そして、セフェリスが北塔に篭もって1ヶ月が過ぎた。 「リーダーとして未熟さを感じたため鍛錬をしている」というのが周囲に公表された表向きの理由で、 それは実際の理由ともさほど離れたものではなかった。 北塔から離れないリーダーに関しては、重大な病気なのではないか、大きな怪我をしたのではないか、 実は何らかの理由で謹慎しているのではないか、など様々な憶測が飛び交ったが、 その程度はマッシュやビクトールの想定内のことだった。 北塔へは『ある一人を除いて』誰でも行けるうえ、実際当のリーダーはまるで何かを忘れるかのように稽古に勉学に励んでおり、 噂は唯の噂でしかない、というのが解放軍でのもっぱらの噂となっていた。 マクドール家におけるグレミオの仕事の大半といえば家事だった。 そしてグレミオはもともと家事を好む性質だったため、解放軍でも空いた時間のほとんどは調理、 洗濯、掃除など、慣れ親しんだ行為に費やしていた。今日も解放軍の居城の一角で、青空のもと、 いつもの歌を口ずさみながら真っ白に洗い上がったシーツを取り込んでいた。 Eo tempore, cum ribi occuri, Mihi vita laeta fuit. 洗濯場の辺りはエルフやコボルトの居住区域に近い。エルフのキルキスとその恋人シルビナの二人は、 グレミオの傍に腰を下ろして、はためくシーツの踊るさまを眺めていた。 何度も同じ歌を繰り返してはシーツを畳んでいくグレミオに、キルキスは話しかけた。 「グレミオさん、その歌好きなんですね」 「ええ、母に教えてもらったんです」 ふーん、とキルキスに抱きつくように座ったシルビナが軽く小首をかしげる。 「なんだか中途半端な終わり方なのね?」 「わざと途中までしか歌わないんですよ。縁起が悪いみたいで」 でも一度だけ、最後まで歌っちゃったことがあるんですよね。そう言ってばつが悪そうに笑うグレミオに、 シルビナがおねだりする。 「じゃあシルビナにも最後まで歌って歌って!」 グレミオはくすくすと笑うと、殊更明るい声で断った。 「シルビナさんのお願いでもそれは聞けません」 するとシルビナは桃色の可愛らしい頬をぷくっと膨らませて拗ねた。 「むー。けちぃ」 2ヶ月が過ぎた。戦線に大きな変化は見られず、その間に解放軍はその兵力を少しずつではあるが増していった。 セフェリスは引き続き北塔で鍛錬を続けている。クレオやキルキスなど、 グレミオに特に親しい者の一部は、北塔に足を踏み入れようとしないグレミオを見て何かに気づいたようだったが、 幸いにもそれを声を大にして口にすることは無かった。 「おーっ、やってるやってる」 ある日ビクトールが北塔に様子見にやって来たとき、セフェリスはちょうどカイ師範と打ち合いをやっている最中だった。 棍と棍がぶつかり合い、カァン、カァンと甲高い音が鳴り響く。 その様を眺めながら、ビクトールが感心したようにひとりごちた。 「セフェリスのやつ、随分上達したみたいだな」 セフェリスとカイは一旦間合いをとり、にらみ合った。息が詰まりそうなしばしの緊張の後、セフェリスが叫ぶ。 「師範、行きます!」 その一声が合図だった。両者は一気に接近し、セフェリスが打ち下ろす棍をカイが受ける。 そして間合いを極限まで詰めたまま、セフェリスは次々と棍を繰り出していく。 そのあまりのスピードに、傍らで見ているビクトールは思わず口笛を鳴らしていた。 速いだけではない、ひとつひとつの攻撃の狙いもよく定められている。 5回目の一撃でついにカイの棍が弾かれた。カラン、と棍が地面に転がる音が打ち合いの終了を告げた。 「ぼくの勝ちです。師範」 セフェリスが微笑みながら言うと、カイは「もう歳か…」と苦笑した。 「やれやれ、たいしたものだ。この分では免許皆伝も近いかもな」 そのとき、パチパチパチと拍手が鳴って、ふたりは拍手をした人物―――ビクトールの方を向いた。 「あれ、ビクトール?いつの間に?」 「打ち合いの途中からさ。観戦させてもらったぜ。いい腕前になってきたじゃねえか」 ビクトールの賛辞の言葉に、セフェリスは気恥ずかしげに謙遜した。 「ぼくはまだまだだよ。でも修行をするからにはそれなりの成果を出さないとね」 「コンディションはどうだ?何か不調があったらすぐに言うんだぞ」 ビクトールがそう言うとセフェリスは途端に少し不機嫌になって頬を膨らませた。 「もう、ビクトールもマッシュもそればっかり!ぼくってそんなに頼りないのかな」 むくれっ面のセフェリスをなだめるようにビクトールは快活に笑う。 「いやいや、元気があればいいんだ。リーダーが怪我なんかして不調だと皆が心配するからな」 ビクトールはそうはぐらかすが、ビクトールやマッシュが心配しているのは特にセフェリスの精神面だった。 いつも一緒にいたグレミオと引き離されて、セフェリスがどうなるか予想が難しかったためだ。 しかし心配したほどセフェリスには取り乱したり思いつめたりする様子は無い。むしろ以前より明るくなったくらいだ。 (その明るさがどこか白々しく見える……っていうのは、俺の考えすぎならいいんだがな……) 事態は常に最悪のパターンを考えておかねばならない、それが定石だとビクトールはこれまでの人生で学んでいた。 それをセフェリスに言えば、彼はきっと怒るだろうが…… 解放軍の食事はアントニオ料理長をはじめとする何人かのコック達が作っているが、 グレミオもそこに紛れて腕をふるうことがままあった。 彼の料理にはビクトールやパーンなど固定ファンがついており、 プロをもうならせるほどの出来栄えなのだ。 今日もグレミオが調理を手伝っていると聞くや、ビクトールが揚々と厨房にやってきた。 目的は、端的に言えば…食材のつまみ食いである。 Eo tempore, cum ribi occuri, Mihi vita laeta fuit. 「よーうグレミオ、今日のメニューは何だ?」 いつものようにグレミオは歌を口にしながら鍋に向かい合っている。そこへビクトールが声をかけると、 彼は歌うのをやめ、厨房の入り口に立っている大男へ視線をやり、にっこりと微笑んだ。 「ああビクトールさん。今日はですね、いいお魚が手に入ったので、白身魚のスープとそれから…」 そこへ、ビクトールの背後から突然声がした。 「ねえ、そこのひょろ長い金髪頭」 人を小馬鹿にしたような、途方もないほどの上から目線の声。それは確かめるべくもない、 星見の魔術師レックナートの一番弟子のものだった。 「ルック!!」 ビクトールが大仰なほどの声を出す。彼が約束の石版の前を離れるのは珍しいことだ。 しかも厨房などに顔を出すとは。ルックは無表情で淡々とグレミオに言った。 「塩ベースのコロッケ、メニューに入れといて。あんたの作ったやつなら食べてあげるからさ、 それでもまずいけど。ありがたく思いなよ」 ルックはあまり物を食べない。そしてどんな料理を食べても「まずい」としか言わない。 そんな彼が、どういう風の吹き回しなのだろうか。グレミオは驚いて、というよりは明らかに喜んでいた。 「塩味のコロッケですね!確か、まだあっちにじゃがいもが残って……」 いそいそと厨房を動き回るグレミオを眺めながら、彼に聞こえないほどの声音で、ルックはため息混じりに呟いた。 「よくもまあ、あんな歌を平気で口ずさめるものだね」 その言葉に驚いたように、ビクトールがルックに尋ねる。 「歌詞の意味知ってんのか?」 その問いにルックはさも当然と言わんばかりに短く答えた。 「まあね」 まったく、この少年の博識ぶりは底が知れない。 そして3ヶ月目、ここへきて状況は急変しようとしていた。 かつての解放軍の副リーダーであったフリックがセフェリスの居城にやってきたのがきっかけだった。 彼はこれまで帝国五将軍のひとりであるミルイヒ・オッペンハイマーの治めるクナン地方で 散り散りになった解放軍の仲間を集めていたが、 最近になってミルイヒによる反乱分子狩りが激しくなり、 仲間は地下に潜らざるを得なくなった。フリックは、クナン地方の解放に力を貸して欲しいと頼みに来たのだ。 直ちに軍議が開かれることになった。おそらく軍議では解放軍によるクナン侵攻が決定されるだろう。 そしてセフェリスの修行も3ヶ月でひとまず終わりを告げ、今夜から自室へ戻る予定となったのである。 Eo tempore, cum ribi occuri, Mihi vita laeta fuit. 主が居なくなって久しいセフェリスの自室、濡らした布を手にして調度品の拭き掃除をしているグレミオに、 入り口からフリックが声をかけた。 「歌、意外と上手いんだな」 「ああ、あなたは…フリックさん……どうしてここへ?」 グレミオは歌を止め、少し驚いた様子で振り返った。二人はレナンカンプのアジトで軽く会ったきりだが、 一応は顔見知りだった。とはいえ、二人きりで会うのはこれが初めてだ。 「俺はこの城に着いたばかりだからな。作戦会議が始まるまで、探検がてらあちこち見て回ってるのさ。 兵の配置とかも覚えておきたいし……」 グレミオは休めていた手を再び動かし始めた。何かしら身体を動かしていないと、 余計なことを考え込んでしまいそうで怖かったのだ。拭き掃除をしながらグレミオはフリックに尋ねた。 「じゃあ…北塔には行きましたか?」 「北塔?ああ、新しいリーダーとやらに会いにな。俺はあいつを認めたわけじゃないが……それでもあいつ、 しばらく見ないうちに、大した面構えになってやがったぜ」 「……そうですか」 フリックは木製の棚を拭いているグレミオを眺めながら話していたが、ふと気づいた。 グレミオの掃除の要領があまりにも手馴れていることに。フリックは少し気になって訊いてみた。 「おまえ、ひょっとしてしょっちゅうこの部屋掃除してるのか?そんなの下っ端にやらせれば……」 するとグレミオは苦笑して、家具を拭く手を止めぬまま語った。 「ああ…これは性分でしょうね。ぼっちゃんのことは出来る限り私がしたいんです……体に染み付いてしまってますから、 やらないと落ちつかないっていうか…」 「……おい、あんた、生の花はさすがに拭かないほうが……」 フリックが唖然としながら声をかける。花瓶に生けられた蘭の花びらがいくつか落ちてしまった。グレミオらしくない失敗だ。 「…ああっ!!せ、せっかく頂いたのに……!」 この花は、今夜セフェリスが帰ってくる時のために飾ったのだろう。 慌てふためくグレミオに、フリックは何とはなしに気になったことを口にした。 「そういえば、セフェリスはここんとこずっと北塔にいるって聞いたぜ? 付き人のあんたが、なんだってこんなところにいるんだ?」 「……」 するとグレミオは一瞬言葉を失った。 そういえば少し前にクレオとキルキスに同じことを訊かれたときも不自然に黙りこくってしまった気がする。 フリックがその沈黙に異常を察する前に、グレミオは小声で呟いた。 「……私は、逃げたんですよ」 「?」 フリックが不思議そうな顔をする。彼が聞き返してくる前に、グレミオは軽く微笑んでみせた。 「いえ。…なんでもありません。気になさる程のものじゃないです」 「あ、そ…そうか……」 セフェリスと喧嘩でもしたのだろうかと、その程度だと思い、フリックは適当に頷いておいた。 or 目次に戻る? |