Scene4

「……そろそろ、ですね」
ミルイヒは静かにひとりごちて、おもむろに右手の紋章を掲げた。 すると今までグレミオを散々苛んでいた『這い寄るツタ』と『這い寄る粘液』が、ぴたりとその動きを止める。 そして軽く吐息ついたその瞬間、部屋のドアが大きな音をたて荒々しく開けられた。
いったい誰が入ってきたのか、などとは愚問というもの。ミルイヒは華麗にターンし、来訪者へ向け、 優美な仕草で慇懃無礼なほど丁寧にお辞儀をしてみせた。
「親愛なるテオ殿。あなたのために、じっくりと下ごしらえをいたしました。 う〜ん、ちょっとやりすぎちゃいましたけど。見事に爛熟して、とっても美味しそうですよ……お気に召しましたぁ?」
部屋に入ってきたテオの表情は、意外にも静かなものだった。しかしミルイヒは知っている、顔つきなど、 テオほどの強者になればいくらでもコントロールできると。
「……火の紋章よ、その力を示せ」
その言葉とともにテオの右手が赤く輝き、グレミオを戒めているツタと粘液が炎に包まれた。 火の紋章は、熟達者の手にかかれば目標物のみに熱を伝えて燃やすことが出来る。 不思議とグレミオが熱さを感じることは無い。やがてモンスターが燃え尽きると、 テオはミルイヒを威嚇するように睨みつけた。
「笑えないジョークだ。ミルイヒ、少々『おいた』が過ぎるようだな。 場合によってはおまえに剣を抜いてしまうところだった」
テオの気迫に臆することもなく、ミルイヒはおどけた調子で『お手上げ』のポーズをとる。
「まぁまぁ…そんなに怖い顔をしないで下さい。どのみち彼の操を破るつもりなんて無かったんですよ。 私はただ、この青年に見合う刺激を与えてあげただけです。 テオ殿のことですから、こういったプレイは普段なさらないでしょう? たまには趣向替えをしなくては、若い子には飽きられてしまいますからね」
悪びれずしゃあしゃあと言い放つミルイヒ。テオは少々呆れたように、重苦しいため息をついた。
「…それは遊び人の論理だな。私たちは刺激など求めていない。安心感と一体感と、互いの想いを確かめ合い、 安らぎを求めてセックスをする。下手な小道具など使わずとも、 十分グレミオを満足させてやれていると自負しているつもりだ」
「おやぁ?随分とそのお稚児さんを可愛がって…そして信頼しておられるようですね」
「稚児などと呼ばないでもらおうか。グレミオは我が家族も同然なのだ」
テオは寝台へと歩み寄り、ぐったりとしたグレミオの肩を軽く叩き、声をかけた。
「グレミオ、大丈夫か」
「…テオさ…ま……?」
うつろな表情でこちらを見やるグレミオ。テオは痛ましい表情を隠せないまま、 取り出したハンカチで涙と唾液でぐちゃぐちゃになってしまったグレミオの顔をそっとぬぐってやった。
「怖い思いをさせてしまったな。不甲斐無い私を許してくれ」
「…テオさま、…テオさま……」
壊れたオルゴールのようにたどたどしく名を呼びながら、テオの胸元にすり寄ってくる。 そんなグレミオをテオは愛しさを込めてしっかりと抱き締めた。
「テオ殿、これを着せてさしあげなさい。粘液の電流で軽い火傷も負っていますから、重々お気をつけて」
ミルイヒから純白のガウンを受け取り、いまだ朦朧としているグレミオに着させてやる。 そうすれば嫌でも目に入ってくる、身体中の皮膚は赤みを帯びていて…… 真夏の山海で日焼けした位の軽度な火傷だ。 テオは、幸せが逃げると知っていても繰り返しため息を吐かずにはいられなかった。
「まったく……人のものに手を出すくらいなら、自分のものをもっと大事にしてやれ。 最近、見目麗しい吟遊詩人の少年を引き取ったと聞いたが」
「ああ、カシオスですか?彼も素質は十分備えているのですが、少し従順過ぎるきらいがありましてねえ…」
どうやらグレミオは自力で立てないようだ。テオはグレミオの背と脚に両腕を差し込んで横向きに抱き上げる。 グレミオはなんとか上体を少しだけ起こし、テオが少しでも楽になるようにと主の肩に片腕を回し、身体を密着させた。 …そんなことせずとも軍人として鍛えられたテオならば、痩せ型のグレミオひとりくらい簡単に持ち上げられるのだが。
「そう、忘れるところでした。お求めのマドンナリリーもご用意出来ております。 わたくしは紳士でございますから、約束はお守りいたします」
「…紳士はこのような略奪じみたつまみ食いなどしたりせんよ。 ……まあいい、馬車を一台用意してくれ。あまり華美でないものを頼む」
「かしこまりました。このたびの非礼による借りは、いつか必ずお返しいたしましょう」
ミルイヒはもう一度深々と頭を下げると、部屋を出ていくテオの後に続いた。 その際、ふいに花瓶に活けられた棘のある豪奢な花が目に入る。 それは今日花屋で受け取ってきたばかりのもの。 そのとき初めて、ミルイヒの相貌に苦々しく歪んだ微笑みが浮かんだ。
(この世で初めて完全なる鮮やかな黄色を実現させたといわれる美しき花、スブニール・ド・クロージュ。 黄色い薔薇、その花言葉は……。ふ、皮肉なものですね……)



「テオさま!グレミオは……?」
テオたちがマクドール家の屋敷に戻ると、玄関先で待機していたクレオが不安げに問いかけてくる。 花を買いに出かけたグレミオの帰りがあまりにも遅いため、不審に思ったクレオとテオは花屋へと向かった。 そこで店番をしていた少女に事の顛末を聞かされ、テオは単身オッペンハイマー邸に乗り込んだのだ。
「……あいにく、無事とは言い難いな」
テオは険しい表情で横抱きにしているグレミオの色失せた顔を見る。 ショックが大きかった所為かグレミオはいまだ自失しているようで、 言葉無くただテオのたくましい身体にすがりついている。
「しばらく私の部屋でグレミオを休ませようと思うのだが……」
テオは何かを言いあぐねているようだ。クレオは聡い、直ぐに気づいて落ち着いた声を出した。
「では、私はぼっちゃんを連れて夕食の惣菜を買いにでも行きましょう」
「あ、そうだな…そうしてくれ」
「ごゆっくりと」
足早に階段を上がっていくテオを見送ったクレオは、グレミオの部屋へと足を向けた。 そこでは幼いセフェリスが椅子に座って、所在無げに頬杖をつきながら足をパタパタさせていた。 テーブルの上には、ろくに進んでいない宿題がある。
「ねえ、グレミオはまだなの〜?帰ってきたら一緒に遊んでくれるって言ってたのに……」
大好きなグレミオが一向に帰って来ないことにセフェリスは拗ねてしまったようで、 言葉尻はもはや哀しみすら滲んでいる。そんなセフェリスの頭をクレオはそっと撫でて、 なだめるように微笑みながら優しく語りかけた。
「それが、グレミオも、そしてテオさまにも急な用事が出来てしまったようなんです。 ぼっちゃん、テオさまとグレミオの代わりに、今からクレオとお買い物に出かけませんか? ぼっちゃんの好きなチョコレート入りのクレープを買ってあげますよ」
「…ホント?やったぁ!」
途端に目を輝かせるセフェリス。さっきまでグレミオのことしか考えていなかったのに、 食べ物につられてしまうなんてまだまだ子供で可愛らしいなとクレオは思うのだが…… セフェリスが成長してお菓子でごまかせなくなったとき、 この親子とグレミオがどうなってしまうか想像すると、クレオは恐々とせざるを得ないのだった。



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