赤月帝国の帝都グレッグミンスターに鎮座する建物のひとつに、 帝国五将軍のひとりテオ・マクドールの重厚なお屋敷がある。 テオの一人息子であるセフェリスぼっちゃんは、現在齢7つ、 やんちゃで純真なその子供は宿屋のマリーおばさんをはじめ、 多くの大人たちに可愛がられていた。 そして特に、最もセフェリスを溺愛していたのは、共に暮らしているひとりの世話係の青年だった。

一日外で遊びまわっていたセフェリスが屋敷に帰ってくると、 玄関先でふわりといいにおいがした。台所からおいしそうなにおい。 察するに今日の夕食は、セフェリスの大好物のシチューだ。
セフェリスは心躍らせながら一目散に厨房に駆けていった。 そこに長めの金髪を緩く結わえた青年の姿を見つける。 歌をくちずさみながらかまどの前に立つ青年に、セフェリスは勢いよく声をかけた。

Eo tempore, cum ribi occuri,
Mihi vita laeta fuit.

「ただいまぁ!ぐれみおーっ」
はたと歌が止まり、グレミオは鍋をかき回していた手を止めずに振り返ると、にっこりと微笑んだ。
「あ、おかえりなさい。ぼっちゃん」
グレミオがこちらを振り返ってくれるのは、シチュー作りが『肝心なところ』でない証拠だ。 でなければ彼は挨拶を言うだけ言って、こちらを見ずに鍋とひたすらにらめっこしている。 それが何となく気に入らなくて、グレミオの耳をひっぱったり脇をくすぐったり、 セフェリスがいたずらを仕掛けたのは1度や2度ではない。
でも今日はちゃんと自分を見てくれたから、セフェリスは上機嫌だ。 ぱたぱたとグレミオのもとに走っていくと後ろからぎゅっと抱きついた。
「ぼっちゃん?」
「うん……えへへ」
グレミオの腰、軍人である父と比べるとひどく頼りない腰に頬を擦りつけて、ぎゅぎゅーっと力を込める。
「ずいぶん嬉しそうですね?」
「今日シチューでしょ?」
「ぼっちゃん、他の何よりもシチューが大好きですからね」
グレミオのシチューが美味しかったからセフェリスの好物になったのか、 セフェリスの好物がシチューだったからグレミオのシチュー作りが得意になったのかは 今となってはもうよくわからないが、彼のシチューは日増しに美味しくなっていくのだ。
「ちがうよ、ぼくはシチューよりグレミオの方が大好きなんだよ」
機嫌がいいのと、今はそういう気分なのか、べったり甘えてくるセフェリス。 グレミオも悪い気はしなかった。甘えたい盛りの年頃なのだろう、可愛らしくて思わずくすくすと笑った。
「おかしなぼっちゃんですね。グレミオなんかのどこがいいんです?」
「えっとね、えっとねぇ…」
セフェリスは目を輝かせて次々と言葉を並べていく。
「髪の色とか、目の色とか、きれいで。手とか、白くて、あったかくて。声とか、笑った顔とか、優しくて。 それから、いっしょに寝たとき嬉しいのとか。あとねえ……」
……子供は普通お世辞を言わない。おそらくセフェリスは思ったことをそのまま口にしているだけなのだろうが、 どこでそんな口説くような言い回し覚えてきたのだろう。グレミオは心配になって困ったように尋ねる。
「……あの、ぼっちゃん。もしかしてクレオさんとか女性の方にもそんなこと言うんですか?」
するとセフェリスは一瞬きょとんとしてこう言った。
「クレオも好き。パーンも好き。父さんはもっと好き。でもグレミオが一番大好き。だからグレミオにしか言わない」
一番大好き。その言葉に知らずうちにグレミオの頬が緩んだ。 そんなグレミオを知ってか知らずか、セフェリスはエプロンをくいくいと引っ張る。
「ねえねえ、グレミオはぁ?」
グレミオは身体をセフェリスに向けて屈みこむと、幼い頬を撫でて微笑んだ。
「もちろん、グレミオはぼっちゃんが一番大好きですよ」
その答えにセフェリスはぱあっと顔を明るくさせて、屈んだグレミオの胸に飛び込んだ。
「やったー!グレミオだあいすきっ」

だあいすき
だあいすき……

ねえ おぼえてる?
遥か昔 優しい愛ばかりに包まれて
ただ無垢だった あの頃を……



戦災孤児のグレミオが帝国将軍テオに拾われてマクドール家にやってきたのは、 彼が17歳、セフェリスが4歳の頃だった。
テオは、グレミオが心優しく戦を好まない性格と知ると、屋敷の使用人として彼を引き取り、 母親を亡くしたばかりの幼いセフェリスの世話という、重要な役割を与えた。 帝国将軍という役職から家を空けることの多いテオの、 セフェリスとグレミオに対する二重のおもんばかりだった。
しかしセフェリスは、母親を病で亡くした喪失感の癒えないうちにやってきた自分の新しい世話人の少年に、 初め馴染むことができなかった。父であるテオがそばにいるときは元気な姿を見せていたが、 父が任務で家を開けると途端にふさぎ込んで部屋にひとり閉じこもる毎日だった。
父がいないと好物のシチューすら満足に口にしないセフェリスに、グレミオは心を痛めていた。 セフェリスの幼い心が求めるのは父や母のぬくもりであり、そこに自分の居場所などないのだと――― そう思うと、グレミオはたとえようのない淋しさを覚え、同時にセフェリスの気持ちも痛いほど理解していた。
9つのとき戦火で両親と家を失い、絶望の中で独り放浪していた8年間、 壊れそうな精神を支えてくれたのが、最後まで自分を守ってくれた両親の記憶だった。 だからセフェリスの淋しさも、わかってやれるつもりだったのに、 グレミオには、セフェリスの心の空白を埋めることができない自分を悔やんだ。
そんな中、テオの出仕中にセフェリスが賊に誘拐される事件が起きた。 それは赤月帝国の皇帝バルバロッサ・ルーグナーの伯父、ゲイル・ルーグナーによる国家転覆の策略の一環であり、 息子を人質にとられたテオは、幼いセフェリスの命を捨てる覚悟を強いられるほどに事態は切迫した。 グレミオはこのとき己の力不足によりセフェリスを守りきれなかったことを烈しく悔やみ、 誓いの言葉を自らの斧に刻んでいる。
幸いにも、グレミオの単独行為でセフェリスを助け出したことにより、この一連の事態は収束を迎えた。 しかしセフェリスを命がけで救出したグレミオの頬には、醜い十字の傷跡が残された。 その傷はもう一生消えないのだと父親に聞かされたとき、 セフェリスはグレミオにしがみつき、声を上げてわあわあと泣いた。



―――気がついたときから、もう、彼のことは大好きだった。





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