随分と長いこと、立ち尽くしていたように思う。ソウルイーターの力を使いすぎたのか、 寸とも体を動かすと痛くてたまらなくて、日が傾いてからも、その日が沈んでからも、 もう随分と長いこと、立ち尽くしていたように思う。 どうして動けないのかも、やがて分からなくなった。それは、あの人が、「どこか痛いんですか?」 「大丈夫ですか?」「休みましょうか?」「いつまでもこんな所にいると体が冷えますから…」と、 心配そうに語りかけて、緑色のマントを細い肩にかけて自分を導いてくれないから、いつまで待っても、 夜風で冷えた身体を温めてはくれないのだと、 喪失に、気づいたとき、長い階段を転げ落ちるように、涙は溢れ出したのだった。 荒野になった崖の上で、少年はひとり泣いた。 朝も昼も夜も、体中の血が枯れるほど、朝も昼も夜も。 あの矢はどこに当たったのだろうか。崖の下は川だけれど、この高さではそんなこときっと慰めにもならない。 ここは自殺の名所なのだから……確かめるまでも無い、確かなのはひとつ、もうあの人が隣にいないこと。 いつか離れないといけないことは知っていた。いつか別れが来ることを。 だから一緒にいる時間を何よりも大事にするんだって。たくさん想い出を作るんだって。 解放戦争が終わり、ふたりで旅を始めてから5年、たったの5年、何もかも、まだこれからだったのに。 共に在る時間が幸せすぎて気づかなかった。その一瞬一瞬がどれほど貴重なものだったか。 かつて一度あの人を喪ったときの、あのときの絶望を忘れてしまっていた。 あんなにも喪えないと心の底から叫んでいたのに!! 泣いて、泣いて、泣いて、泣きすぎて、あの人を映せない瞳などもうさっさと溶けてしまえ。 あの人の声すら聞けないのなら耳も壊死し腐り落ちろ。やがて脱水症状を起こしたが携帯の水を飲む気にすらならなかった。 苦しみに発狂しながら、どうかゆるりと死ぬがいい。 もう何度太陽が沈んだのだろう。月が力なく臥せった躯を照らす。もはや死を待つばかりの躯を、 まるであの人の眼差しのように優しく照らす。 濁った目はもう何も映していなかったけれど、いつしかあの人の声ばかりが聞こえていた。 あの人の笑った声。少し怒った声。困ったような声。哀しい声。楽しそうな声。愛しい声。 それは日常何気なく話しかけてくる言葉であり、我侭を言って拗ねる自分をあやす言葉であり、 閨での愛の言葉であり、幾度と無く交わした誓いの言葉であり、忘れようも無いあの監獄での最期の言葉でもあった。 あの人は語りかけてくる。そのひとつひとつはどれも例外なく大切で、 いとおしむべきもので、かけがえの無い、あの人の真実だった。 いつしかあの人は同じ言葉ばかり繰り返すようになった。それが懸命に自分を生かそうと励ましてくれているのだと気づくのに、 途方も無く時間がかかった。 気づいたときは思わず哂(わら)った。まだ生きろと言うのか?何のために生きるというのか…… それでもあの人はしつこいほどにその言葉ばかりを語りかけてきた。 ―――希望を捨てちゃいけません。 幾千、幾万、己の中で繰り返されるあの人の声。 ―――ほんの少しの希望があれば、生きていける。 昔あの人が、絶望する仲間を励ましたときの言葉だった。それは自分に向けられた言葉ではなかったのだけれど、 今ははっきりと、自分のすぐ目の前で、この両の瞳を覗き込みながら。 (ほんの少しの、希望……?) あの人はその細い指で涙の跡をそっと拭って手を取ると、互いに手指を絡ませながら、 優しくも強い声で、ひとつの願いを囁いた。 ―――信じることを…つらぬいてください……… (………生きている…) 少しずつ、力の入らない手を動かして、自分は水を入れた筒を取った。 (あの人は、生きている) ひと口だけ含んだ水は、しみるほど、甘かった。その水は、結果的に自分の命を救った。 けれど、あの人の言葉こそが、自分をこの世に留まらせてくれた。……それから、グレミオを探す長く孤独な旅が始まった。 セフェリスはまず崖より下流を徹底的に探した。川岸に生い茂った草をひたすら掻き分け、 あるいは終日川に潜り、その姿を探した。食料が尽きれば近くの町へ行き、あらゆる人に情報を求めた。 川沿いにはいくつか町がある。僅かな可能性すらこぼさないように、しらみ潰しに探し続けた。 おかげで近隣の町にはセフェリスの存在は良く知られるようになった。 あまりにも差し迫ったセフェリスの様子に、放っておけなかったのだろうか、 親切心なのか協力してくれる者も現れた。進んで情報を与えてくれる男性、 パンを差し入れてくれる女性、『がんばってね』と励ましてくれる宿屋の子供。 だがそこまでしても、グレミオの手がかりは何一つ見つからないまま、無為に月日ばかりが過ぎていった。 『何かに取り憑かれたように』と、セフェリスを見た人はそう口にした。実際何かしらに取り憑かれていたのだ、 そうでもしないととうの昔に狂気に足を踏み入れていたことだろう。 いや、もう既にセフェリスの中には狂気しか残っていなかったのかもしれない。 昼間は耐えられた。夜と朝が怖かった。皆が寝静まり視界も利かない夜はやることが無い。 何かに没頭して逃避することが出来ない。ひたすらに現実を、孤独を噛んだ。 グレミオと寄り添って眠ることに慣れきった心と身体は、 ほんのわずかな温もりすらない夜に耐えることが出来なかった。 眠れば必ず彼の夢を見た。崖から落ちる瞬間の彼や、息絶えたかのように眠る彼、 過去の優しい思い出の中の彼、セフェリスをそっと抱きしめる彼。それは悪夢であり、幸福な夢だった。 ―――ぼっちゃんを愛しています。愛しています。愛しています。 『…もっと言ってよ』 ―――愛しています。愛しています。グレミオにはぼっちゃんだけです。 『もっと、もっと言って。まだ全然足りない』 ―――ずっとずっと、そばにいますよ。愛してます、セフェリス……… 『足りないんだ!このままじゃ飢えて死んじゃうから……』 いったん夢から醒めれば涙が溢れ、嗚咽は止まず、何時間と悶え苦しみ、そのたび死の誘惑に駆られ、 そのたび、グレミオの願いの言葉が辛うじて自殺衝動を押し留めた。 かといって眠らず起き続けているのは、ただ思考する時間を増やすだけ。孤独な夜に想うのは、 自分のふがいなさに対する後悔、グレミオへのどうしようもない思慕、そして迫り来る絶望。 例えばある日、とにかくもう何も考えたくなくて、苦し紛れに本を買った。極力刺激の少ない、 どこぞの学者が書いた科学論文集を月明かりで読もうとした。 だが数ページと捲らないうちに『グレミオ』は優しく話し掛けてきた。 ―――どうしました?横になって本を読んだら目が悪くなっちゃいますよ? ―――寝るのが怖いんですか?じゃあぼっちゃんが眠れるまでこうしてますね。 印刷された文字なんてちっとも見えなかった。ただ感じるのは、 グレミオに身体を抱き寄せられて彼の声を聞きながら髪を梳かれる心地良さ。 その偽りの錯覚のみ。気づいたときには泣き叫びながらぐちゃぐちゃに本を破り捨てていた。 セフェリスの見るもの聞くもの感じるものどこもかしこもグレミオに繋がっているのに、 どんなに焦がれてもセフェリスのそばに彼はいない。その食い違いがセフェリスを日増しに追い詰めていった。 グレミオの消息について何一つわからないまま、いつしか季節は一巡した。まるで次元がおかしくなったかのように、 果ても無く長い一年だった。まだたったの一年。けれど、グレミオと過ごした幸せな時間( それはセフェリスの人生の大半を占めるのだが)は瞬く間に過ぎていったのに、 この一年は、全くの無彩色だったくせにまるで永遠に続いていたかのようで…… もうグレミオとは何百年と離れている気がする。飢餓は既に身体の一部となりセフェリスの骨の髄までをも侵し、 もはやそれが思慕なのか憎悪なのかもよく判らず、次第に麻痺したような痺れに変わっていった。 セフェリスは捜索範囲を徐々に広げていった。もう一年も探しているにもかかわらず、 手がかりのひとつすら掴めなかった為だ。もしかしたら何らかの理由で、遠くに行ってしまったのかもしれない…… しかし川から離れれば離れるほど、海水が淡水に薄められていくようにグレミオが見つかる望みが薄くなることも確かだった。 心優しい協力者たちは、もはや何も言えなかった。彼らのほとんどはグレミオの生存を諦めていたが、 それを決して口にすることは無かったし、口にせずともセフェリスには伝わっていたのだし、 彼に『もう、やめなさい』と言うことが何を意味するものなのか、彼らにはうすうす分かっていたのだから。 背の高い樅(もみ)の木々が大地に淡く陰を落としている。腐葉土を踏みしめながら、 ここはどこだろうとセフェリスはこともなげに思う。少なくともあの川から数十キロは離れたはずだ。 もう何日も樅林の中をさ迷い歩いていた。水も食料も底をつきかけていたがそれは彼にとってたいした問題ではなかった。 食料があろうとなかろうと、このごろはもう満足に喉を通ってくれないのだ。 今歩いている道には人の手が入っているため、人里が近い可能性があるし、あるいはそうでなかったとしても、 (……もう…いいんだけどね……) 心の中で自嘲気味に呟く。けれどその考えは無用だったのかもしれない。 ほどなくしてやや開けたところに出た。少し離れたところに小さな村が見える。 ざっと見たところの規模は、かつてオデッサと共に訪れたサラディの町くらいだろうか。 宿屋があるかは判らないが、どうやらまだのたれ死ぬには早いらしい…… だがセフェリスの足が向けられたのは村ではなく、違う方向だった。 (………崖……) セフェリスの先にあるのは崖だった。わずかばかり切り立ったそれは、あのときの崖とどことなく似ている気がした。 セフェリスはまるで何かに吸い寄せられるように崖に向かって歩いていった。 際まで寄って下を覗き込むと、あの崖と高さはさほど変わらない気がした。ただ、下は岩場だから、きっと落ちたら最後だろう。 ふと、脳裏を掠める思考。 ――終ろうか。 もう終ってしまおうか。 『……疲れたんですか…?』 耳元で、もはや聞き慣れた幻聴が囁く。 「うん…ぼく、もう…疲れた……」 『…信じ続けることは、辛いですか…?』 愛しい声。けれどもう愛しいと思うことすら疲れてしまって。 「……いつまで信じればいいの?おまえが見つかるまで?ぼくが息絶えるまで? ぼくは本当にまだ信じてるの?おまえはどこにいるの?おまえは本当に生きているの? ぼくはどうして生きているの?どうしてまだ生きなきゃいけないの?どうし…て……」 …どうして? どうでも…いい。 もう、疲れたから…… 腰に差していたナイフを抜くと、何も考えずに腹部へ突き立てた。 ほんの僅かな時間差で服が血に染まっていく。この期に及んでまだ躊躇しているのか、 なかなか深く刺さらない、苦痛ばかりが身を襲う。 「……死ぬのって、結構…苦しいんだね……」 一旦抜いてからもう一度刺そうとして、その弾みでナイフが手から滑り落ち、 遥か崖下に落ちていった。……ああ、でも…そうか。このまま崖から落ちてしまえば全部一緒だから。 矢がどこに刺さったって、崖から落ちたら同じこと。 「…でも……落ちた……先に、おまえは…いるの?」 セフェリスの胸中に一抹の不安がよぎる。そのときだった、背後から女の悲鳴が聞こえた。助けて、と叫んでいる。 悲鳴の方に視線をやると、少し離れたところで若い女性が崖から落ちかけていた。足場が崩れたのだろうか。 そのときのセフェリスの心境は、助けなくては、というよりは、気分がそがれたという落胆に近かった。 死ぬ気が失せたのは幸いだったのか、どうなのだろうか。 セフェリスは駆け寄ると女性に手を差し伸べた。 「落ち着いて掴まるんだ」 「あ……」 女性は恐怖で引きつっていた顔をほんの僅かに緩めると、 セフェリスの腕にしっかりとしがみついた。力を込めて女性を上に引き上げる。 腹の傷口が開いたが、痛みを気にしている場合ではなかった。 助けられてからもまだ少し足が震えている女性に対し、セフェリスはどこかなじるように言った。 「なんでこんな危険なとろに…」 「……あなたが」 まるで紅玉のように赤い髪と赤い瞳の女性。その彼女の言葉はセフェリスには意外なものだった。 「あなたが昔の私と似てたから…近寄ったの」 「………え?」 「そしたらあなたがうずくまったから……慌てて駆け寄って、足、踏み外して………あ!」 急に女性は短い悲鳴を上げて顔色を失う。 「あなた酷い怪我してるじゃない…!」 傷を見ると、いまだ腹部が出血しているのがわかる。赤い服の所為で、直ぐに気づかれなかったのだろう。 まさか自分で刺したとは言えず、セフェリスは適当に言い繕った。 「あ…これは………さっき、林で…えっと、けものに……」 「…じっとしててね」 女性はセフェリスの患部に手を当てると、短くなにごとか呪文を呟いた。 すると女性の手のひらがぼうっと光り、出血が止まる。セフェリスの心境は複雑だった。 命を絶とうとして自らつけた傷が癒されていくのは。 「……ううん、完全には塞がらないわ。…あそこ私の村なの。小さな村だけど、休むことはできるから」 「…………」 ……ここで断ったら不審がられるだろう。けれどセフェリスはなかなか頷くことができなかった。 その葛藤を知ってか知らずか、女性は重ねて申し出た。 「助けてもらったお礼がしたいの。…とにかく……放っておけないのよ」 or 目次に戻る? 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