9.永遠 「じゃあルック、行ってくるね」 「ああ」 長月某日、旅支度を整えたセフェリスはルックの頬にキスをして別れの挨拶を済ませる。 今回の帰郷の理由を聞いたルックは正直芳しい顔をしなかったが、セフェリスが『これだけは』と言うので、 仕方ないのだとなんとか割り切ることにしたのだ。別れを惜しむひととき、しかしそんな折、 慌ただしい足音と共にフリックとビクトールがルックの部屋のドアを開けた。 「セフェリス!今すぐグレッグミンスターに帰れ!」 血相を変えたビクトールの切羽詰まった声に、ただ事ではないと悟る。困惑めいた表情を浮かべるセフェリスは、 緊迫した空気のもとで心拍数が上がるのを感じた。 「うん、これから行くつもりだったけど……何かあったの?」 ビクトールたちは全力で走ってきたのか、息を弾ませている。次の瞬間、セフェリスは色を失った。 「さっき緊急の知らせがあった。グレミオが、やばいんだ」 「…えっ……」 さぁっ…と細やかにこずえを揺らすように、そのとき風が変わった。「落ち着いて聞くんだ」とフリックは前置きし、 沈痛な面持ちで信じたくない事実を告げる。 「重篤な肺炎で、敗血症を併発してる。……既に、意識が無いそうだ」 セフェリスがその場で崩れ落ちなかったのは、奇跡だとしか言いようが無かった。 そんなの嘘だ、嘘なんだと懸命に己に言い聞かせながら辛うじてギリギリの正気を保っているような有様で、 普段とぼけたビッキーすらもセフェリスをテレポートで飛ばす際に顔色を変えるほどだった。 家の前でセフェリスを待っていたマリーが痛ましい表情で言う。それは建造物の基礎が徐々にひび割れるように、 「ずっとリュウカン先生がつきっきりで看病してるけど、かなり危ない状態みたいで…… 家で倒れたときにはもう遅すぎたんだって……でもぼっちゃん、気をしっかり持つんだよ。 診てくださるのはあのリュウカン先生なんだから、助かるよ、きっと。そうさ、きっと……!」 家の中でセフェリスを待っていたクレオが取り乱しながら喚く、それは植物の根がじわじわと腐るように、 「グレミオのやつ、痛いところなんて無いって言うんだ、それしか言わなかったんだ…… 馬鹿だよ私、何で気づかなかったんだ……もっと早くに肺炎だって気づいて、 リュウカン先生に診せていればグレミオは……私は何で、何で…っ!」 少しずつ、襲い来る現実は少しずつ、セフェリスの深部を蝕んでいった。濡れて濁り続けるだけの視界、 嘆いたところで成す術などもはや残っていないのに。 思い出す 遠き日の名残り 郷愁により醸されるは 切なさを含んだ痛み 『私はぼっちゃんのお傍にいられるだけでこんなにも幸せです。だからぼっちゃん、 泣いたりしないで、ずっとずっと、笑っていてくださいね』 『うん。グレミオがさみしくないように、ぼくがずっと傍にいてあげる……!』 これは……罰? ぼくがグレミオから離れたから ぼくが約束を破ったから ぼくがあの人の幸せを奪って、 自分だけ幸せになろうとしたから……! グレミオの部屋は様子が一変していた。慣れ親しんだ風景が、こうも変わってしまうものなのか。 大きな点滴をはじめとする医療機器の数々が狭い室内にひしめいて、緊迫した雰囲気のスタッフとリュウカン医師が辺りを動いている。 その中心にいるグレミオは蝋のように白い顔で、苦しげに呼吸をしながら譫妄のさなかにあった。 リュウカンらの邪魔にならないように気を払いながらセフェリスは、グレミオのぎょっとするほど冷たい手を取る。 温めるようにさすって何度か名を呼んだ。 「グレミオ……グレミオ」 すると不思議なことに、ずっと意識の無かったはずのグレミオが薄目を開いた。セフェリスに視線を移し、 こけた頬が痛々しいその顔にわずかな微笑をのせたのだ。 「死神が、見える……ああ、私の首を刈り取りに来てくれたのですね……」 「グレミオ、ぼくだよ!グレミオ…!」 セフェリスがグレミオの手をきつく握って懸命に声をかけると、グレミオは数度瞬きを繰り返し、 ようやく目の前の人物を正しく認識した。久しぶりにはっきりと意識が戻った、リュウカンが思わず瞠目する、それはまさしく奇跡だった。 「……ぼっちゃ、ん…?」 無残にしわがれた声でセフェリスを呼ぶと、グレミオは僅かな力でセフェリスの手を握り返した。 「ぼっちゃん……聞いてください。最後にふたつだけ、お願いがあるんです……」 「最後だなんて言わないで!」 遺言めいた言い方にセフェリスの危機感がつのる。恐怖に引きつる少年の頬を撫でてやりたかったが、 瀕死の今、もう腕が動かなかった。代わりにグレミオはそっと微笑みを向けてあげた。 「どうか……ルック君と、幸せになってくださいね……」 「…………!」 セフェリスが凍りつく。咄嗟に声が出てこなかった。こんなグレミオは見たことが無かった。 彼の言葉に含まれた優しさと、愛しさと、哀しみと、諦めを感じ取ったセフェリスは、 自分のなかにある卵にひびが入り何かが孵化するような、高揚と鎮静がないまぜになる混乱に激しく戸惑っていた。 「それから…、今日は9月の、何日ですか…?」 その言葉に、セフェリスは思い出す。今日が何の日であったかを、この家に帰ってきた本来の理由を。 「…30日だ。大切な記念日。ぼくとグレミオが、初めて出逢った日」 するとグレミオの翠色の瞳はみるみる潤み、目じりから雫を落とした。くしゃっと表情を泣き笑いするように崩す。 麻痺したはずの感情が揺れ踊る、精一杯の喜びを示す動きだった。 「…嬉しい……覚えていてくださったんですね……」 忘れるはずがない、とセフェリスは叫ぶ。だって自分はいつだって、グレミオに寄り添って生きてきたのだから。 セフェリスの頬にも熱いものが伝っていく、溢れる涙を拭うこともせず、ただグレミオのかすれきった声に耳をそばだてた。 「これから長い時を生きるあなたへの、これが…最後のお願いです……」 「………っ」 思わずセフェリスは息を詰まらせる。身体が震える。セフェリスの身体が、カタカタと小刻みに震えてくる。 理解したのだ、その願いに応えることが、グレミオが望んだ今年のプレゼント、そして最後になるであろうプレゼントなのだと。 「一年に一度だけ…この日だけは、……私のことを、ほんの少しだけ…思い出してくださいませんか……?」 ―――ぐれみお、ぐれみお〜?ねえ一緒に寝よ?どこにいるの? “どこからも、いなくなるんだよ” 「……あなたを愛した一人の男がいたことを…何十年、何百年経っても……どうか、この日だけ……思い…出して……」 ―――なぁんだ、そこにいたの?あのね、こわい夢みちゃったの。起きて? “彼が消えてしまう悪夢は、いつしか現実になるんだよ” 「あなたの…伴侶に、なれなくてもいいですから……あなたの、心に…刺さり続ける、小さな…棘に……なりた…い……………」 ―――ぐれみお、ねえ目を開けてよ。どうして起きてくれないの…? “力尽きたように閉じられた瞳、開くことはもう二度と” “無 い ん だ よ …… …” グレミオは再び意識を暗い淵へと落とし、その身体からは力が失われた。 慌ててセフェリスはうわ言めいた掠れ声で哀願するように呼びかける、けれどもう、どれだけ呼んでも何の反応も返って来なくて、 身体の冷たさだけが残酷に伝わってきて…… 「……グレ…ミオ……グレ……あ、うあぁぁっ…!!」 「セフェリスどの!?」 限界だった。もうこれ以上直視すると気が触れてしまう、絶叫をあげてセフェリスが部屋を飛び出して行った。 リュウカンが驚いて声をかけるが、助手の切羽詰まった声で引き留められた。 「先生、脈が弱まっています…!」 「いかん、急いで救命措置を!」 セフェリスは階段を駆け上がり、自室へと転がり入る。ベッドに全体重を預けてうつぶせに倒れ、枕にすがりつき、 こみあげる嗚咽と涙をシーツに吸わせ、烈しく襲い掛かる後悔と愛惜をもしみ込ませた。 泣きじゃくるセフェリスに一陣の風が吹き付ける。風を生んだ少年はただ静かにセフェリスの後ろに立ち、 もがき苦しむそのさまを神妙な面持ちで見つめていた。セフェリスはシーツに頬を擦りつけたまま、 泣きすぎて苦しげな呼吸の合間から背後の少年に語りかけた。 「…ねえルック。どうしてぼくは、こんなに馬鹿なのかなぁ?グレミオの気持ち、わかってあげられなかった…… あんなにグレミオに愛されていたのに、ぼくは気づきもせずに、顧みもしないで、…あんなにもグレミオを苦しめて、 心も身体もズタズタに引き裂いて……最後には命まで」 「まだ決まったわけじゃない」 ルックがきっぱりとした口調で返す。そう、まだ死ぬと決まったわけじゃない。 けれどグレミオを直に見たセフェリスは何か予感を察したのだ。助からないかもしれない…と。 それが真実であれ虚偽であれ、セフェリスを取り乱させるには十分だった。 「ルック、聞いてくれる?ぼくはね、グレミオのこと、ずっと『恋人』じゃなくて『母さん』だと思ってた。 でもそれは正しくて間違ってた。そんな単純で生易しいものじゃなかった……グレミオは、ぼくの『全部』だったんだね。 こんなことになるまで、理解できなかったなんて……このままグレミオがいなくなったら、ぼくは…もう………」 すぅ、と寝台に顔を埋めているセフェリスの黒髪が優しく梳かれる。ルックはベッドの際に膝をつき、 小さな手でいたわるように何度もセフェリスの髪を撫でた。そしてやや押し殺した声で彼を促してやる。 「……こんなところに居ないで、行きなよセフェリス、あいつの傍に。 これからはずっと一緒にいてやるんだよ、それがどんな形であろうと……」 そしてルックはおもむろにセフェリスの頭から手を放すと、ぼくとの関係はもう終わりだ、と静かに告げた。 「所詮、人ならぬ身の二人が傷を舐めあっていただけさ……相手を心から愛しむ本当の絆には敵わない。 初めにあんたを抱いたときから分かってたはずなのに」 ルックにはまだはっきりと思い出せる。初めて身体を重ねた夜、セフェリスが彼の名を呼び続けながら浮かべた恍惚とした顔、 それは母に甘える子供のそれとは明らかに逸脱していた。 そうだ、自分には分かっていた。それを認めるまでに随分遠回りをして、随分時間がかかったけれど。 「……ごめん、セフェリス。ぼく……あいつに嫉妬して、あいつなんて死んじゃえばいいのにってずっと願ってた」 常に不遜な空気をまとっているはずのルックの口から、謝罪の台詞が零れる。それはどこまでも真っ直ぐな後悔の念だった。 「だからソニエールからあんたが帰ってきたとき、ぼくはあんたの傷心を利用した。…酷いよね、吐き気がする…… そう、やっぱり違うんだ、ぼくはあんたを取られることよりもあんたを悲しませることの方がずっと怖いんだって、 本当の気持ちにやっと気づいた。だからあいつは絶対に、絶対に死んじゃいけないんだ…!」 「ルック……」 セフェリスはゆっくりと顔をあげ、上体を起す。ベッドの脇でへたり込み、ひれ伏し、おののき、震えているルックのつむじが、 涙で霞んだセフェリスの目にうっすらと映った。 「あの願いはぼくの空虚が生んだ虚妄なんだ……もう許してよ神様…!こんな運命ぼくは望んでいないのに!」 身も声も危うげに揺れるルック、彼のさらりとした髪に今度はセフェリスが触れる。涙は止まらないけれど、 目の前に広がる漆黒の闇も怖くてたまらないけれど、セフェリスは微笑みすら浮べてみせた。 「ありがとう。ルック……グレミオのために、ぼくと一緒に祈ってくれる…?」 「…あんた、ホント馬鹿だよ……早く、行けよ……」 不条理な『ありがとう』を受けてルックは顔をしかめる。こんなときにまで自分をいたわるセフェリスが憎らしくて。 そんなルックをセフェリスはしばし見つめていたが、やがてベッドから降りて立ち上がる。 瞳を閉じて涙の最後の一滴を零しきると、顎を引いてしかと前を向いた。 すると示し合わせたかのようにクレオが勢いよく扉を開け、セフェリスに声をかける。 「ぼっちゃん!ここにいたのですね…たった今、グレミオが……」 -あとがき- 2011年9月30日グレミオの日記念のお話です。 まさか今年もお祝いできるとは思いませんでした、 人生何があるか分からないものですね…… お祝いのお話なのにグレミオの扱いが酷いのは残念ながらデフォです。 ルックにも損な役回りをさせてしまいましたが、 このお話を書くことで彼に一層の愛着が湧きました。 また、グレミオは死んだ方がスマートかなと思いましたが、 僅かな救いを持たせたくて、こんな玉虫色の終わり方になりました。 表現等に関しては力及ばず悔しい思いもしましたが、お祝いを形にできた点では満足しています。 おめでとうグレミオ! |