「軍師どの!!」
それは、中天に昇った陽が幾ばくか傾きかけてきた頃合いのことだった。 マッシュの部屋に血相を変えたクレオとパーンが足早に入ってきたのだ。
「何事ですか、クレオ、パーン」
クレオは部屋に部外者がいないことを確認すると、青ざめた顔色で軍主の身に突然起きた異常を訴えた。
「セフェリスさまが……眠ったまま、全く目を覚まさないんです…! 何度呼びかけても、頬をはたいても、必死に揺さぶっても……!」
「なんですと…!?」
マッシュもその表情を険しくさせ、ザッと椅子から立ち上がった。
「最初は、ただお疲れなのだろうと思っていたんです……でも、いくら待っても、何をしても、 身じろぎひとつしなくてっ……こんなことって、あるんでしょうか……!?」
「…取り乱してはいけません。とにかく、直ぐにリュウカン医師に診てもらいましょう。私もセフェリスどのの部屋に参ります」
マッシュは急いでリュウカンを呼び、クレオたちとともにセフェリスの部屋に向かった。 セフェリスはベッドの中に静かに横たわっており、その寝顔は穏やかだった。 ただ眠っているだけのようにしか見えないが、クレオやパーンが何をしても全く反応が無かったというのは明らかにおかしい。 ひとしきりセフェリスの検診をしたリュウカンは、重苦しい表情で首を左右に振った。
「……これは、病ではない。左手に見たことの無い紋章が宿っておる…… おそらく、この紋章が何らかの影響を与えていると考えられるのじゃが……」
「紋章…!?」
思いもよらない要因に、その場にいた皆が動揺を露呈させる。
「じゃあ、急いでルック君かジーンさんを呼んで……」
クレオがそう言いかけたところで、突然部屋の入り口から女性の声がした。
「その必要は無いよ」
その声は他でもない、紋章師のジーンのものだった。彼女は静かな表情で、ゆっくりとこちらに歩いてくる。
「その紋章は昨夜、私が宿したんだ。『夢見の紋章』……宿主が望む夢を見せ続ける紋章。 もしこのリーダーさんが夢から覚めるのを望まなければ、彼は死ぬまで目覚めない」
「死ぬまで目覚めない……!?」
一同に衝撃が走る。どうにか冷静であろうとするクレオが、揺れそうな声を堪えてジーンに頼んだ。
「ジーンさん、早く紋章を外さないと…!」
しかしジーンは首を横に振り、淡々と告げた。
「それは無理だね。この紋章は、宿主が望まないとつけ外しが出来ないんだ」
「なにぃ…っ!!」
感情を伴わないその態度がパーンの逆鱗に触れたようだ、怒りで顔を紅潮させてジーンに食ってかかる。
「きさま、なんでそんな危険な紋章をセフェリスさまに宿した!?」
ジーンは眠り続けるセフェリスを見据えながら、ほんの一瞬だけ哀しげな顔を見せた。
「このリーダーさんは、迷ってるのさ。大切なものを立て続けに失って、今にも心が折れそうになっちまってる。 いつ破綻してもおかしくない……そんなリーダーのもとで私は戦いたくないんだよ。だから私は、この試練を与えたんだ」
「なんだと!?セフェリスさまを試してるつもりか…!?」
激昂するパーンをクレオが身体を張って押しなだめる。仲間割れをしている場合ではない。
「落ち着け、パーン!…ともかく今は、どうすればセフェリスさまが目覚めるかが肝心だろ…?」
ジーンはクレオを肯定し、微かに嘆息して心に溜まった何かを吐き出した後、口を開いた。
「そのようだね。私が危惧したとおり、どうやら今、リーダーさんは夢の虜だ。…が、やりようが無いわけでもない」
「何か方法があるのですか?」
マッシュが尋ねると、ジーンはセフェリスを目覚めさせるための手段を説明した。
「私が今から夢と此処との接点を生む。あんたたちは一心に念じて呼びかけるんだ。もしかしたら、彼に通じるかもしれない。 向こうに聞く耳が残ってればの話だけどね」
よしんば通じたとしても、目覚めるかどうかはセフェリス次第。…それでもやるかい? そう言いながら見回すと、全員が当然のように頷いた。
「やってくれ、ジーンさん」
ジーンもまた頷くと、おもむろにセフェリスの左手を取り、紋章に手をかざす。
「いくよ……」
その声とともに、セフェリスの左手にある紋章が淡い光を放ち始めた。それが合図だったかのように、 クレオたちは心の中で必死にセフェリスに呼びかけた。
―――セフェリスさま、どうか、どうか、目を覚ましてください……!



「……どうしました?ぼっちゃん」
グレミオの腕の中でずっと微笑みを浮べていたセフェリスが突然、数瞬だけ表情を失った。 グレミオが優しく問いかけると、セフェリスは不思議そうな顔をしてぽつりと呟いた。
「…今……誰かに呼ばれた気がして……」
そのとき、左手に妙な違和感をおぼえてセフェリスは自らの左手を目の前に持ち上げた。 深い紺色をした紋章が、ほのかに輝いている。
「左手の紋章が光ってる?……これは、確か…『夢見の紋章』…」
その言葉を口にしたのと同時に、セフェリスは頭を打たれたような衝撃を感じた。 眠りに落ちる前のジーンとのやりとりを思い出したのだ。 左手に宿されたのは、己が見たい夢を見せてくれる紋章、夢見の紋章……
「…グレミオ……やっぱりこれは夢なんだね…?」
哀しみのような、落胆のような、それでも安堵したような、複雑な表情でセフェリスが問いかける。 グレミオは微かに苦笑して、その問いに答えた。
「ええ、これは夢です。現実世界の感覚に限りなく近い夢。 夢だから、死んだはずの私がいる。テオさまにも、テッド君にも会える」
言いながら、セフェリスの黒髪を慣れた手つきで梳いていく。その感覚はあまりにも現実めいていて、 まるで夢であることを忘れさせるかのような。
「でもこの夢は……覚めなくていいんです。ぼっちゃんが望むだけ、ぼっちゃんの見たい夢を見続けることが出来ます。 その代わり、現実世界のあなたは眠り続ける……そのまま目覚めなければ肉体はやがて衰弱し、 死に至る。そして夢は、永遠となるのです」
そしてグレミオは心臓をとろかせるほどに甘く、囁いた。セフェリスを惑わせる、魔性じみた囁き。 以前どこかで聞いたような気がする……どこか…で………
「ここにいれば、辛い戦争なんてしなくていいんです。リーダーの重荷を背負うこともないんです…… ねえ、ぼっちゃん、ここで永遠に私と暮らしましょう?あなたの欲しい言葉なら幾らでも囁いてあげます。 …ぼっちゃんが求めるのなら、抱いてもいい。ずっと一緒に、幸せな時間を過ごせるんですよ?」
「…グレ、ミオ……」
ゆっくりとグレミオが顔を寄せてくる。その意図を悟り、セフェリスは陶然としたまま薄く唇をほころばせ、その瞳を閉じた。

―――目を…覚ましてください……!!

「………っ!」
再び脳裏に響いた声。あまりにも悲痛に呼びかけてくる声、それがセフェリスにかけられた術を解いた。 唇が触れ合う寸前、セフェリスは男の身体を突き飛ばした。
「ぼくは……」
自分を包むぬくもりを失った喪失感に震えながらも、琥珀の瞳に確かな意志を灯してグレミオに言い放つ。
「ぼくは行かなきゃ」
グレミオは意外に思ったのか、軽く目を見開いた。
「…なぜ?私のいないあの世界に、なぜ戻るというのですか?」
「だっておまえはぼくの欲しいグレミオじゃないから」
その言葉に迷いは無く、確信を持ってセフェリスは眼前の男に告げた。
「あの人は言ってた、最後まで信じることをつらぬけって。最後まで戦いぬけって。 だけど『おまえ』はぼくにとって都合のいいことしか言わなかったよね?」
だから……、セフェリスは悲しげに微笑む。己への僅かな憐憫を込めて。
「おまえは偽者。紋章の力とぼくの願望が生み出した、人形に過ぎないんだよ……」
その言葉を待っていたかのように、ふ、とグレミオもまた切ない微笑みを浮べた。
「……じゃあ、お別れですね……」
セフェリスが頷く。二人は視線を絡めあわせたまま、夢の終わりを告げた。
「さようなら、グレミオ」
「さようなら、ぼっちゃん……」
二人の言葉とともに全ては崩壊していった。崩れていく世界の中、セフェリスは思う。 本当はこのまま眠り続けていたかったのかもしれない。 グレミオと一緒にいたかった想いは、確かに存在していたのだから。 でも、まだやらなくてはいけないことがある。自分はみんなに必要とされている……そして………



「セフェリスさま…!!」
セフェリスが目を開けると、周囲の人たちの驚きと歓喜の声が鼓膜を揺さぶった。 その場にいる仲間たちの顔を見回しながら、セフェリスはほのかに微笑んだ。
「……ありがとう、クレオ、パーン…みんなのおかげで、ぼく、帰ってこれた…」
ゆっくりと上体を起こすと、いつのまにか左手の中にあった紺色の封印球を目の前のジーンに差し出した。
「ジーン、この紋章は返すよ。やっぱりこれは、今のぼくには必要の無いものだ。ぼくの居場所は、此処なんだから……」
「…よく戻ってきてくれたね」
ジーンが感慨深げに封印球を受け取る。 そしてパーンは感極まったのか、セフェリスの手を握り締めながら震える声でその名を呼んだ。
「セフェリスさまっ!!本当によかった、本当に……!」
今にも泣き出しそうなパーンに向けて、セフェリスは優しく語りかける。
「ごめん、心配かけて……ぼくを呼んでくれる声、ちゃんと聞こえたよ」
……そう、あのときの切羽詰った仲間たちの呼びかけ。みんなが呼んでくれなかったら、 きっと夢から覚めることは出来なかっただろう。たとえ夢であろうとグレミオとともにいられるのなら、 死んでもかまわないと、一瞬思ってしまった……
「それで、セフェリスどの。ジーンの処分はいかがしますか?」
マッシュが険しい表情でセフェリスに問いかける。今回の騒動を起こしたのはジーンだ、 彼女は少なからずセフェリスを危険に晒した。パーンも怒りが収まらないのか、声を荒げる。
「そうだ!この女、セフェリスさまに試練を与えたとか言って…!」
しかしセフェリスは静かな声で二人をたしなめた。
「パーン、…それにマッシュ、どうかジーンを咎めないでくれ。 原因はぼくの弱さだ。ぼくがリーダーにふさわしくないのなら、皆にはぼくに抗議する権利がある」
セフェリスのそれは是非を言わせない声音だった。 こうなったセフェリスは、そう簡単には考えを変えてはくれない。 マッシュとパーンはほぼ同時に深く嘆息し、思わず互いの顔に視線をやった。
「……承知いたしました。セフェリスどのがそこまで申されるのなら、文句は無いでしょう。そうですね?パーン」
「はあ…わかりましたよ。ジーンのしたことは許せないが、…無事で何よりです、セフェリスさま」
二人の言葉にセフェリスは「ありがとう」と謝意を伝えた、淡い微笑みをたたえながら。 ここ数日間笑うことすら忘れていたセフェリスの、久しぶりに見る穏やかな表情。クレオはそんな主を見て、 ふっと漠然とした不安を感じる。確かにセフェリスは帰ってきてくれた、 しかしクレオたちが呼びかけるまで目覚めようとしなかったのもまた事実なのだ。 夢の蜜は、それほどまでに甘いものだったのか……
(顔には出してくださらないけど…セフェリスさまは、もしかして本当は相当弱っているんじゃないだろうか…… 今は戦争という緊張感がセフェリスさまを支えてくれているようだけれど、もし…それが終わったら……?)



その後も解放軍は破竹の勢いで勝ち進んだ。 それはリーダーであるセフェリスの揺るぎない統率力と正軍師マッシュの奇策がもたらした勝利であるが、 いよいよ古き時代の終わりを感じ始めた兵士達の士気の高揚のたまものでもあった。
モラビア城に捕らえられていたウォーレン氏とビクトールを救出、城を無血開城し帝国将軍カシム・ハジルを解放軍に迎え入れた後、 続いて水上砦シャサラザードを陥落させ、最後の帝国将軍ソニア・シューレンを捕らえ、説得し仲間に引き入れた。
シャサラザードが落ち、今や帝都グレッグミンスターへの道を遮るものは無い。明日が最後の決戦となる。 おそらく帝国側も決死の覚悟で挑んでくるであろう。こちらも軍の士気を最大限に高めるために、 本拠地の大広間に解放軍の天地108星の面々が集うことになった。

「ビクトール、あんたまだこんなところにいたのかい」
城の4階の廊下、窓から眼下に広がる湖をぼんやりと眺めていたビクトールにクレオが声をかけた。 主要メンバーはもうほとんどが大広間に向かったというのに……たしなめるようなクレオの語調に、 ビクトールは相も変らぬ鷹揚な声音で答えてみせた。
「俺ひとりくらい、多少のんびりしてたって大したことないさ。クレオこそ、何してるんだ?」
「これからセフェリスさまを呼びに行くところだよ。あんたも来る?」
「…そうだな、俺も行こう」
ビクトールもセフェリスの顔を見ておきたかったのだと言い、クレオに同行した。 ひと気の無くなった廊下を歩きながら、ふいにクレオはぽつりと呟いた。
「ねえ、ビクトール……」
「どうした?」
「私さ、……この戦争がずっと終わらなければいいのに、って思うことが時折あるんだ」
クレオにしては珍しく、か弱い声で本音を漏らした。彼女のガードが緩んでしまったのは、 おそらく隣にいる人間が、付き合いも長く懐の深いビクトールという男だったからだろう。
「……セフェリスのことか?」
以前ビクトールが城にいないとき、セフェリスが夢見の紋章にとらわれて目覚めなくなってしまったこともクレオから聞いていた。 クレオとビクトールは、ずっとセフェリスを見守ってきた同志だ。だからこそ、互いの考えていることも薄々とわかってくる。
「うん……セフェリスさまは、果たすべき義務を終えてしまったら、その瞬間に遠くへ行ってしまいそうで…… 私たちの手の届かない、遠くへ……」
そう言いながら、いつしかクレオの足が止まってしまっていた。 身体の奥底から小刻みな震えが湧き上がってきて治まってくれない。
「実を言うとね、戦争よりも……私…そっちの方が、怖くてさ……情けないだろ…?」
声すらも震わせているクレオのこわばった横顔を見つめながら、ビクトールは軽く嘆息し、クレオに語りかけた。
「…行かせてやれよ」
穏やかな声色だった。覚悟なら、あの満月の夜、セフェリスに剣を放り投げたときに既に出来ていたから。
「マッシュやレパントあたりは、セフェリスを新たな国の当主に…とか考えてるかもしれねえが、 俺たちはずっとあいつに義務を押し付け続けてきた。今にもボロが出そうなほど危うい均衡を保っていると知りながら、な」
クレオは俯いたまま黙り込んでいる。今までセフェリスが耐えてきた重圧と苦しみを考えただけで、頭がおかしくなりそうだ。
「そろそろ自由にさせてやってもいいだろう?俺たちにあいつを止める権利はねえよ。 たとえそれが人として外れた道であったとしても……最後ぐらいは、あいつが望む道を行かせてやれ」
こくん、と小さく頷いて、クレオは目元をきつく押さえる。出した声は、やはり震えていた。
「そう、だね……それでも……それでもね、私は…………悲しいよ」
ビクトールはそんなクレオの肩をそっと抱いてやった。本当は、こんなとき傍にいて欲しいのは別の男のはずだっただろうに。 あのニブちんめ、とビクトールは心の中で軽く毒づいた。



大広間への召集が命ぜられた頃、セフェリスは一人自室のベッドに腰を下ろし、その手の中にあるものをじっと見つめていた。 彼が手にしているのは一振りの銅の斧。 グレミオが死んだ日にビクトールがソニエール監獄から持ち出していた、グレミオの形見だ。
ビクトールはずっとこの斧をセフェリスの目に触れぬよう隠していたが、シャサラザードを攻める前日の夜、 彼はセフェリスの部屋を訪れると決意の言葉とともにこの形見を託してきたのだ。 そのときのことはよく覚えている、その日の夜も満月だったから。 かつてセフェリスが死のうとしたあの夜と同じ、綺麗な満月だったから……
―――明日の戦いで俺も死ぬかもしれない。だから今渡しておく。大丈夫だ、今夜も満月だが、 おまえはもうあのときの狂い咲きの月に惑わされていたおまえとは違う。……きっと、大丈夫だ。
まるで己自身へと懸命に言い聞かせているような口ぶりだった。 ビクトールのそんな台詞をぼんやりと思い出しながら、セフェリスは斧の柄に巻かれた布を愛しげに撫でていく。 この布の下に隠された、グレミオの想いが刻まれた誓いの言葉を抱き締めるかのように。
「セフェリス、いるか?そろそろ俺たちも大広間へ向かおうぜ」
「ああ。今行くよ」
部屋のドアがノックされ、ビクトールが呼びかけてくる。それに答えながら、セフェリスはそっと斧をベッドの上に横たえた。
(…これが最後だ。もうすぐ、もうすぐ戦いが終わる。そうしたら今度こそ、本当のおまえに逢えるよ。 もう少しだけ、待っていて…グレミオ……)
微笑みすら浮べながら斧に向けて囁くと、セフェリスは立ち上がった。 一切の迷いを振りほどいたその顔は既に一軍を率いるリーダーとしてのものであり、まさに英雄と呼ぶにふさわしいものであった。
心の中の脆い部分は、すべて斧のなかに置き去りにしたまま……



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