テオとの戦いから早数ヶ月が過ぎた。セフェリスたちは吸血鬼ネクロードを倒してロリマー地方を解放し、 更に竜洞騎士団と同盟を結んだ。これにより解放軍の力は飛躍的に増大し、 北方の守りを固める帝国五将軍のひとりカシム・ハジルの軍とも互角以上に渡り合えるようになった。
残る帝国将軍はカシム・ハジルとソニア・シューレンの二名。彼らを倒せば帝都グレッグミンスターへの道が開かれる。 長き戦いにもようやく終着点が見えてきたところだった。
そしてこれは、竜洞からセフェリスが本拠地に帰還して数日後の出来事である。
「…セフェリスさま、大丈夫ですか?」
今日一日、クレオ・パーンの二人と共に城内を見回っていたセフェリスは、 自室に戻る途中にかけられたクレオの心配そうな声にハッとなった。少しよそ事を考えていて周囲が見えていなかったようだ。
「ごめんクレオ、ちょっとぼーっとしてて……」
リーダーがこんなんじゃいけないね、と申し訳なさそうな顔をするセフェリスに、パーンが笑いかけた。
「少し疲れてるんですよ、きっと。なんせまだ竜洞から戻ってきたばかりですから。今日は早めに休んで下さい」
「うん…そうするよ」
そう言って頷いたセフェリスを部屋まで送り届けると、クレオとパーンも自分たちの部屋に向かった。 広い廊下を歩きながら、終始二人は無言だった。二人とも何か言わなくてはと思っていたが、 口にしてしまうと嫌でも現実が見えてしまう…それが怖かった。 自分たちの部屋に戻ると、とうとう沈黙に耐えかねたようにクレオは少し顔を伏せ、言いづらそうに力無い一言を零した。
「ねえ、今日も、一度も…笑わなかったね……ぼっちゃん……」
セフェリスに元気が無い理由は、二人には大体予想がついている。パーンもまた、苦しげに呟いた。
「ああ……。あんなことがあった後だからな……」



『…グレミオさんが死んだのも俺の所為なんだ…恨んでもいいんだぜ……』
セフェリスは薄暗い部屋の中、ベッドの上で膝を抱えて座っていた。親友テッドの死からいつの間にかもう数日が経ってしまった。 それでもまだ目を閉じればまぶたの裏にはっきりと思い出せる。 宮廷魔術師ウィンディに操られたテッドはセフェリスから紋章を奪おうとしたが、 ひと時だけ正気に戻った彼はソウルイーターの呪いをセフェリスに語り、支配の紋章から逃れるため自ら命を絶った。
『そんな…テッド、おまえを恨むなんて出来るわけがない!お願いだから、死なないでよ…!!』
呪いの紋章ソウルイーターは、宿主に近しい者の魂を盗んで成長する。オデッサ、グレミオ、テオ…… 彼らの死もこの紋章の所為なのだという。かといってテッドを憎めるはずも無い。 そんなことよりも、テッドが逝ってしまう恐怖と悲しみの方がよほどセフェリスの心を切り裂いた。
『ごめんな、セフェリス、ごめんな……おまえを不幸にした…こんな俺を、……許して…くれるのか…?』
すげー、嬉しい……。掻き消えそうな声でそう囁いて、テッドは満面の笑みを浮かべた。それが彼の最期だった……
「…誰?」
控えめなノックの音が耳に届き、セフェリスは立ち上がってドアに向かった。扉を開けると、 そこには銀髪の女性がひとり、佇んでいた。大胆かつ神秘的な衣装をその身にまとう妙齢の女性。 紋章師のジーンだった。こんな夜に何の用だろうか。彼女は特徴的な姉御口調でセフェリスに話しかけてきた。
「リーダーさん、今日私の店に来てくれただろ?ちょっと気になってね」
「え?ぼく、何か忘れ物でもしてた?」
きょとんとするセフェリスの、その胸元、心臓のある辺りをジーンはついと指差して、妖艶に微笑んだ。
「…ココ、が、淋しいって、顔に書いてあるよ」
その一言でセフェリスの表情が険しいものへと急変する。ジーンはくすりと笑い、ひとつの綺麗な封印球をセフェリスに見せた。
「いいものがあるんだ。試してみる?」
「いいもの……?」
「たぶん、今のあんたに必要なものだと思う。左手を出してみな」
セフェリスは一瞬怪訝そうな顔をしたものの、素直に左手の手袋を取り、ジーンに差し出した。 彼女の手の中にある封印球がまばゆい輝きを放ち、セフェリスの左手へ集まっていく。 やがて光が収まると、左手の甲にはセフェリスが見たことの無い紺色の紋様が現れていた。
「『夢見の紋章』さ。あんたが今一番見たい夢を見せてくれる。あんたが、無意識に、一番見たいと思っているものをね」
「夢見の、紋章…?」
ジーンの言葉を聞きながら、セフェリスは己の身体に現れた変調を少しずつ自覚し始めた。 目の前が次第に暗くなり、耳が遠くなっていく。
「な、に…?……急に、眠…く………」
「ただし…気をつけるんだよ、時折戻って来れなくなることもあるからね……」
最後の言葉は、果たしてセフェリスに聞こえていたのかどうか。力を失ってくずおれるセフェリスの身体を支えながら、 ジーンはそっと囁いた。
「良い夢を。可愛いリーダーさん……」



意識が少し混濁しているような気がする。そこは不思議な空間だった。 周囲の景色はおぼろげで、ふと辺りを見回すとそこはマクドール邸の吹き抜けであったり、 かと思えばそこはグレッグミンスターの広場であったり、人々のざわめき、小鳥のさえずり、 耳にするもの肌が触れるもの何もかもが曖昧で、ひとつのものに集中しようとすればそれは儚く消えてまた新たなものが生まれゆく。 そんな奇妙な感覚をおかしいと思うことも出来ず、セフェリスは一人、ぼんやりと立っていた。
(なんだか気持ちいいな……朝の目覚める前のまどろみのような……)
そのままゆるゆると心地よい感覚に身を任せていたが、ふいに目の前に現れた人影に気づく。 それはセフェリスが良く知る人物だった。
「大きくなったなあ、セフェリス!」
セフェリスの目の前で朗らかに笑うのは、自分が殺したはずの父、テオだった。
「父さん…!」
テオは遠征から帰ってきたばかりの鎧姿で、ずっと父のことを待っていたセフェリスに向け、申し訳なさそうに謝った。
「すまないな、今回も少々仕事が長引いてしまった。たまにしか会えない私を許してくれ」
「だって父さんは帝国将軍だもの。忙しいから仕方ないよ」
そう言いながらセフェリスは微笑む。なぜ、もういないはずの父と自分がこうして話しているのか、 いつのまにか疑問すら抱かなくなっていた。そんなセフェリスの肩を力強くテオが叩く。
「だからこそ、共に在る時間を大切にしなければならないな」
「うん……」
それから二人はたわいの無い談笑を交わし合った。父の遠征の土産話や、マクドール家のみんなの近況について…… それはセフェリスにとってかけがえのないひと時だった。 しかし父と話しているうちに、いつしかセフェリスは小さな違和感を覚え始めた。 違う、何かが違う、と。セフェリスがそう感じたとき、ふいにテオはどこか遠くを見やり、唐突に別れの言葉を告げた。
「…私はもう行くとしよう。どうやら、私は選ばれなかったようだ」
「父さん…?」
セフェリスが異変に気づいた瞬間、父の身体は跡形も無く霧散していた。なぜ、 とセフェリスが感じる前に、間をおかずして別の人の姿が現れた。 今度もまたセフェリスにとって馴染み深い人物だった。
「テッド!?」
思わず大きな声をあげてしまった、そんなセフェリスの頭を小突きながらテッドは笑っている。
「なに化け物見たような顔してんだよ。俺の顔に何かついてるのか?」
「…ううん、ちょっとびっくりしただけ」
「あんまり大声出すと魚が逃げるぞ。釣りは心を穏やかにして楽しむもんだ」
そう、ここはテッドとよく遊んだグレッグミンスター郊外の川。釣竿を手に大きな岩の上に腰を据えて、 針に魚がかかるのをじっくりと待つのだ。若いくせに随分と渋い趣味だと最初は思っていたが、 いつしかセフェリスもこの遊びが好きになってしまっていた。
「おっ、かかったぞ!」
テッドが嬉々として竿を上げると、なかなかの大きさをした魚が岩の上で元気よく跳ねた。
「ホントにテッドって、釣りも狩りも上手だよね。何かコツがあるの?」
「へへっ、要は慣れさ。俺も結構年季が入ってるんでね」
「ぼくも負けてられないな。よ〜し、頑張るぞ!」
「おいおい、釣りは変に気負わない方がいいぜ?」
いつの間にかセフェリスもテッドも釣りに夢中になっていた。持ってきた壷に戦利品が幾匹か溜まった頃、 夕刻を告げる鴉の鳴き声でようやく二人は日が暮れてきたことを知った。
「あっ、もうこんな時間だ。テッド、そろそろ帰らなきゃ」
―――かえらなきゃ…カエラナキャ………ドコ…ニ……?
唐突にセフェリスは何ともいえない奇妙な感覚にとらわれた。此処は違う、此処じゃないと、心の中で何かが強く叫んでいる。
(ぼくの…帰りたいところ……?)
「…なあ、セフェリス…」
突然、やけに神妙な声を掛けられてセフェリスがテッドの顔を見やると、 彼は切なさすら感じさせる淋しげな微笑みを浮かべていた。
「いつの日か、また一緒に遊ぼうな。約束だよ、忘れるんじゃないぞ。俺の一生のお願いだ…」
「テッド?…何言ってるの?」
(…まるで、もう会えないみたいじゃないか……)
その表情と言葉の真意を測りかねているセフェリスに、テッドは先ほどの陰の落ちた微笑が嘘のようにとびきりの笑顔を見せた。 そして明るい声で親友に別れの言葉をかける。
「じゃあ、俺もここいらでおいとまするよ。セフェリスが一番逢いたいのは俺なんかじゃないんだろ?」
「え……?」
それはセフェリスが瞬きをするほどの刹那。テッドの姿は一瞬にして消えてしまっていた…… 去り際のテッドの台詞が心の中でいやに強く反響を続けていて、セフェリスはふと自問する。
(『一番逢いたい』って……?…ぼくが、一番逢いたいの…は……それは………)
そのとき、ふわりとセフェリスの身体がぬくもりに包まれた。びく、と全身が震える。 すぐ背後に誰かいる……その人は後ろからセフェリスを抱き締めていた。そして耳元をくすぐる懐かしい声。
「もう、ぼっちゃん…どこに行ってたんです?探していたんですよ……」
セフェリスの心臓が強い拍動を訴えている。背後の気配は、幻覚にしてはやけにリアリティがあった。 背中越しのあったかい体温、ほのかに香る石けんとお日様の匂い…ちゃんと感じ取れる。 抱き締めてくれる腕の力強さまで、総てわかる……これは…これは、いったい何……?
僅かに身じろいで腕の中から離れ、そしてゆっくりと振り向くと、確かにそこにはセフェリスが一番逢いたい人がいた。 しかしにわかには信じがたく、セフェリスは呆然としながら消え入りそうな声で小さく問いかけた。
「グレ…ミオ……なの?」
いつしかの幻影のように、触れたらまた直ぐに消えてしまうのではないかと、 強い不安を抱えたままおそるおそるグレミオの頬へ手を伸ばす。彼はその手を取って、己の頬にしっかりとあてさせた。
「グレミオは……此処にいます。ぼっちゃんが望む限り、ずっと……」
手のひらに伝わってくるはっきりとした感触、どれだけ触れても消えない温かな身体。 …幻、なんかじゃない……これは…ああ、本物の、本当のグレミオだ…!
「グレミオっ……!」
セフェリスはその表情を幼く崩し、勢いよくグレミオの胸の中に飛び込んだ。 少しでもグレミオの存在を強く感じたくて、その身体を固く激しく抱き締める。
「グレミオ、グレミオ、グレミオ!逢いたかった、逢いたかったよ……!!」
グレミオもまたセフェリスの背に腕を回して、己にすがりつく少年のしなやかな黒髪にそっと頬をうずめた。
「私もです。あなたに逢いたかった…ぼっちゃん……」
二人はしばし互いのぬくもりを分かち合ったまま動こうとしなかった。 愛しい胸に抱かれて深く重なり、もう二度と、離れたくない……



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