「…tempo…re……morte…m…co…g…no……、……」
やがて、歌い続けていたセフェリスの全身からふらりと力が抜けた。倒れかけたところを慌ててビクトールが支える。
「…セフェリス!?おい、セフェリス!!」
ビクトールが呼びかけるが返事がない。動かなくなったセフェリスの身体を必死に揺さぶった。
「むやみに動かしてはいかん」
リュウカンが傍に寄り、セフェリスの頚動脈に触れ、口元に手をかざす。キルキスはその様子を見て何かに気づいた。 ……鉄扉を叩き続けていたセフェリスの右の手袋…あんな色をしていただろうか?
「ふむ……呼吸は浅いが脈は正常じゃ。極度の緊張による脳貧血じゃろう……眠っておるのと、さほど変わらん」
「…失神か」
沈痛な面持ちで呟くビクトールに、比較的立ち直りの早いルックがこれからのことを尋ねた。
「あのまま歌われてるよりはよっぽど良いよ。それより、いつまでここで手をこまねいてるつもり? ずっと来るかもわからない助けを待ってるわけ?」
「ああ、確かにな。………キルキス…どうした?」
ビクトールがいつの間にか傍に来ていたキルキスを見やる。キルキスは答えずに、 震える手でセフェリスの右手の皮手袋を、おそるおそる外した。
「………!!」
「…こいつは……」
キルキスが声にならない悲鳴をあげる。ビクトールでさえその右手のあまりの有様に眉をしかめた。
「……こんなに…なるまで……」
痛々しいほどのセフェリスの右手、これを直視できる人間は少ないだろう。 フリックもまたそうだった。彼はセフェリスから強引に視線を逸らし、皆に提案した。
「………牢獄の奥に行こう。何か脱出方法が見つかるかもしれない……もしかしたら、グレミオを助ける手も……」
「ああ、しかしセフェリスは誰が……」
気絶しているセフェリスはここから動かせない。ビクトールがそう言いかけたところにキルキスが名乗り出た。
「ぼくがここに残ります!ぼくは水の紋章を宿してます。セフェリスさまはぼくが治してますから、みんなは奥へ……」
「…わしも残ろう。骨を痛めていないか診た方がよいじゃろうからな」
リュウカンの言葉にビクトールは頷いた。一流の医者が診てくれるのなら心強い。
「それじゃあ行ってくる。セフェリスを頼んだぜ」
「ビクトールさんたちも、気をつけて……」
奥へと歩いていくビクトールたちを見送ったキルキスは、そっとセフェリスを横たえた。 リュウカンが傷を診ている間中、牢獄の床をじっと射抜くように見つめていた。 彼もまた、セフェリスの右手を直視できなかったのだ。


セフェリスの右手は裂傷だったが、幸いにも骨は無事だったようで、紋章を使えば完治できるとのことだった。 キルキスの宿した水の紋章で傷口はどうにかふさがった。水に濡らした布で手にこびりついた血を拭い清め、 赤黒く変色してしまったセフェリスの皮手袋を元のようにはめてやる。 セフェリスの右手の甲には真の紋章の紋様がある。それを晒さないためには、たとえ血で汚れた手袋でも、 何もつけないよりはましだろう。
一通り治療が終わってもセフェリスはまだ目を覚まさない。ビクトールたちも帰ってこない。 やることのなくなったキルキスはセフェリスを膝に抱いたまましばらく黙り込んでいたが、ふいにリュウカンに語りかけた。
「絶望していますか?リュウカン先生」
「…………」
リュウカンは何も言えず押し黙っている。セフェリスの相貌を見つめながら、キルキスは苦しげに声を出す。
「…ぼくは、まだ……でも………」
心の中で、負けそうになるキルキスの精神をずっと励まし続ける声がする。今回に限って、 それは心より愛する恋人シルビナの声ではなく。…キルキスは語った。
「ぼくは以前、すべての希望を棄てようとしたことがあります。そんなぼくを救ってくれたのは、グレミオさんでした」
焼けたエルフの村で絶望し、恋人のシルビナに贈る筈だった指輪を捨てた自分。
その指輪を拾いあげてくれた彼。
―――この指輪は君の希望です。希望を捨てちゃいけません。
そしてシルビナは生きていた。すべてが終わったとき彼女に手渡すために、指輪は今、 キルキスの元で『希望』として淡く光っている。
大切に懐にしまってあった指輪を取り出し、それを固く握り締めながら、キルキスは告白した。
「ぼくはシルビナの次に、グレミオさんが好きでした」


それはパンヌ・ヤクタの戦いからさほど日の経たぬ頃のことだった。 故郷を焼かれた時に励まされてからというもの、キルキスはグレミオを敬愛して一緒にいることが多くなった。 ある日キルキスはグレミオを食事に誘い、そのとき少々言いづらそうにこう口を開いた。
「ぼくは…実はセフェリスさまがちょっと苦手で……」
グレミオは食事の手を休め、不思議そうに訊いた。
「どうしてですか?」
「セフェリスさまがぼくを見ると、何か怒っているような、何か言いたげな……そんな雰囲気なんです。 やっぱりエルフだから気を許してもらえていないんじゃ……」
不安げに語るキルキスだが、グレミオは一笑に付した。
「まさか!ぼっちゃんは無闇に差別をするような方じゃないって、 キルキス君も知ってるでしょう?そういうときのぼっちゃんは大抵つまらないことでお悩みなんですよ」
「……つまらないこと?」
グレミオには大方の予想は付いていたが、あえてそれは言わず、適当な言い訳を考えた。
「…う〜〜〜ん、背が高くていいなあとか、耳が長くていいなあとか、…そんなことだと思いますよ。今度訊いておきますね」
何のことはない、セフェリスはただ子供じみた嫉妬をしているだけなのだ。それを思ってグレミオは微かに苦笑した。
「キルキス君、他に何か肩身の狭い思いはしていませんか?エルフは人数が少ないですから」
「そんなことありません!皆さんよくしてくださいます……確かに、中には物珍しげに見る人もいますけど…… でも、ぼくの望みは人間もエルフもコボルトもみんなが仲良く暮らせる世界を作ることですから…… みんなのためにぼくはどこまでも戦います」
「それがキルキス君の戦う理由なんですね。すごいと思います」
素直に感心した様子のグレミオに、キルキスは気になっていたことを尋ねた。
「…あの……ひとつ訊いてもいいですか?」
「ええ」
「グレミオさんの戦う理由って何ですか?」
それはキルキスにとっては、ある程度答えの予想できる問いだった。そしてその予想通り、グレミオはためらわず語った。
「私が戦うのはひとえにぼっちゃんを守るためです。基本的に戦いは嫌いですけどね、 けれどぼっちゃんが戦う道を選んだのなら、私はぼっちゃんを守るために戦う」
それはグレミオの誇りなのだろう、キルキスにはとてもまぶしく感じられた。…けれど、その先は?
「もし……セフェリスさまが正しい道を選び取れなかったとしても?それでもグレミオさんは付いていくのですか?」
その問いにも、グレミオは迷い無く即答した。
「ぼっちゃんの信じた道であるなら。ぼっちゃんが信じようとするものを、私も信じます」
「……………」
キルキスは言葉を失った。グレミオの答えは、聞き覚えがあったのだ。かつて、恋人のシルビナに語った自らの夢。 どの種族も分け隔てなく仲良く暮らせる世界を創るという夢……
『わたし、あなたの言うことが分からない。やっぱり人間は信用できないし、ドワーフは怖いわ』
『…でも、あなたのこと信じる。あなたの信じることを、わたしも信じる』
(……シルビナと、同じ……)
「え?…私、何かまずいこと言っちゃいましたか?」
キルキスの沈黙を不自然に思ったのか、グレミオが慌てて訊いてくる。そんな彼に、キルキスはまた尋ねた。
「いえ………どうしてそこまで、一途に……盲目的に信じられるんです? ぼくとシルビナみたいに、愛し合って将来を約束した仲でもないのに……」
その問いかけを受けたグレミオは、ふっと淡く微笑んだ。その微笑みはどこまでも柔らかく、慈愛に満ちて、 遥か遠き母をも思わせた。
「『愛』って……たった一言の内に、なんてたくさんの意味があるんでしょうね。 キルキス君がシルビナさんに向ける恋愛、あなたを産み落とした母親に向ける親愛、 生まれ育ったエルフの村に向ける愛惜、クワンダ将軍に向ける愛憎、肉体的な渇望を癒そうとする愛欲、 長老に向ける愛敬、路頭を彷徨う子供に向ける慈愛、生けるもの死せるもの万物に向ける博愛。 その中のひとつでも心の中に強くあれば、信じることは出来ます。……でも……もし、 …それらの『愛』がただひとつの対象にすべて向けられてしまったとしたら? ……きっと、正気ではいられないでしょうね。 ………そうなってしまった、哀しい人を私は知っています」
「それは……」
誰のことですか、とは訊かなかった、キルキスは直ぐに気づいたから…。
「……哀しい人です」
微笑みながらグレミオは続ける。
「あまりにも哀しくて……可愛そうで……憎らしくて……いとおしい」
「――――」
そのときキルキスは見てしまった。グレミオの木漏れ日のような微笑に一瞬だけ、ほんのかすかに差し込んだ暗い影を。
(…この…ひとは……)
優しい人だと思っていた。ふわりとした声に温もりの眼差しをくれる人なのに…… 慟哭よりも切ない微笑みを浮べる……そんな哀しい人をぼくは知った―――
「……絶望していますか?リュウカン先生」
「…………………」
リュウカンにはもはや返す言葉もなかった。
「…ぼくは……ぼく…は………もう…………」
手できつく目元を押さえても、涙は次々と溢れてくる。
「情けない…なぁ……怒られちゃいますね………」
ひどく震えた声でキルキスは呻く。それに答えるリュウカンの呟きは、もはや何のなぐさめにもなりはしなかった。
「……おぬしは、間違ってはおらん………あの青年の命が、助かる道は、………おそらく……もはや亡骸すら、残っては………」
キルキスの零した涙が落ちて、膝に抱いたセフェリスの頬を濡らす。シルビナに早く逢いたかった。 シルビナの柔らかい身体を抱きしめて思いきり泣きたかった。 自分にはシルビナがいる、けれど、セフェリスには、もう――――


数時間後、ビクトール達が戻ってきた。彼らの消沈した様子から、 逃げ道などなかったのだとキルキスとリュウカンは悟った。 ソニエール監獄はあらゆる事態を想定して厳重に建設されているため、 予想できた結果ではあった。だが倉庫で食料を調達できたのは幸運だった、 これで味方が救出に来るまでしばらくはしのげるだろう。
「セフェリスはまだ気づかないのか?」
キルキスの膝の上に横たわるセフェリスを見てビクトールが尋ねた。 リュウカンが言うには、いつ目覚めてもおかしくはないが、その時の精神状態は保証できないとのことだ。
おそらく、セフェリスが目を覚ませば彼は取り乱すだろう。 ビクトールはセフェリスの静かな寝顔を見つめながら、こう思わざるを得なかった。
(このまま眠り続けていた方が、こいつにとっては幸せなのかもな……)



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