「……私の名前はクレナよ。『あざやかな赤色』っていう意味らしいの。 このとおりの赤毛と赤眼だから……ひねりがないわよね」 「セフェリス君はその歳で一人旅なの?あ、旅人のことはあんまり詮索しちゃいけないのよね」 「それにしてもあなたは少し痩せすぎよ……ちゃんと食べてるの?」 「私が料理作ってあげるわ。ロールキャベツとか得意なのよ。あとお粥もいいわね」 クレナと名乗った女性は、年の頃は20代後半くらいだろうか。村娘らしいおっとりとした平凡な顔立ちだが、 人好きのするふわりとした微笑みと、柔和で善良な気立てが彼女を愛らしい魅力的な女性に見せていた。 …少しおせっかいなところも何処か彼に似ている。 クレナはセフェリスの身の上を訊かない代わりに自分のことや村のことを道すがら話した。 この村は薬草と香草の栽培が盛んで、彼女の両親も薬草を育てては薬売りをしていた。 両親共に亡き後は一人娘のクレナに畑や家が残され、それで生計を立てているという。 「でも、村の方が紋章を宿しているなんて……」 「ああ、これはね、両親が亡くなる前にお祝いにくれたの。大抵の怪我はおくすりでなんとかなるのだけれど、 水の魔法の方が治りがいいからって、結構役に立ってるのよ。 村にはちゃんとしたお医者様がいないから、いろんなところから怪我の治療に呼び出されたりとかして…」 やがてふたりは一軒の家に着いた。村の他の家と比べると、小奇麗な家屋や調度品など、ある程度裕福な雰囲気が伺える。 紋章の封印球を買ったともいうし、彼女の両親はちょっとした小金持ちだったのではないだろうか。 「ここが私の家よ。ちょうど客間にしようと思って空いてる部屋があるわ。そこを使ってもらうわね。 今から夕食作るけど…何がいいかしら?卵粥は好き?」 「…あ、はい」 ダイニング兼キッチンへ入るとクレナは馴れた手つきで材料をざっと確認していく。 その様子にセフェリスはなんとなく彼を思い出して、子供の頃あの人が料理をするのをわくわく見ていたように、 じっとクレナの姿を眺めていた。 「あ…やっぱり卵、2人分しかないわ………今日は豆腐粥にしましょ」 さきほどからちらちらとセフェリスの目に入っていた、彼女の左手の薬指にはまった指輪を見て、ふと訊ねた。 「旦那さんと2人暮らしですか?」 「えっ…?ああ……そうよ、…なんだか恥ずかしいわね。まだ結婚して3ヶ月程度なのだけど……」 つまるところ新婚なのだ。その初々しい、幸せそうな姿にセフェリスは知らず目を細めた。 「セフェリス君は夕食ができるまで休んでてね、傷が塞がりきってないんだから…ああ、いけないいけない、客 間の場所も教えていないんだったわ。今から案内するから」 キッチンを出ると、クレナはゆっくりと歩きながら家の簡単な間取りを説明した。 「…そっちがリビングね。バスルームはあっちの方で、あの廊下の奥が寝室になっているの」 結婚してからクレナは、これまでの一人用の部屋から両親の部屋に移動した。 そのため以前使っていた自分の部屋を客間にしようとしていたのだという。 「……で、こっちの奥の方が客間…………あら?」 クレナがふと振り返ると、セフェリスは後ろの方で立ち止まってしまっていた。 「…どうしたの?セフェリス君」 「……………」 セフェリスの目は一点を凝視していた。目を見開き、ただ呆然と立ち尽くして。 (…これは……まさか……) 視線の先にあったのは、壁にかけられた一振りの銅の斧だった。 柄に緑の布が巻かれた、やや大振りの斧。それはセフェリスの記憶にある彼の斧とあまりに酷似していた。 いや、酷似どころか…… (なんで…こんなところに………) 「ああ…それは、私の夫の斧よ」 「…………………え?」 耳がおかしくなったのかと思った。 (今、………何て…?) じゃあこれは良く似た別の斧なのか?本物は布の下に誓いの言葉が彫られている。 あの緑の布を解けばすぐにわかるのだろうけど…… 「クレナ?…お客様ですか?」 「あら、あなた、おかえりなさい。戻っていたのね」 「ただいま、クレナ」 そのとき聞こえないはずの声が聞こえた。朽ち果てそうなほど長い間探していたはずの声が。 そして今は決して聞こえてはいけない声が。 (……『あ』『な』…『た』……?) 螺子の抜けたからくり人形のように、セフェリスは不自然な動きで、歯車をぎちぎちと軋ませながら、 ゆっくりと、ひどくゆっくりと顔をそちらに向ける。あまりにも己の所作が緩慢過ぎるのは、 必死で抵抗するもう一つの意志の所為だろうか…? ―――だめ!見ちゃだめぇ!見ちゃったら、もう―――! そのもうまくに、映ったのは、クレナの頬に挨拶のキスを贈る長い金髪の青年…… きつめの整った顔立ちに柔らかな微笑み、翡翠色の瞳に二つとない頬の十字傷。 セフェリスが焦がれて焦がれて狂いながら焦がれて求め続けた人―――その有り得ない光景。 この瞬間よりセフェリスの脳は一切の思考を止めた。心からありとあらゆる感情が消えうせた。 身体中が雪のように白き灰になってゆくようだった。『セフェリス』の外殻だけを残してその中身はほろほろと、 まさしく灰のように崩れ落ちた。 「あ、セフェリス君、紹介するわね。私の夫のグレミオよ。…あなた、こちらが旅人のセフェリス君。 いろいろ私のこと助けてくれたの。怪我をしているし、 栄養も良くないみたいだからしばらくうちで休ませようと思って」 「ああ、そうだったんですね。…えっと、『セフェリス君』」 グレミオは屈託のない微笑を浮べながらセフェリスへ手を差し出した。 「『初めまして』、グレミオです。ゆっくりしていってくださいね」 セフェリスは、まるで俯瞰から見下ろすかのように、己を、 愛想よく笑いながらグレミオの手を握り返す己の姿をどこか遠くで眺めた。 「ええ、よろしくお願いします……『グレミオさん』」 ひと刹那、真っ白な脳裏をかすめて消えていった思考。 (……このひと…だれ……?) そのあと自分が何をどうしたのか、よく憶えていない。気づいたら客間のすぐ入り口に一人で突っ立っていた。 一人きりになって、重度の放心状態から積み木をひとつひとつ積み上げていくように、 徐々に思考する力が再構築されてくるのがわかった。どれだけ時間が経っただろうか、 ようやく『考える』ことができるようになってから、 まず最初にセフェリスの頭に浮かんだのは、ひとつの疑問だった。 『あれは誰?……誰だったの?』 あれはグレミオだったの? 見間違い?ぼくの知らないひと? でもあの顔は、どう見ても、グレミオ… もしかして…ぼくのこと…忘れちゃった……? ……違う。まさか、そんなわけない。 あれがグレミオであるはずがない…(―――ぼくは決してグレミオを見間違えない。だってぼくはグレミオのなにもかもを) グレミオがぼくを忘れるなんてありえない。天地がひっくり返ったって、トラン湖が干上がったって、 この世にある真の紋章がすべて消滅したって、グレミオがぼくを愛さなくなることはないんだ。 (…この全身で記憶した。ぼくがグレミオを見間違える筈なんて) ぼくはグレミオを愛している、グレミオはぼくを愛している。かりそめで満ち溢れたこの世界で、 (見間違える筈なんてないんだ) これがぼくにとってただひとつの真実。唯一覆しがたい真理だと思って…… (ぼくがグレミオを見間違える筈がない!!)…思って……いた………。 「…た……の…に………?」 グレミオはセフェリスを忘れていた。なのにどうして何も……哀しみすら感じないのか。涙すら出ないのか。 まだ信じられないのか。まだ信じられないのだ。それともこれは単なる悪い夢なのだろうか。 「……な……きゃ……っ」 たとえ夢だとしても。もし本当に忘れてしまっていたのだとしても…… 「………さな…きゃ……話さ…なきゃ……話さなきゃ…ぼくのこと……そして…帰ってきて…もらうんだ…… おまえはぼくと、一緒だったんだよって……ちゃんと教えて……っ」 まだはっきりとしない意識でたどたどしく呟きながら、セフェリスは客間を出た。 「ぜんぶ話せば…きっと帰ってきてくれる……だって、誓ってくれたから……またふたりで旅をするんだ…… どこまでも…どこまでも、一緒に……」 ふらふらとおぼつかない足取りでグレミオを探し出す。 「…ね……もう一度ぼくを見て…『ぼっちゃん』って呼んで?……そうしたら、あの崖で死んじゃったぼくの半分は… きっと生き返るよ………」 無心でグレミオを求めるセフェリスの耳に、やがて楽しげな彼の話し声が聞こえてきた。 キッチンからだ。入り口から除いてみると、グレミオはクレナの料理を手ほどきしながら手伝っていた。 「…そう、しょうゆはそのくらいでいいんです。塩より少なめで……」 「あら、ほんとだわ…薄味なのに、こんなに違うのね」 セフェリスはグレミオに声をかけようとして……けれど一向に声が出てこなかった。 ふたりの空気が…いや、グレミオのまとう空気が、セフェリスを拒絶していたのだ。 「うん…とてもおいしいですよ。クレナは飲み込みが早いですから」 「ふふ、あなたの教え方が上手なのよ」 「あ、あまりそんなこと言わないでください……恥ずかしいです」 グレミオが照れて笑っている…酷く幸せそうに……そう、これは家庭の温かさ。 部外者が決して踏み入れることの出来ない、ソウルイーターに呪われた身のセフェリスにはもう手に入らないもの。 それはありきたりで、平凡で、けれど充実した平和な日々…… (……………) ふいに、わけもなく瞳から涙がこぼれた。突然頬を伝ったものにセフェリスは驚く。 慌てて手で拭った体液は温かかったが、同時におぼろげだった意識が少しずつ冷めていくのを感じていた。 ちょうど、夢から醒めていくかのように。 「あ、セフェリス君…いたんですか?」 「あら……どうしたの?」 ようやくふたりがセフェリスに気づいて声をかけてくる。セフェリスは必死に目を擦っていたのを咄嗟に言い訳した。 「すみません…目に何か入ってしまって……もう取れたから大丈夫です」 「そう…ちょうどよかったわ、もうご飯できるから、呼びに行こうと思ってたのよ」 セフェリスがグレミオとクレナを交互に見て訊ねる。 「……一緒に…料理、されてたのですか…?」 「ええ、家事は分担しているのだけどね、ふたりとも家にいるときはグレミオによく料理のコツを教えてもらってるの。 だって彼のほうがセンスが上なんだもの」 「そ、そそんなことないです!クレナの料理はすごくおいしいのに」 記憶を無くしても家事の才能は残っているようだ、天性のものなのだろうか。 グレミオは謙遜するが、無自覚に惚気ているのが彼らしい。 「またそんなこと言って。あんなのありきたりな味よ」 「クレナが作るからおいしいんです!…わからないんですか?」 「……もう、人をおだてるのが上手なんだから」 「照れないでくださいよ〜。私まで恥ずかしくなっちゃいますから」 さめていく。さめていく。少しずつ、冷たくなっていく。 (グレミオ、幸せなんだね……) クレナの隣で笑うグレミオに問いかける。 (……ぼくの隣にいるよりも、幸せ…?) 比べようとしたけれど、自分の隣にいる彼の姿が、もう上手く思い出せなかった。 (…そっか、歳を取らないぼくに付き従って、一生危険な旅を続けるより、ずっと……) 「今、幸せですか?…グレミオさん」 「えっ?」 どうしてこんなに穏やかな声が出せるのか、セフェリスには不思議で仕方なかったのだけれど。 「……あなたが今、とても、幸せそうだから」 唐突な質問に、グレミオは少しあたふたと照れていたが、かつてセフェリスが大好きだったその眼差しを隣の女性に向け、 はっきりと答えた。 「…私を必要としてくれる大事な人がいるんです。 日々が穏やかに優しく過ぎていく……これ以上の幸せなんてありません……」 似たような言葉を、聞いたことがある気がした。温かい想い出の中のどこかで。 グレミオの答えは確かに胸に深く突き刺さったはずなのに、その痛みすらわからないまま、 セフェリスは淡く微笑みながら頷いた。 「そう…。…そうですか……」 温かい…グレミオの熱 3人で食卓を囲んだ。他愛もない話や幸せな話をしながら、グレミオとクレナは笑っていた。 セフェリスの顔も、たぶん笑っていた。 セフェリスの体調を配慮して作られた料理たち、ことごとく、味がしなかった。 温かい…グレミオの重み 食事が終わるとセフェリスは「早いけど、ぼくはもう休みます」と言って、 気遣うふたりを振り切って早々にダイニングを出た。 その途端に耐え難い嘔吐感に襲われ、ふたりに気づかれないよう胃の中のものをすべて吐き出した。 温かい…グレミオの涙 客間に入るや否や、力尽きたようにベッドに横たわった。 すると強烈な睡魔とともに、疲労が和らいだときのあの独特の浮遊感が身を包んだ。 この感覚は不思議と快楽によく似ている…… 抱き合ったあとにグレミオが覆いかぶさってくるあの感じ……ああ、…そうか。 (……あのときだ……やっと…思い出したよ……) それは初めて自分たちが躯を重ねた夜。行為のあと重なり合ったまま、 あまりに長く続く余韻に自失しながら、ただただ愛してるとうわ言のように繰り返すセフェリスが感じた、 グレミオの熱と、グレミオの重みと、グレミオの流した涙の温かさ。 そして意識の遠くの方で聞こえたグレミオの言葉。 『ぼっちゃん……私はこんなに幸せでいいんでしょうか……? あなたの傍にいられて、あなたを愛して、あなたに愛されて これ以上の幸福が、考えられないくらい幸せなんです………』 グレミオ……ぼくにはわからないんだ。 どっちがおまえにとって、より幸せなのか…… だけど少なくとも、今、グレミオは幸せなんだよね? ぼくが打ち明けたりしたら、その幸せに修復不可能な亀裂が入る。 見ず知らずのぼくの所に帰ってきて欲しいだなんて、あまりに身勝手だった。 ねえ。ぼくは、グレミオの幸せはぼくの幸せだと、ずっと思ってた。 なのにどうして、…こんなにも苦しくてたまらないんだろう? おまえを幸せにしてあげたい。それがぼくの全て。 おまえを力ずくで奪い去りたい。それがぼくの総て。 ねえ……グレミオ……ぼくは、どうしたらいい………? or 目次に戻る? |