はただ静かに変わらず、どこか淡々と長い話を語り始めた。
「………意識が戻ってからは、日がな一日、ベッドの上でね、斧を手にして、 じっとそれを見つめているの。思い詰めた顔をして」
―――総てを忘れるということ…自らの歴史を無くすという感覚があなたには想像できますか? 心はそのままに体だけ赤ん坊に戻ってしまった感覚です。 それは赤ん坊そのもので、けれど赤ん坊とは明らかに違う。
―――そうね…赤ん坊は笑うけれど、あなたは悲しい顔ばかりしているもの。
―――きっと笑うことも忘れてしまったんでしょう。
「特に夜はすごく精神的に不安定になるみたいで……それがあんまりにも苦しそうで、 私見てられなくてね…何も考えないでどうか眠って、って言ったらね、彼はとても怯えた目をして呟くの」
―――どうして陽は沈んでしまうのですか?
「怖い夢ばかりを見るんだって。暗闇のなかで、ただ、何かがうめくような苦しむような声がずっと聞こえるんだって……」
(…………夜…、怖か……た…?……)
「ほどなくして……私まで似たような夢を見るようになってしまって、 それがますます彼を追い詰めていった。『こんな得体の知れない人間を助けたりするから悪夢がうつったんだ』って 、酷薄な感じに嘲るように笑って、傷は癒えていくのに心はすさんでいくばかりで、 彼はね、傷はもう平気だから、これ以上自分にかまわないでほしいって言っていたけれど、 私は…余計に彼を放っておけなくなったの。…彼の本心がとても繊細で優しいこと、わかったから」
(……苦しか………った?…)
「静かに、彼は病んでいった。このまま一生記憶が戻らないんじゃないかって不安がつのる一方で、 いつしか夢のうめき声は彼が起きているときにすら幻聴として聞こえるようになった… けれどその声が聞こえると体中に激痛が走るみたいで、それこそ身体が引き裂かれるみたいに痛いって言ってた…… 彼はその声をすごく怖がるようになって、それに比例するかのように幻聴は酷くなっていったの」
―――あの声が離れない!……私をさいなむあの声が。
「私は出来るだけ彼から離れないようにしてた。ちょっと目を離した隙に、彼の存在が春の日の陽炎みたいに、 ふっと消えてしまいそうな気がしたから……すごく、嫌な予感がしたの。怖かったの…私も」
私も、彼も。
「だから私、ある晩にね、一緒に寝ましょうって、言った。そのとき彼はもう自嘲の笑みすら浮べられないほど弱っていた」
―――そんなこと言うと犯しますよ。
―――犯したいなら犯せばいいわ。
「結局彼は私に指一本触れなかったけれど、私は別の意味で後悔することになった。 その晩、私が意識のある間ずっと……彼が懸命にあの激痛を堪えて、呻き声を噛み殺しているのが伝わってきたの」
―――本当に…本当にこれでよかったのかしら?
「その翌朝のこと。雨がしとしとと降る早朝だったわ。いつもより早く目覚めてしまったのに私の隣に彼の姿はなくて、 ……嫌な予感は当たったんだって、すぐ悟った…女の勘でね。私はあわてて外に飛び出して、 迷わず村の出口の方に走っていくと、彼は裸足のままあの斧だけを引きずって、 おぼつかない足取りで村を出て行こうとしていた。まるであやつり糸に引っ張られる人形のようにね」
―――駄目よ、止まって!何処へ行くの…!?
「私は彼にしがみついたけれど、それでも彼は弱弱しく抵抗するの。ずっと遠くの方を見つめたまま」
―――呼んでる………行かなきゃ……あの声は私を呼んでるんです……
―――しっかりして、そんな声どこからも聞こえないわ。あなたは少しだけ疲れているの。 何か温かいものを飲んでゆっくり休んだら、きっとよくなる……!
「肩を掴んで強引に私の方を向かせると、彼、とてもつらそうに顔を背けるのよ……人の気も知らないで」
―――もういいから…行かせて…お願いです……見捨ててください……私は何もかもを持っていない… 本当に、何にもないんです……ここにいちゃいけない…あなたの重荷になるだけなのに……
「ふふ……何て、何て勝手なことを言うのかしら、って思ってね……だから私、言ってやったの」
―――あなたは何にもわかってないわ!!

「……クレナ?」
そのとき、グレミオがダイニングに入ってきて話は中断した。セフェリスの姿を認めると彼はにこにこと愛想良く笑った。
「ああ、セフェリス君起きたんですね?」
「あらおかえりなさい……畑の方はどうだったの?」
「マジョラムの成長が少し遅い他は、問題ないと思いますよ」
立ち上がったクレナに歩み寄るグレミオ、それを強張った表情で凝視するセフェリス。 その心境はいかなるものか。グレミオは何も知らず、クレナの頬に挨拶のキスをした。
「………ミオ…」
痙攣のように動いた唇は誰にも知られることなく。
「お昼はまだみたいですね。セフェリス君、身体は大丈夫ですか?」
自分を見やるグレミオの笑顔に過去の面影はなく。
「……………」
セフェリスは何も言えず、じっとグレミオを見つめて黙り込んでしまう。 その様子にグレミオが少し不思議そうな顔をしてクレナの方を見ると、 彼女はテーブルの上のティーセットを指差してみせた。
「ちょっとお茶してたのよ。あと、…ごめんなさい、あなたが記憶喪失なこと、 セフェリス君に話しちゃったわ…ちょっとびっくりさせちゃったみたい」
「全然かまいませんよ?話して困ることもないですし、ねえ?」
何事でもないように笑うグレミオ。いたたまれず、セフェリスは蚊の鳴くような声を絞り出した。
「………グレミオ…さんは……」
「……?」
「…もう平気……なのですか?」
「え……っ?」
グレミオの柔らかな微笑みが数瞬行方をくらませる。そして困惑が浮き上がる。 それはまるでセフェリスの顔を合わせ鏡に映したように。
「…そうでもないわ。彼ね、悪い夢や幻聴こそ治まったけれど、 やっぱり時折自分の過去が気にかかるみたいで……ねえあなた、たまに斧を磨いてたりするものね?あと他に…」
クレナは努めて明るい声を出したが、それを遮るようにグレミオは口を開いた。
「いいえ……いいえ。大丈夫、です」
僅かに目線を伏せて、回想する、静かな声。
「私はもう大丈夫です。だってあのとき、クレナが……」
―――あなたはわかってないわ。あなたはかけがえのない物を持っているのに。
「…私の中には何も残っていなかった。存在価値すらないと思っていたけれど」
―――あなたの温もりと、あなたの息づかいと、あなたの鼓動が。
「『私には今のあなたが必要だから』って言ってくれたから……」
―――あなたがただそこにいるということが私をどれだけ救ってくれたか。
「嬉しくて…嬉しすぎて………」
まなじりから零れ落ちたものを慌ててぬぐって、グレミオは童女のように破顔した。
「…あはは……また…泣いちゃいました……」
なんて 温かな 笑顔
「…………」かつてぼくにだけみせてくれたそのかおをこのおんなのまえでもさらすというの?
この心 なんて 凍え

『……おまえの…せいで……』

ガタン!
「………っ…」
突然けたたましい音が鳴ったと思ったら、クレナがテーブルに両手をついて立ち上がっていた。 俯いた横顔に赤い髪がかぶさり、グレミオからは彼女の表情は伺えない。
「クレナ?」
「クレナさん…?」
「薬草の組合、私、今日当番なの。そろそろ行かなくちゃ」
クレナはどうにか平静な声を出す、青ざめて強張った顔を隠すように壁掛けの時計を見た。
「ええ、それは知ってますけど……あ、でもまだお昼が」
「私は…今日は向こうで食べるからいいわ。あなた、悪いけれどセフェリス君に何か作ってあげてね」
「ク、クレナ…?」
困惑した声をあげるグレミオと視線すら合わせられず、 クレナはそのまま逃げるようにダイニングを去った。足早に家の外まで出ると、 吹き付けた生ぬるい風が身体を冷やした。背中に酷い冷や汗。耳にまざまざと蘇る悪夢。
「…あの…声……」
あの少年に話さなかったことがある。確かにグレミオを苛んでいた悪夢と幻聴はあれきりぱったりと治まった。 しかし一方で、自分はいまだに……
「…そんなことないわ、あれは夢だもの。そんなことない、そんなことないわ! …だっ…て……私が…悪いんじゃないもの……」



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