ずっと、ずっと大好きだった。 それが『恋』になってしまったのはいつ? そこはグレッグミンスター郊外に建てられた古い地下牢獄だった。 老朽化が激しくなったことと新しい監獄が建設されたことで既に打ち捨てられ、 今ではごく稀に子供たちの肝試しの場になる程度の、そんな牢獄だった。 「そら!ここで頭を冷やしな!!」 硬い石畳の床に投げ飛ばされ、その衝撃にセフェリスが思わず呻く。 身体を起こそうとすると、彼らとの間にある大きな鉄扉が重い音を立てて閉められた。 途端に周囲が暗闇に閉ざされ、まったく視界が利かなくなってしまった。 「安心しろよ、3日も経てば出してやるさ」 「これに懲りたら、子供がいきがるなよ!いい服着たおぼっちゃんのくせに」 慌てて声のする方へ向かうと、重厚な鉄扉が見えない壁となって阻んでくる。 直後にカチャリと鍵のかかる音がして、 その時ようやくセフェリスは自分がこの地下牢獄の何処かに閉じ込められたことを知った。 開けろ!開けろ!必死に叫びながら渾身の力で鉄扉を何度も叩いた。 扉の向こうからはしばらく青年たちの野次らしきものが飛んでいたが、 やがて何も聞こえなくなった。それでもセフェリスは叫ぶのをやめなかった。 開けろ!開けろ!開けろ!開けろ!ここを開けて!開けて!誰か助けて!誰か…! ただただ、自分の叫び声と鉄扉を叩き付ける音が反響するばかりだった。 叫び疲れて、手がじんじんと熱くなって、とうとうセフェリスは力尽きたようにうずくまる。 視界が閉ざされた中、唯一存在のわかる鉄扉にすがりついて。 ……どうして、こんなことに?きっかけは些細な口論だったはず。 それが初対面の3人の青年たちの怒りを買ったのだろうか。 まだ13歳になったばかりの体格では3人がかりの大人に抵抗できなかった。 悔しさに歯噛みする。暴力こそ受けなかったが、殴られるだけの方がましだったのかもしれない…… 「開か、ない……」 こちらに投げ出される直前に見たこの鉄扉は2枚の開き戸になっていて、 それぞれ中央に取っ手と鍵がついていた。だがこちら側には、 暗闇の中をいくら手で探ってもそのようなものは見当たらない。 ここが牢獄だということを考えると、この鉄扉は万一にも囚人を逃がさないよう片側からしか開けられないようにしてあるのだ。 「……寒い…」 寒くて仕方がなかった。空気がこんなに冷えているのは、今が冬だから、だけではない。 この真っ暗闇……地下だからだろうか、外はまだ全然明るいだろうに。 僅かな明かりを求めて、おそるおそる周囲を見渡すが、ほんの微かな光すら見えない、真の闇だ。 自分の後ろには何もない無の空間がどこまでも果てしなく続いている気がした。 「………っ、あ」 鉄扉にすがりつき、やがてがくがくと身体が震え出した。もう13になったんだ、 暗闇ごときを恐がってる場合じゃない……自分は帝国将軍の息子なのに。 偉大なる将軍テオ・マクドールの息子なのに。呑まれるな……! こんなの、こわくない、こわくない、こわくない、こわく…ない…こわく…こわい…こわい…こわい… こわいこわい!こわい!こわい!! 「あっ……開けて!開けて!開けて!開けて!開けて!開けて!開けて!開けて!開けて!ここを開けてぇっ!」 何不自由なく育った、たった13の少年は、かつてこんなにも深く淋しい闇を知らなかった。 こんなにも身を切られるほど寒い場所を知らなかった。 狂ったように鉄扉を叩き続けた。手が痺れて感覚が無くなっても叩き続けた。 叫べば叫ぶだけ、叩けば叩くだけ、闇はいともたやすく、心を叩き潰していった。 永遠の時が流れるようだった。どれだけ時間が経ったのだろう。もう昼なのか夜なのか朝なのか、 皆目わからなかった。どんなに目を凝らそうと視界は目を閉じているままのようで、 どんなに耳を済ませてももはや鉄扉を叩く音すら聞こえなくて。 自分に目はあるのか?自分に耳はあるのか?光もない。音もない。 身を寄せる鉄扉の冷たさだけが、感覚の隅の方にあって、 かろうじて自分はまだ生きているような気がするけれど、それもひどく朧げで、 もしかしたら自分はあのまま息絶えてしまったんじゃないか…… ―――っちゃん……ぼっちゃん…… セフェリスは思わず虚ろな顔に微笑を浮かべた。とうとう幻聴が聞こえたのだ。 セフェリスはそっとその温かい人の声に耳を澄ませた。 ―――ぼっちゃん……、ぼっちゃん…!いるのですか!? (……ここにいるよ…) ―――ぼっちゃん!いるなら返事をしてください!! 「……いる…よ…?」 自分のかすれきった声が聞こえたとき、『幻聴』の声があまりにも切羽詰っていることに気づいた。 (幻聴じゃ…ない……!?) 「グレ…ミオ……!?」 酷くしわがれていたが、相手には通じたようだった。今度こそはっきりと、扉の向こうからグレミオの声が聞こえた。 「ああ、ぼっちゃん!そこにいるのですね!?」 誰かが助けに来る、なんて、セフェリスは信じていなかった。 でも、セフェリスがいなくなったらきっと大騒ぎになっただろうから、皆が必死に探しているのは確かに当然のことだった。 「グレ…どうして、ここが……」 「帝国将軍家がらみの喧嘩なんて、いくら隠しても突き詰めればやがてばれます…… 大丈夫、ぼっちゃんを閉じ込めた奴らに関しては今頃クレオさんとパーンさんが対応してくれているはずです。 テオさまも詳しい事情がわかり次第こちらに向かわれます」 その言葉を聞いた途端、身体中の骨という骨が抜けたようだった。 グレミオはセフェリスの居場所が判った時点で真っ先に飛んできてくれたのだ…… 嬉しかった。グレミオが誰よりも先に来てくれて。早くグレミオの顔が見たかった。 「早く…開けてよ………」 しかし、返ってきたのはグレミオの険しい声だった。 「鍵はあるのですが………この扉は、厄介です。取っ手のところに頑丈な鉄線が何重にも巻かれているんです ……何か切る道具を持ってこないと…ぼっちゃん、少しだけ待っ」 「いや!行かないで…!!」 グレミオの声を遮ってセフェリスは悲痛な叫びをあげた。彼を行かせなくなかった。 ここは、あまりに暗くて、寒くて、淋しくて。グレミオがいなくなったら、 さっきよりもっと淋しくなって、発狂してしまうから…… 「……おねがい…独りに、しないで………」 グレミオは数秒ためらっていたが、やがて宥めるように優しい声で語りかけた。 「……わかりました。すぐ開けますから、少し待っていてくださいね」 …キリ……キリ……キリ……キリ…… やがて鉄線の軋む音が微かに聞こえてきた。かなりきつく巻いてあるのだろう、ゆっくりと。 「グレミオ……」 闇の中、グレミオの声を聞いていたくてセフェリスが話しかけるが、返事はなかった。 ただ鉄線の音がかろうじて聞こえるだけ。 …キリ……キリ……キリ……キリ…… 「…グレミオ…?」 もう一度呼んでみるが、やはり答えない。 …キリ……キリ……キリ……キリ…… (……ああ、でも……グレミオがいる) 声が聞こえなくても、姿が見えなくても、セフェリスにはわかる。鉄扉にぴったりと身体と頬を寄せて、 じっと鉄線の軋む音を聴く。 …キリ……キリ……キリ……キリ…… そしてセフェリスは想う。この扉の向こうにいる彼のことを。早く早く、グレミオに会いたい。 扉が開いたら、まず何をしよう?他のどんなことよりもぼくの身を優先してここに来てくれたグレミオをねぎらって、 『ありがとう』と言わないといけない。その前にグレミオは心配性だから、 ぼくは大丈夫だよって言ったほうがいいのだろうか……それから、…ああ、どうしよう? (変だよ…ドキドキする……ねえ、グレミオ………) …キリ……キリ…キリッ……… 鉄線の音が止んで鍵の開く音がするとセフェリスはぱっと顔を上げた。 滲み始めていた涙を慌てて拭っていると、重い鉄扉が開いた。 勢いよく駆け寄ってきたひとはセフェリスを見た途端、いい大人の癖にみっともないほど泣き出して、 間違いなくセフェリスの想っていたグレミオだった。 「ぼっちゃんっっ!」 「グレミオ!」 気がつけば二人は固く抱き合っていた。なりふりかまわず、何もかも忘れてしまったように抱きしめあった。 その感覚にセフェリスは軽いデジャヴを覚える。……確か、自分が5つのときに誘拐されて助け出されたときも、 こうして強く抱き合った。 「申し訳ありません……遅くなって……申し訳ありません………こんな暗いところで、怖かったでしょうに………」 グレミオの泣きすぎて震えた声。あれから何年も経って、 セフェリスは泣かないくらいには強くなったのにグレミオは相変わらずだなあと、セフェリスは呆れつつも嬉しく思った。 「この目でぼっちゃんの姿を見る瞬間まで……恐くてたまらなかった……ぼっちゃんが…… ぼっちゃんが、今度こそ、本当にいなくなってしまうかと思いました………」 グレミオは、いつまでも変わらない。変わってしまったら……嫌だ。 グレミオの首筋に顔を埋めて、甘い匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。 「ぼっちゃん、お怪我はありませんか?どこか痛いところはありませんか?」 「手が、ちょっと痛い……かな?」 問いかけにセフェリスが素直に答えると、グレミオはようやく身体を離して、 ずっと鉄扉を叩き続けていたセフェリスの手を自らの両手で包み込んだ。 「ああ、こんなに腫れて…血が滲んで……声もかすれてますし…帰ったら一度お医者様に診ていただきましょう」 セフェリスの両手をいたわるグレミオの細い手……その瞬間セフェリスは心臓を鷲掴みにされた気がした。 悲鳴のような声が零れる。 「………グレミオ……手が…っ…」 グレミオの指先は、血塗れだった。よく見ると両手に大小数え切れないほどの傷があり、 そこから出血したのだろう。セフェリスは咄嗟に扉の外を見やり、己の罪深さを悟った。 そこに落ちていたのは、鋭い刺が無数に付いた有刺鉄線の、固まりだった…… 扉を開けるまでの間グレミオがずっと黙っていたのは、素手の痛みをじっと堪えるためだったのか。 「あっ……す、すいません!気が回らなくて……ぼっちゃんに血が」 ついてしまいました…と言いかけて、グレミオは硬直する。セフェリスの琥珀色の瞳からぽろぽろと涙がこぼれていた。 一旦堰を切った涙は一向にとどまるところを知らない。 「……っちゃん……」 セフェリスは次々と溢れてくる涙を拭いもせず、グレミオの手を取ると、ゆっくりと顔を近づけていく。 そして緋い血のしたたる指先を、そっと口に含んだ。 「………っ」 傷にしみたのか、グレミオは僅かに辛そうな顔をした。しばらくの間、 一心に傷を慰めているセフェリスを黙って見つめていたが、やがて何かを言おうと口を開いた。 しかしその口を衝いて出てきたのは……何故だろうか、最後まで歌ってはいけなかったはずの、あの歌だった。 Eo tempore, cum ribi occuri, Mihi vita laeta fuit. Cum autem te nusquam conspexi, Eo tempore mortem cognovi. 指から溢れる血を舐めとっていく、まるで愛撫するような繊細さで。 Eo tempore, cum ribi occuri, Mihi vita laeta fuit. Cum autem te nusquam conspexi, Eo tempore mortem cognovi. 口を開けて、舌を出して手のひらの傷口までもを癒す。 Eo tempore, cum ribi occuri, Mihi vita laeta fuit. Cum autem te nusquam conspexi, Eo tempore mortem cognovi. ちゅ…と音をたてて口腔から指を抜いては、もう一度指先に口づける。 Eo tempore, cum ribi occuri, Mihi vita laeta fuit. Cum autem te nusquam conspexi, Eo tempore mortem cognovi. ろうろうとした声。原始の祈りに似た響き。不思議な。それは音階を持った母音と子音の羅列。 その旋律は深く、深く、セフェリスの心に刻み込まれた。万感の想いとともに。 「……最後まで歌ってよかったの…?」 ようやく彼の手から唇を離したセフェリスは囁くように尋ねた。 「わかりません。でも、歌いたかったんです」 彼はそう言って泣きそうな顔をしながら淡く微笑んだ。そのとき彼には、 彼にはこの歌の真の意味が、薄々わかっていたのかもしれなかった。 ―――When I met you, I was born. However, when you were lost, I recognized the death――― or 目次に戻る? |