グレミオ……
グレミオ……?
どこにいるの?グレミオ……
牢獄のじめじめとした空気……目の前に、大きな鉄扉……ぼくを突き飛ばして、扉を閉めて …ああ、そうか、グレミオはこの扉の向こうにいるんだ。それでぼくは、この扉が開くのをずっと待っているんだった。
グレミオ。さっきからずっと、ぼくの心の中から、突き飛ばされる直前のおまえの言葉が離れない。おまえの微笑みが離れない。 きっと今ほど、おまえが愛しいと思える時なんてない……
ありがとう、伝えてくれて。声に出してはくれなかったけど、 もしかしたらずっと前からぼくは気づいていたのかもしれない。 ぼくの名前をそっと呼ぶその唇から、ぼくの髪を撫ぜてくれるその指先から、伝わってきたんだ。 ありがとう。言葉にしてくれて。今度はぼくの番だね、おまえに伝えたいよ、心から、何度でも……
そして謝らなきゃ。おまえに冷たくしてごめん、って。ぼくはあまりにも弱いから、 おまえに少しでも甘えたら解放軍のリーダーとしての自分を見失ってしまう、 それが怖くて、おまえを突き放すことしかできなかった。
ねえ、戦争が終わって、ぼくがリーダーじゃなくなったら、 ふたりで旅に出よう?そうすればずっと一緒にいられるね。 好きなだけ想いが伝えられる。だから、こんな戦争早く終わらせよう?
言いたいことがたくさんあるんだ。したいこともたくさんあるんだ。 扉が開いたら会えるよね?もう少し待ってて、すぐにおまえのところに行くから。
ああ、今まさに扉が開く。ぼくにはわかるんだ。今行くよ、グレミオ……
「…グレミオ…?」
セフェリスがうっすらと目を開けてうわごとのように名前を呼ぶ。それはちょうど、 セフェリスたちを迎えに来たマッシュが鉄扉を開けたまさにその瞬間だった。 傍についていたキルキスが軽く声をかけると、セフェリスは覚醒した。 重苦しい身体を起こすセフェリスにマッシュが尋ねてくる。
「……いったいどうしたのですか?帰りが遅いので心配して来たのですが…帝国兵の影も形も無いとは…」
しかしセフェリスはマッシュなど目に入らないかのように、扉の向こうへと駆け出した。
「グレミオ!!」
突然走り出したセフェリス。止めようとするキルキスの腕を振り払って、ビクトールの制止の声も聞かず、 たどり着いた先に『それはあった』。
床に転がったグレミオの斧と、彼の青い服と緑のマント。 本来それを身に着けているはずの人は、どこにもいなかった。彼は、いなかったのだ。
「………、…ミオ…?」
かくん、とセフェリスは力なく膝をついた。そのまま危なげな手つきでグレミオの着衣に触れる。 冷えきった床に落ちていた服は、もう一片のぬくもりすらも持ってはいなかった。
「…グレミオ?」
目の前の現実が全く理解できない。扉が開いたら待っていてくれると思っていた。 郊外の牢獄に閉じ込められたあのときのように、血塗れの手すら気にせず抱きしめてくれると。
「グレミオ?」
まるでお預けを食らった仔犬のように、拍子抜けした声で呼びかける。
「グレミオ?」
セフェリスが、14年の人生の中で一番多く口にした名を、今また呼ぶ。もう誰も、二度と答えることのない名を。
「グレミオ……?」
焦点の定まらない視線をさまよわせ、冷たいグレミオのマントをまさぐりながら、セフェリスは呼び続けた。 キルキスがすすり泣いている。フリックが静かに瞑目する。ルックのため息が聞こえる。 ビクトールは眉間に深く皺を刻みながら、軍師に提言した。
「マッシュ、一旦ガランの関所に戻ろう。特にセフェリスは、少し休ませた方がいい」
「……そのようですね」
ビクトールからひととおりの説明を受けたマッシュは、床の遺品とセフェリスを交互に見詰めながら言った。
「セフェリスどの。さしでがましいとは存じますが、お気持ちはお察しします。 しかし忘れないで下さい、あなたは解放軍の……」
「マッシュ!」
ビクトールが鋭い声をあげて遮った。そして苦々しい表情で固く拳を握り締める。
「それ以上…言うな………」
セフェリスはまるで眠った子供を無理やり起こそうとするかのようにグレミオの衣服に向かって語りかける。 その声には次第に悲しみに似た苛立ちの色が滲み始めていた。
「グレミオぉ……」
『ねえ…どうして返事をしてくれないの?何度も呼んでるのに、どうして答えてくれないの? 近くにいるときは、ぼくが呼んだら絶対に飛んできてくれたじゃない……え? ちかくにいないから?ここにはもういないの?ね、じゃあ、どこに行けば会えるの?』
セフェリスはどこまでも無邪気に問いかける。
『どこに行けば会えるの?』
そして答えはすぐに出た。
(死のう)
『死んだら会えるの?じゃあ、ぼく、死ぬ』
(死のう―――)
ずっと霞がかっていたような頭の中が妙に冴えた。今このとき、セフェリスははっきりとした意志を持った。 死のう。それしかもう考えられなかった。
だが、どうやって?死に到る凶器は持っていない。舌を噛み切るにしても一瞬では無理、 今の状況では周囲の人間に止められる危険性がある……それに自分は、ゆっくりと苦しみもがいて死ななければならない…… 誰にも見守られず、独りきりで寂しく息絶えねば。グレミオが、そうであったように。
ここでは無理だ。一人になるチャンスを作らないと自分は満足に死ぬことさえできない。
どうやって一人になる?そうだ、周りに不安がらせてはならない。少しの間なら一人にしても安心だと、思わせなければ。
誰にも悟られてはならない。
決して取り乱してはいけない。
解放軍のリーダーとして、あるべき姿を―――
「セフェリス……?」
突然立ち上がったセフェリスに、ビクトールが心配そうに声をかける。セフェリスは背筋をしゃんと伸ばし、 精悍な顔つきになって軍師のマッシュに告げた。
「マッシュ、リュウカン医師は救出できた。ガランの要塞まで戻って薬を作ってもらおう。ぼくのことなら心配いらない」
「……はっ」
そしてセフェリスはマッシュを従え、しっかりとした足取りで歩き一度も振り返らないまま部屋を出ていった。 その様子を眺めながら、ビクトールは、もう何処にもいなくなってしまった人間に向け、語りかけずにはいられなかった。
「泣き叫んでくれる方が、まだ…ましだった、なあ?」
グレミオの遺品に視線を向け、届くはずの無い哀願を、ビクトールは苦しげに囁いた。
「……頼むから、セフェリスの心まで、持って行っちまわないでくれ……」


一行がソニエール監獄を出る際に、ビクトールとキルキスのふたりは「やることがある」と言ってあの部屋へと戻ってきた。 グレミオの遺品を回収するためだ。
「……こんな冷たいところに置きざりにするのはあんまりだからな……本当はセフェリスがするべきなんだろうが……」
「あの方は、…認めたく……ないんですよ。ぼくにもその気持ちは、分かりますから…」
無造作に転がった斧を担ぎ上げながら、ビクトールはキルキスに尋ねた。
「おまえは…随分前から気づいてたんだな?セフェリスがグレミオに恋してることを」
「……パンヌ・ヤクタでの戦いで、ただならぬ関係だということはわかりました。 でもそれが恋に近いものだと気づいたのは……それより少し後のことです。そしてグレミオさんの想いに気づいたのも…」
キルキスの言葉が意外だったのか、ビクトールは軽く目を見開いた。
「グレミオの…想い?」
キルキスは頷いて、綺麗に畳んだ青い衣服をそっと抱きしめた。
「グレミオさんは、ぼくに話してくださいました。親愛も恋愛も博愛も、 愛憎すらもたったひとつの対象に向けてしまった哀しい人がいると… おそらく、セフェリスさまのことです……でも、そのときぼくは気づきました。グレミオさんもまた、そうなのだと」
それはあまりにも異常な愛情。もはや愛情なんて生易しいものではないのかもしれない。
「グレミオも?…まさか……だってあいつ、俺の目から見てもそんなそぶりは少しも…」
ビクトールは、グレミオがセフェリスに抱いている想いはあくまでも庇護愛だと判断していた。 多少の恋愛感情も抱いていたのかもしれないが、そこまで深いものだとは思っていなかったのだ。 そんな彼にキルキスは遠い目をして語った。
「……グレミオさんはいつだって笑っていました。そのときも笑っていました、 けれどぼくには僅かに垣間見えたんです。一片の隙もない笑顔の外郭に覆われた、 熟れ過ぎた果実のように柔らかな内部のさらに奥に、この人は本心を隠し持っているのだと…… ビクトールさんはどちらかというとフランクな恋愛を好まれるでしょう?だから気づかれなかったんです」
「なんだよ、それは…!あいつらは最初っから互いに互いのことしか見てなかったってのか。 グレミオのやつはなんで答えてやらなかったんだ」
セフェリスが解放軍のリーダーになってからはわかるが、それ以前からグレミオはセフェリスを拒絶していたことになる。 自らの想いを完全に押し殺しながら。それがビクトールには理解できなかった。
「たぶん………グレミオさんは……」
キルキスはあのときのグレミオの不思議な微笑みをまぶたの裏に描きながら、ひとつの推論を呟いた。
「恋は、…狂気にとても似ていますから………」



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