鉄扉をじっと見つめていた。いや、鉄扉の向こうにいるはずの人のことをずっと見つめていた。 両目はとうに霞んでその視力を失っていたが、絶命する瞬間まで、そしてその後も見つめ続けていたい。 けれど、瞼がとてつもなく重い……落ちてくる…。視界は次第にせばまり、光は失せゆき、 とうとう総てが暗く深い漆黒へと落ちたとき―――グレミオの眼前には、 琥珀色の瞳に涙をいっぱいに溜めて微笑むセフェリスがいた。 (……ぼっちゃん…?) セフェリスは成長したしなやかな躯を惜しげもなく晒して、ゆっくりとグレミオにしなだれかかってくる。 (ああ…ぼっちゃん……) あまりにも幸福なまどろみの中、グレミオはセフェリスの腰に片手を回し、 もう片方の手をセフェリスの顎に添えて仰のかせる。 恍惚の滲む琥珀でグレミオをまっすぐ見つめながら、セフェリスは囁いた。 『キスの仕方も…教えて?……あのときみたいに……』 『…あのとき……?』 『ぼくが11のときの夜……』 『…………!!』 その一言にグレミオは凍りついた。脳裏に忌まわしい記憶がまざまざと蘇る。 守るべき人のことを初めて欲情の瞳で見てしまった夜。 淫術が解けたようにグレミオは短く悲鳴を上げてセフェリスを突き放そうとした。 だがセフェリスは強い力で固くしがみついて離れようとしない。グレミオは堪え切れずに必死に顔を背けた。 『見ないで!……こんな穢らわしい目、見ないでください……!』 すると少し怒ったような声でセフェリスが言い放った。 『ぼくはその目が好きなんだってば!!』 『………っ?』 セフェリスは両手でグレミオの頬を包み込んで、その双眸を覗き込む。 『グレミオの目……ぼくのこと、こんなに愛してくれてるのわかるから……すごく欲しがってくれてるのわかるから……好き…』 『…ぼ…っちゃん……』 呆然とするグレミオの心臓を、セフェリスが激しい語調で強く揺さぶってくる。 『グレミオは……ぼくが一度もグレミオを欲しがったことがなかったとでも思ってるの? ぼくの気持ちは知ってたんでしょ?ぼくの下着がしょっちゅう汚れてたこと知ってたんでしょ? ぼくが毎晩どんな夢見てたのか知ってたんでしょ!?』 『……………』 セフェリスはふっと表情を和らげ、導くように囁いた。 『もうこわがらないで…ぼくの瞳を見て……』 グレミオはほんの少しの勇気を出して、セフェリスの瞳をまっすぐに見据える。その瞳は、とても…… 『…あ………』 そのときグレミオは……微笑んだ。 自分の頬をつたう温かいものを感じながら、微笑んだ。 ずっと心を絡め取っていたものが、柔らかく溶けていく。 ゆっくりと、扉が開いていく。 『ぼっちゃんの瞳……とてもきれいです………』 おまえの願いは、いつか叶う。おまえたちならば…… ―――『おまえたち』の願いは、…いつか。 グレミオはやっと理解した、あのときのテオの言葉の意味を……セフェリスの薄紅色をした頬に触れながら、 ためらいがちに問いかける。 『キスしても…いいですか……?』 『してほしい……でも、もう無理なんだよ……』 哀しい声でセフェリスは離れていく。その瞳からとうとう涙が溢れ落ちた。 『だ、だめです!…行かないで!!』 『…行ってしまうのは、グレミオのほう……』 グレミオは気づいた。何か強い力で引きずられている。絶対的な力で引き離されていく。 『……そうだった……私は、死ぬ……』 『ぼくを置いていかないで……』 セフェリスが懸命に腕を伸ばしてくる。グレミオは引きずられまいと必死に抵抗した。抗えない力に抗おうとする。 『こんなところで死にたくない…っ』 『おねがい、ぼくを独りにしないで……』 『死にたくない、まだぼっちゃんを…!』 グレミオもまた渾身の力で腕を伸ばす。愛しい人へ腕を伸ばす。それはこの世の理に逆らう行為、 周囲の空気が痛切な悲鳴をあげている。それはまさに空間そのものの崩壊の音、断末魔の叫びだった。 かまわずグレミオはあがき続ける。離れていた距離が少しずつ狭まり、 それと同時に必死になればなるほど空間の崩壊は進行していく。あともう少しで触れられる、 あともう少しで総てが崩れる……やがて崩壊が臨界点に達したとき、互いの手を掴みあって……二人の想いが爆発した。 『死なないで!!!』 『死にたくない!!!』 「………。あれっ?」 間の抜けた声が聞こえてセフェリスが目を開くと、彼はきょとんとした表情でそこに立っていた。 (…今のは……何?) 暗闇の中でグレミオの手を掴んだことは、まだはっきりと覚えている。 あれは何だったのだ?白昼夢?そして今目の前にいる『彼』は何なのだ?幻覚…? グレミオもまた、自分の手とセフェリスとを交互に見ながら困惑の表情を浮べている。 彼が動揺するのも当然だろう、さっきまで監獄にいた筈なのに、セフェリスの手を掴んだと思った瞬間、 気づいてみればそこは本拠地の大広間。しかも見たことも無いほどの大人数に囲まれている。 「ぼ、ぼっちゃん……私は、いったい……」 グレミオはセフェリスに歩み寄ろうとしたがそれは阻まれた。仲間たちの喜びに満ちた歓声によって。 「グレミオ、グレミオーーー!!」 グレミオに親しい者たちが、いっせいに駆け寄ってくる。クレオ、パーン、ビクトール、キルキスにカミーユも。 飛び掛るように襲われて、押し潰されるのではないかと思うほどもみくちゃにされているグレミオ…… それを凝視するセフェリスにレックナートが語りかけた。 「門の紋章の力と、ここにいる宿星たちの力です。ですが、それだけではありません。 セフェリス…あなたが彼の復活を何よりも強く願ったことが、この奇跡を起こしたのです」 「…………」 セフェリスはレックナートの言葉を聞きながら、硬直したまま立ち尽くしていた。 足が石のように動かない。 顔の表情もひどく凍り付いている。 どうしてみんなみたいに駆け寄れないのだろう。 どうして「おかえり」って言えないのだろう。 どうして、微笑んですらあげられないのだろう…… そんなセフェリスの様子を、マッシュは『人の上に立つ者の冷静な態度』と判断した。 否、正しくはそう思い込もうとした。ひとしきり感激の嵐が過ぎたのを見計らうとセフェリスに声をかけ、彼を正気に戻す。 「さあ、セフェリスどの。今こそ、この場にいる全員に進軍の号令を与える時です」 マッシュの言葉が耳に届くと、セフェリスの身を襲っていた金縛りのような違和感は瞬く間に消えうせた。 大広間の全員が自分を見ている。セフェリスはリーダーとして培ってきた適応力で瞬時に心を入れ替えた。 「聞いてくれ、みんな……明日の戦いはおそらくこれまでで最も過酷なものとなるだろう」 キッと顔を引き締め、リーダーとしての決意を語り始めた。 「…でもぼくは恐れてはいない。ぼくにはみんなが、かけがえの無い一騎当千の仲間たちがいる。 みんながぼくを信じて戦ってくれるのなら、ぼくは全力でそれに応えよう、ぼくはみんなを守る為に戦う! ここに天地108星がひとつとして欠けることなく揃った。 われらが力を合わせれば、恐れるものなど何も無い!必ずや、勝利をわれらの手に!」 強くなっていく高揚感を全身で感じながら、拳を掲げ勇ましい声を張り上げる。 「われらに、勝利を!!」 応えるように解放軍の戦士たちもいっせいに拳を上げ、大広間を轟かせた。 『われらに、勝利を!!!』 それは皆の声がひとつになった瞬間だった。お見事です、と満足げなマッシュの言葉にセフェリスは力強く頷いてみせた。 そんな少年を、どこか淋しげに見つめる彼の視線には気づかないフリをして。 夜も更けてきた頃、セフェリスが最後の軍議を終えて自室に戻ると、 ちょうどグレミオがベッドメイクの最終確認をしているところだった。 彼はセフェリスが部屋に入ってくる気配を感じ、顔を上げて視線をやると、にっこりと微笑んだ。 昔と寸分変わらぬ笑顔。嬉しそうな声を出しながらシーツの具合をチェックしている。 「またぼっちゃんのお世話ができるんですね」 これでよし…と。そう呟いて皺ひとつ無いシーツを眺め、納得のいく出来に満足していると、 いつの間にかセフェリスが無言のまま、直ぐ傍まで来ていることに気づいた。 セフェリスの顔は一見無表情のようでいて、何かに怒っているような拗ねているような、 ほんの少しふてくされた空気をまとっている。それは少年が、 どんな表情をすればいいのか迷っているときの顔なのだとグレミオは知っていた。 だからグレミオはセフェリスをあやすように、少しでも安らげるように、優しい微笑をたたえ続けた。 「ぼっちゃん、私は未だに夢でも見ているようです……あれから一年以上も経ってしまっているなんて。 お城も随分大きくなっていて驚きましたよ。…いえ、」 グレミオは少しかがんで、目線をセフェリスの高さに合わせた。いまだ感情の定まらない瞳を覗き込みながら、誇らしげに語った。 「ぼっちゃんも、……立派になられた。見違えるように」 「…………」 かがんでみると嫌でも気づく、一年以上経ったのに全く変化の無い身長。 本来ならそれなりに伸びている筈なのに。それでも少年の内面だけは痛々しいほど成長してしまっている…… グレミオの胸に、ちくりと針が刺さったような痛みが走った。 先ほどの大広間で目の当たりにした、セフェリスの力強い号令を思い出して。 「…あの大広間での演説は素晴らしかったです。思わず魅入ってしまうほどに……『みんなを守る為に戦う』…… あんな言葉は、簡単に出てくるものではありませんから……」 淋しさを隠し切れないグレミオの言葉に、セフェリスが反応を示した。ほんの僅かに、肩が震える。 そして押し殺すように小さく呻いた。 「守る…ために……?」 その一言で、ずっと曖昧な色をしていたセフェリスの瞳に感情がこもっていく。 強く、強く、無尽蔵に湧き上がるその激しい感情とは……『憎悪』、だった。 「みんなを守る為に戦う…だって……?」 怒りで身をわななかせ、堪えきれずにグレミオの胸倉を掴みあげた。 「そんなの嘘…!!あんな言葉は、この戦争が終わるまでの間ぼく自身を騙し続けるための詭弁だ……!」 セフェリスはその顔を般若のように歪め、衝動の赴くまま心の奥底に溜まっていたものを、目の前の男に吐き散らした。 「ぼくが守りたいのはおまえだけなんだ!ぼくの信じるものもおまえだけだ!『信じることをつらぬけ』だって!? おまえがいないのに何を信じればよかったんだ!?おまえが死ぬ前にあんなこと言ったせいで、 ぼくは狂いそうになりながら頑張ってきた!なのに今更っ…今になって、どうして、どう…して……っ!」 みるみるうちに震えてくる声、揺れる身体を必死に抑えて、渾身の力でグレミオを睨みつける。 「教えてやるよ、おまえはミルイヒの胞子に殺された。だけどぼくは『おまえのいない時間』にその千倍は殺されたんだ!!」 セフェリスは力任せにグレミオの頭を掴んで、無理やり唇を奪った。ガツッと歯のぶつかり合う音がした。 翡翠色の瞳が驚愕に見開かれるのがぼんやりと見える。唇を強引に押し付けるだけの暴力的なキス。 時が止まった気がした、呼吸すら忘れてしまった。 息苦しくなろうとグレミオの頭をしっかりと押さえつけたまま離れようとしなかった。 「………っ」 やがて相手の硬直した身体にいたたまれなくなり、セフェリスはゆっくりと唇を解放させた。 吐息がかかるほどの至近距離で、息を殺して囁く。 「…グレミオなんか大っ嫌い……」 そのまま素早く離れようとした身体を今度はグレミオが拘束した。 両の腕でセフェリスをしっかりと捕らえ掻き抱いた。告白の言葉は自然と口を衝いて出ていた。 「あなたを愛しています」 きつく抱き締められたセフェリスは一瞬だけ強張り、そしてふっと全身から力が抜けるのを感じた。 静かに吐息つくと、やがて甘えるようにグレミオの胸元に頬を擦り付けながら、かすれた声で呟いた。 「……ぼくも愛してるよ」 「愛しています……」 もう一度、確かめるようにその言葉を口にした。服越しに伝わる熱い体温に思わず恍惚となる。 求めていたものがここにある、気の狂いそうなほど長い間求め続けていたものが、今ここに。 どれほど経っただろうか、胸の中のセフェリスが腕を伸ばして、その指先でグレミオの唇にそっと触れてきた。 驚いてセフェリスを見下ろすと、少年は瞳を潤ませて陶然とグレミオを見つめていた。 「ねえ…キスの仕方も……ちゃんと教えて……」 射抜くような眼差しを受けとめたグレミオは僅かに目を細める。そして抱き締めていた腕の力を緩めた、 もはや避けては通れない道を直視するまでの猶予期間を惜しむように、ゆっくりと。 「力を抜いてください……」 セフェリスの頬に手を添えて、顔を寄せながら囁く。 「目を軽く閉じて。少しだけ唇を開いて……そう」 もう、戻れない……互いの唇が触れ合った瞬間、胸に去来したのは一抹の悲哀だった。 一旦僅かに離れた後、下唇をついばむように触れてくる。それを何度か繰り返してはまた離れ、 やがて深く重なった。セフェリスの中に温かく柔らかいものが入ってくる。 それがグレミオの舌だと判る頃にはセフェリスはもう正常な思考が利かなくなっていた。 セフェリスは、まだこれが夢なのではないかという恐れを抱いていた。しかし今グレミオから与えられている口づけは、 セフェリスが思い描いていたどの幻想よりも甘く、温かく、そして確かなものだった。 優し過ぎるほどのキスがもたらす陶酔感は、ちょうどグレミオに髪を梳かれるときの気持ち良さに似通っていたが、 それ以上の『何か』があった。口腔内をとろけそうなほどに愛撫されて腰ががくがくと震えてくる、 こんな感覚は知らない。こんな快楽なんて知らない。こんな世界ぼくは知らない……! 恐怖にも似た感情を覚えてセフェリスは咄嗟に唇を離した。おそるおそる目を開くと、 直ぐ間近にグレミオの瞳があった。その光は信じられないほど優しくて、でもそれだけじゃない、 セフェリスが見たことの無い色を帯びた、初めての、瞳。 ……限界だった。既に潤みきっていたセフェリスの瞳から、ほろりと涙が溢れ、頬を伝う。 「ふ……っ」 一旦堰が壊れてしまうと、もう止まらなかった。とめどなく涙を零しながら、 懸命に堪えようとしていた嗚咽が唇から漏れてしまう。 「ふえ…っ……う、ううっ………」 何度もしゃくりあげながら嗚咽を零し始めたセフェリスを、グレミオはもう一度抱き締めた。 愛しさを込めた声音で囁いて、セフェリスを包み込む。 「大丈夫……泣きたいときは、泣いていいんです……」 温かい声に導かれるように、セフェリスはグレミオの背に腕を回し、きつく爪をたてて泣き叫んだ。 「うわあああぁぁ……っっ!!」 グレミオの胸に抱かれながら、セフェリスは泣いた。産まれたままの赤ん坊のように泣いた。 それは今までセフェリスが周囲の誰にも見せることが出来なかった苦しみ悲しみの総てを解放した瞬間だった。 セフェリスは泣いた、父さんが死んでしまったと。テッドが死んでしまったと。セフェリスは泣いた、 泣きながら途切れ途切れに訴えた、淋しかった。苦しかった。消えてしまいたかった…… 泣きすぎて次第に意味を成さなくなっていくセフェリスの声。 誰にも弱さを晒すことが出来ないまま走り続けてきた 少年の背中をグレミオはいたわるように撫でながら、頬に、額にキスを落とす。 「もう大丈夫……私が傍にいますから……大丈夫です……」 繰り返し繰り返し、何度も囁き続けた。やがて泣き疲れたセフェリスがグレミオの腕の中で気を失うように眠りにつくまで、 もう大丈夫だと、傍にいるからと、まるで子守唄のように…ずっと。 or 目次に戻る? 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