『ビクトール…ビクトール…!』
(なんだ…?うるさいな……)
自分の名をしきりに呼ぶ声に気づき、ビクトールは意識がゆっくりと浮上していくのを感じた。 浮上するのが分かるゆえに今まで沈んでいたことを実感した。なぜ自分は気を失った?そうだ、確か……
『ビクトール…起きて……!』
(この声は……セフェリス?)
懸命に呼び続けてくる声には聞き覚えがあった。死んだはずのセフェリスの声だ。 ということは、自分もとうとう死んだのか。まどろみの中でぼんやりとそう思っていると、突然雷のような怒鳴り声がした。
「おい!いいかげん起きやがれこの熊!」
相棒の罵声にビクトールが覚醒した。目の前の青い男に向けてこちらも怒号を浴びせる。
「だぁー!ヒトのことを熊熊言うんじゃねえよフリック!!」
『……目覚めたみたいだね、ふたりとも』
相変わらずのふたりにセフェリスが苦笑する。ビクトールは身体を起こすと真っ暗な周囲を見やった。 辺りには闇しかないが、傍にはフリックの姿がはっきりと見える。 一方でセフェリスの身体はどこかノイズがかっているような希薄な印象を受けた。
「フリックも死んじまったのか?あの世ってのは殺風景なものなんだな……」
この異常事態にも大して動じていないのが彼らしかった。フリックとセフェリスは苦笑を隠せない。
「いいや、あいにくと死んだわけじゃないらしいぜ」
『紋章が暴走する直前に、ぼくがふたりをこの亜空間に避難させた』
間一髪セフェリスが助けなければ、骨すら残らず紋章に喰われていたのだと聞かせられ、 ビクトールもフリックも背筋がほの寒くなった。
「そりゃ…命拾いしたぜ、セフェリス。死んじまったのに、よくこんな芸当が出来たな」
ビクトールが感心しながら言うと、セフェリスは右手の手袋を外して甲をふたりに見せた。かすかに紋章の痕が残っている。
『ソウルイーターのかつての主としての力のようなものかな。ぼくの魂そのものはグレミオの右手の紋章の中にある。 今は意識だけをここへ飛ばしている状態なんだ』
目の前のセフェリスの気配が希薄なのは、実体のない『意識』であるためか。 時折かすれてはにじむセフェリスの意識体は、ともすれば掻き消えてしまいそうだ。
『でもこの状態も、長くは続かない。助けられたのも君たちふたりが限界だった……ぼくがしているのは、 …そしてこれからしようとすることは、ソウルイーターの意思に背くこと…… 彼女に気づかれたら、ぼくの意識の自由はきっと奪われる』
「……これからしようとすること?」
『ごめんね、友情にすがってお願いするには重過ぎるけれど……どうか、ソウルイーターを止めて欲しい』
セフェリスの口から発せられた次の言葉は、少なからずふたりの度肝を抜くものだった。
『ソウルイーターはグレミオの絶望を利用して、この世界総ての人間の魂を手当たり次第喰らい尽くそうとしている』
唐突に桁違いなスケールの言葉を受け、ビクトールは驚くというよりは軽く呆れたように肩をすくめた。
「……そいつは、また……」
真の紋章は使い方を誤れば世界に大いなる災いを起こすといわれている。 もともとソウルイーターは宿主に近しいものの魂を喰らう悪しき紋章だ。 それがグレミオという格好の宿主を得て暴走を始めている。
『今のグレミオは、いわば紋章の操り人形……紋章の所為で自分の意思では自殺も出来ない。 ソウルイーターが魂を求め続ける限り、グレミオは解放されない。ぼくはこれ以上、グレミオに罪を重ねさせたくないんだ』
「……グレミオには紋章を止めることは出来ないのか?主なんだろう?」
フリックの問いに、セフェリスは苦しげに首を横に振った。 グレミオには紋章の悪しき衝動を制御しようなどという意思が無い。
『グレミオにはもう、ぼくの言葉が届かない……グレミオの絶望が、あまりにも強すぎて………』
「…………」
ビクトールはしばらく神妙な顔をしていたが、思い切ってセフェリスに訊いた。
「なあ、言いづらいかもしれないが、……グレミオはどうしてああなった?」
『……それは、』
セフェリスは、最低限のことは知っておいてもらいたいと思ったのだろう。さほどためらうことなく、ふたりに事実を話した。
『グレミオは一度、事故で記憶を無くしたんだ。そして記憶の無い間にひとりの女性と結婚した。 けれど彼女はぼくの所為で死んでしまった。だからグレミオはぼくを恨み、ぼくを殺してしまった……』
「そして、記憶を取り戻した瞬間に狂ってしまった、か……」
『あのとき……グレミオに斧を向けられたとき、心のどこかでほっとしたんだ。ああこれで楽になれる、って……』
そこで言葉を一瞬途切れさせると、セフェリスは悲しげに少し俯いた。
『だけど、そのせいで……』
俯いたまま、心に淀んだ苦いものを吐き出すように告白する。それはどこまでも純粋な後悔の念だった。
『そのせいで……グレミオをあんなにも苦しめるつもりはなかった……!』
「……おまえ…」
『既に脚本の完成された楽劇では、悲劇の破局的結末は避けられないものだったのかもしれない。 でもぼく達が生きるのは神々が見守る歌劇場なんかじゃない』
それは夢の中での父の言葉だった。ビクトールは何も言わず頷く。一方フリックは気にかかっていたことをセフェリスに問いかけた。
「だが、ソウルイーターを止めるって、どうやるんだ?」
そう、そのことこそ、セフェリスが二人を救い出し、助力を求めた理由でもある。セフェリスはふたりに説明した。
『封印するんだ。やり方はぼくが知ってる。ただ問題なのは、 封印するにはソウルイーターの一瞬の隙を突かないといけないこと。その隙を作って欲しい』
「隙?」
『ソウルイーターが宿主の身体を離れ、次の宿主を得るまでの瞬間、紋章に隙が出来るんだ。 紋章が宿主の身体を離れる可能性はふたつ。ひとつは誰かに継承させるとき、もうひとつは宿主が死んだとき。 継承させるにはグレミオとソウルイーター双方がそれを望まなければならないから今回は不可能だろう。 強制的にソウルイーターを封印するには、方法はひとつしかない』
「ちょっと待て。……まさか、セフェリス……」
導き出された答えに気づき、フリックが青ざめた。ビクトールも険しい表情を崩せない。 セフェリスはうなだれるように顔を伏せた。
『これは、ぼく自身のエゴなのかもしれない……けれど、それ以外に術がない』
「………殺すんだな?グレミオを」
『……………』
ビクトールの確認の言葉を、セフェリスはどう思ったのか。
「まあ、どんな事情があったにしろ、お前はグレミオに殺されたんだからな。恨んでるのか?」
『恨む、なんて……』
俯いたセフェリスは、静かに首を振った。そして僅かずつ震えていった、身体も、声も、心も、なにもかもが。
『グレミオは確かにぼくを傷つけた……』
死にたくなるほど哀しかった。
気が狂うほどつらかった。
殺したくなるほど苦しかった。
『…でも……でもね…ぼくはねグレミオにねえその何倍も何倍もしあわせにしてもらったんだ!!』
「セフェリス……」
二の句が告げなくなったビクトールとフリックに、セフェリスは目元を押さえながら謝った。
『……ごめん、取り乱して……本題に戻ろう。グレミオの居場所の知り方については……』
だがここでフリックはセフェリスの言葉を一旦遮り、おそらくフリックたち二人にとって最も要であることを訊いた。
「待て、グレミオを倒すったって、どうやって戦う?俺たちじゃ真の紋章に太刀打ちできないぞ」
相手は街ひとつ破壊する力を持つ真の紋章。ビクトールもフリックもそれなりに腕に覚えはあるものの、 あのソウルイーターが相手となると話は全く別だ。次元が違う、と言っても過言ではない。
『うん、それについても一応、手は打ってあるんだけど……』
セフェリスが続けようとしたその時、ビクトールとフリックは足場がぐらりと傾ぐのを感じた。 その揺れは徐々に激しくなっていく。
「な、なにが起きてるんだ!?」
そしてその揺れに比例するかのように、セフェリスの姿はノイズが激しくなり、輪郭が滲んでいく。 セフェリスは雑音の中で僅かに分かる程度に表情を硬くさせた。
『ソウルイーターが、感づき始めてる……もうこれ以上この亜空間を維持するのは難しい…みたいだ』
ノイズはますます進行し、セフェリスの意識体が足元から砂のように崩れだした。
「お…おい!セフェリス、大丈夫か!?」
空間の悲鳴が聞こえる。まるで地震のような嵐に動揺する二人は、セフェリスの最後の声を聞いた。 そしてそれと同時に、足元が崩れ去るような感覚と共に亜空間は消滅したのだった。
『…お願い、どうか…あの人を、…………』
亜空間から現実空間に戻る際に、微妙な座標の食い違いがあったようだ。 地上よりおよそ2メートルの空中に突然放り出されたビクトールとフリックは、 ドスンという鈍い音と共に現実の痛みを噛み締めた。
「うう……落ちるなんて聞いてねーぞ」
「…まったくだな」
文句を垂れながら身体を起こそうとする二人は、聞き覚えのある甲高い少女の声を聞いた。
「うわぁ!ホントに来たよ!!マクドールさんの言ったとおり!!」
まだ状況が良く把握できてないビクトールとフリックは、二人を覗き込む少年少女の三人連れを眺め、しばし逡巡した。
「クラリス…ナナミ…?」
「それに、ジョウイ、か……」
久しぶりです、とクラリスは二人に向けて淡く微笑んだ。先のデュナン戦役で、 ビクトールとフリックはクラリスをリーダーとする新同盟軍の重要メンバーとして戦った。 彼とナナミとは2年ぶりの再会となる。戦時中は敵対していたものの、ジョウイとも既に顔見知りだ。
ビクトールとフリックは、この三人がここにいる理由を、おそらく理解した。クラリスとジョウイが宿している 『輝く盾の紋章』と『黒き刃の紋章』、ソウルイーターに対抗するためには、 やはり真の紋章の力が必要なのだとセフェリスは判断したのだろう。
「マクドールさんが言ったんです、ビクトールさんとフリックさんがここに来るって。 マクドールさんの意識から大体の事情は聞きました。あの人には先の戦争でお世話になったんです…… ぼく達が宿している紋章が役に立つのなら、恩返しがしたいんです」
語気強く言い放つクラリスの瞳に、強い意志の光がある。それを確認するようにビクトールが脅しをかけた。
「恩返しつったって、かなり危険だぞ。いいのか?」
「…それはビクトールさんやフリックさんも同じでしょう?ふふ、とんだおせっかいですよね」
意味深に微笑みながら言うクラリスに、そりゃそうだな、とビクトールは観念した。
「それに、既に多くの街と人々が犠牲になっています。これ以上野放しにはできない……」
そうジョウイが言うと、ナナミも意気込んで愛用の三節棍をビシッと構える。
「うん!みんなでマクドールさんの願い、かなえてあげよう!」
やる気満々のナナミに、フリックは少々引きつった苦笑を浮かべた。
「ナ、ナナミも戦うつもりか……?」
「もっちろん!絶対一緒に行くんだからね!駄目だなんて言わせないから!」
決心の固いナナミだが、ビクトールは慎重だった。なにせ彼女には『前科』があるのだから。
「ナナミ……気持ちはわかるが、ロックアックスの時のようになったらどうするんだ?」
2年前の戦争のとき、彼女はクラリスとジョウイを守ろうと危険をおかし矢面に立ち、瀕死の重傷を負った。 本当に、あと一歩で死ぬところだったのだ。そのことはまだ記憶に新しい。 するとナナミは少しだけ俯いて、『クラリスにも同じこと言われた』と呟いた。…でも、
「でも、身を守る紋章を持ってなくて危険だってことは、ビクトールさんたちも同じじゃない?そんなの差別だよ。 ううん、…今回は紋章を持ってても危険なんだもん。クラリスとジョウイだけ戦わせて、 わたしは待ってるだけなんて、できないよ…!」
「ナナミ…」
そこへジョウイとクラリスが重ねて頼んだ。一緒に行かせてあげて欲しいと。
「……ビクトールさん、ナナミはこういうやつなんですよ。一旦決めたら揺るがないんです」
「一応ナナミに、無理はしないって、約束させたんだけどね」
ふたりの少年にここまで言われては、さすがの熊も何とも言えない。
「……おまえらなぁ…」
ビクトールは奔放な黒髪を所在無げに何度か掻くと、軽く吐息ついて口を開いた。
「じゃ、決まりだな」
その一言を合図に、全員が互いに力強く目線を合わせた。成すべき目的はただひとつ。 皆の声を代弁するように、クラリスが決意を込めて宣言した。
「ぼく達の手で、ソウルイーターを止める!」



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